58 洗濯ばさみ
スティーブ、シリル、ニック、そしてエマニュエルが第一工場の応接室で頭を突き合わせていた。
「この洗濯ばさみを商品化出来ませんかね」
とエマニュエルが言うと、スティーブとシリルは渋い顔をした。
「ばね鋼の線材はまだ生産量が少なく、こちらの領に回ってくるような事は無いでしょう。ましてや軍事研究が優先となり、民生品を作るとなると許可がおりないと思います」
シリルがエマニュエルに製鉄事情を説明した。
素材としてのばねの研究もおこなわれており、洗濯ばさみに使うようなばね鋼の線材もないわけではない。が、鋼板の生産が優先されるために、その生産量は多くなかった。
そして、その少量のばね鋼は軍事研究用として使われており、市場に出回るような事は無い。
なので、スティーブは自分の魔法で洗濯ばさみを作り、領地や知り合いに配っていたのである。エマニュエルもその一人だったのだが、その使い勝手の良さから、これは売れると確信したのだった。
なお、スティーブが魔法で作る洗濯ばさみは、線材のみで作った洗濯ばさみである。
「材料が無いと作れないねえ。僕が魔法で作るのは続かないから」
「安全靴があるではないですか?」
「あれは安全を優先するから話は別だよ。洗濯ばさみが無くても怪我をするわけじゃないし」
エマニュエルが安全靴の話を持ち出したが、スティーブに一蹴される。材料が無いのはなにもアーチボルト領だけのことではない。国中に無いので、洗濯ばさみを作る事が出来れば独占となり、かなりの利益が見込めるのだ。
その話を聞いていたニックが口を出す。
「まあねえ、うちのやつも若様に貰った洗濯ばさみを重宝していますんで、これがあったらみんな嬉しいでしょうねえ。作ったものを喜んでもらえるっていうのは、作り手冥利に尽きるってもんですぜ」
そう言われると、スティーブの心が揺らぐ。しかし、量産にはいくつもの課題があった。
「喜んでもらえるのは嬉しいけどねえ。魔法で作っているから道具はいらないけど、これを人の手で作るってなると結構めんどうだよ。安くもならないだろうし」
「そりゃあ経験済みですからね」
一度スティーブとニックは洗濯ばさみを試作していた。木を二枚あわせたものに、ばねをつける仕組みの洗濯ばさみだ。
樹脂成形のないこの世界では、洗濯ばさみですら作るのに手間がかかるので、日本のように安価には出来ない。洗濯物を干す時の手間とその値段を天秤にかけた時に、果たしてどれくらいの人間がお金を払ってくれるのかというのはある。
「じゃあ、若様が魔法でつくりゃあいいじゃねーですか」
「まあそうなんだけど」
「不都合はねえでしょう。売り上げが増えれば工場の経営だって安定する」
「いや、それは領地経営の資金だよ。僕が魔法で作った製品の売り上げを工場の売り上げに入れてしまっては、収支が不明朗になるだけじゃないか」
「工場の利益が伸びれば俺の給料が上がりますんで」
「それしかメリット無いじゃないか」
そう言いながらも、寝れば回復する魔力を毎日使わずに取っておくのももったいないかと考えて、洗濯ばさみを魔法で作る事を了承した。
銅価格はいまだ安値圏を這っているが、鉄はそれなりの需要があるので、いまだにスティーブが魔法で作った鉄をエマニュエルに卸している。そう考えれば、魔法で作った洗濯ばさみを売らないという選択肢はおかしいと判断したのだ。
「じゃあ、洗濯ばさみを定期便で卸すから、値段はそちらで決めて欲しい。魔法だと原価なんてないからね」
「承知いたしました。閣下。しかし、本来魔法こそ値段がつけられないほど高価な物でございますが」
エマニュエルはスティーブに頭を下げてからそう言うと、スティーブは苦笑した。
「他の魔法使いは出し惜しみしすぎだよ。魔力なんてどうせ回復するんだから、使わないと損じゃない」
「それは閣下が魔力量が膨大だから言えることでしょう。他の魔法使いでは、1日に使える魔力が少ないので、万が一に備えて使わないのです」
「万が一なんてそうそう起こらないけどね」
洗濯ばさみの話が終わると、ニックがスティーブに相談があると打ち明ける。
「若様、実は工場のことで相談があります」
「何かな?」
「作業者の一人が覚えが悪くて計算も出来ねえし文字も読めねえ。それでいてミスが多く、他の作業者からの苦情で一緒に作業をさせられんのです」
「それは困ったねえ」
スティーブは工場を経営しようと思ったときに、こうなることはある程度想像していた。
前世でも雇ってみたが使い物になら無い社員がいた経験があったからだ。使い物になら無いといって、解雇することが出来ないのが日本の法律だが、カスケード王国ではそんなことはない。
「で、本人はどうなんだろう。気づいてないか、気づいていて悩んでいるか、気にもしていないか」
「そいつは今すぐにでも仕事を辞めて、元の場所に戻りてえって思ってるんですが、そいつの奥さんが優秀でね。本人もやる気があるから、旦那が仕事を辞めて元の家に帰ろうって言っても聞かねえんですって」
「奥さんは何やってるの?」
「ライン作業なんですが、覚えも早くて手も早い。休みで欠員が出たところに応援に入れても、すぐに仕事を覚えるんで、俺も助かってます」
ニックの話では旦那は使い物にならず、辞めたがっているが、奥さんは優秀で仕事を続けたいというのだ。
工場は今のところ退職者はいないが、辞めたければいつでもどうぞというのがスティーブの考えである。
ただ、辞めた場合はその後の生活の保証は無い。農業には不向きな土地で、畑をやるにしても開墾して、灌漑を整えてとなるので、一人ではどうにもなら無い。
何らかの商売を始めるにしても、覚えが悪くて計算も出来ないような者では、成功するはずもない。
だから、移住前に住んでいたところに戻るくらいしかないのだ。しかし、今回のケースは奥さんの方は仕事を続けたいという。ならば離婚すればと言いたいが、それは非情だから出来ずに、スティーブに相談となったのだった。
そして、スティーブの前世での経験は、居づらくなった社員が退職してくれて終わったというものであり、今回みたいに辞めずに残りそうなパターンは未経験だった。
しばらく悩んだ末に、前世でその社員が辞める直前は掃除しかさせていなかったことを思い出した。
「そうだ、掃除をさせよう」
「掃除ってあのゴミを片付ける掃除ですか?」
「そうだよ。工場も稼働してしばらく経つから、汚れもするし埃もたまってる場所があるでしょ。それに、トイレ掃除も作業者が順番でやっているけど、勤務時間にやるから、作業に穴が空くじゃない」
「ああ、それなら作業者がずっと作業してられるし、掃除が不完全でも不良にはならねえですね」
町工場ではトイレ掃除は社員が順番でやることが普通だが、ある程度大きな工場では掃除専門の社員または、外部委託業者がいる。
工場と食堂を合わせると、それなりの規模となってきたので、そうした掃除も専任者がいてもおかしくはない。ついでに総務もほしいところだとスティーブは考えた。
給料の計算はスティーブとクリスティーナがやっているが、この前みたいに長い旅に出ると、代理のニック夫妻が忙しさのあまり、夫婦喧嘩を始めてしまうのだ。
経理や総務といった間接部門も適任者を見つけて、早いところ任せてしまおうというのだ。
ニックの相談がきっかけで、思わぬ気付きが得られた形だ。
その翌日、スティーブが洗濯ばさみを作っていると、ニックがやってきた。
「若様、説得は成功しましたぜ。辞めるか清掃業務かどっちにすると聞いたら、清掃業務を選びました。離婚して自分だけ元の場所に帰るのはやめ、奥さんもこれで工場に残るのが確定でさぁ」
「ひとまずは良かったね。これから、その作業者は大変だろうけど」
「ま、そうでしょうね。他の作業者からは見下されるわけですから」
「どうしても、製品を作ってる作業者が金を稼いでいるから、偉いと思いがちだけど、工場はそれだけじゃ回らないからねえ。掃除なんて汚い仕事で、余計に見下されるけど、誰かがやらなければ、汚い作業環境になるからね。経理だってそうだよ。物を売ってもお金を回収しなきゃ、給料も払えないんだから。ただ、みんなそれが理解出来ないんだ。だから、その清掃業務に就く作業者は馬鹿にされるだろうね」
「それを見て、ああはなりたくねえって思って、仕事に身が入るならこっちは歓迎ですよ。それがねえと、作業者どうしでまた、おせえだのミスが多いだのって始まりますから。こいつぁ、一人で工房をやってた時は考えもしませんでした」
ニックはボリボリと後頭部を掻いた。
大人数を雇っていた工房の親方の気持ちが良くわかったと言ってため息をついた。
スティーブには経験があるが、製造業というのは物を作って稼ぐので、どうしても現場作業者が俺たちのお陰で食えてるんだぞと言いがちなのだ。
それは正しくもあるが、間違いでもある。
営業、物流、生産管理、品質管理、経理、総務などがあって初めて組織が成り立つ。誰が偉いというものでもないのだ。
しかし、そうはならないのが現実であり、そして組織運営を難しくしている。
スティーブとニックは、今まさにその問題に直面しているのだ。
「次の移住の時は、なんか対策を考えないとね」
「まだ、移住者を募集するんですか?」
「そうせざるを得なくなるだろうね。国内の農業生産は今後増えていく予定だ。そうなると、農民の数が今のままでは多すぎることになる。結果として、農業で食えない連中が都市部に流入してくるだろうね。でも、都市部でも彼らに仕事は無いだろう。となると、受け入れ先として出てくるのは、この工場になるんだよ」
農業生産は確実に伸びていた。肥料をはじめとした土壌改良の研究が芽をだしており、緑の革命ともいえるような効果が数年後には現れることだろう。そうなると、農作物の価格は下落する。
そこに加えて、スティーブの提案した金融関係の社会システムが、貨幣経済を浸透させていくとなれば、農業では食っていけない者たちが出てくる。
彼らは職を求めて都市に流入してくることになるのは、産業革命の流れを知っているスティーブには予測が出来た。
そして、そう簡単に労働者の需要など増えないため、失業者を受け入れるのは、スティーブの工場になるだろうと予想していた。
失業者が増えれば社会不安につながる。オーロラはそうなる前に、スティーブに労働者の受け入れを要請してくるのは確実だ。
ニックはそれを聞いても理解出来なかったが。
二人の会話が丁度終わったとき、クリスティーナがタイミング良くやってきた。
「スティーブ様、実家の父から洗濯ばさみの追加の依頼が来ました」
「好評だねえ。久しぶりに義父の顔を見に行こうか」
スティーブはマッキントッシュ伯爵にも洗濯ばさみを贈っていた。伯爵はその価値を理解出来なかったが、使用人には凄く好評であり、弟に洗濯ばさみをわけて与えたところ、その評判が親戚中を巡って、自分の家にもほしいと伯爵への懇願が届いたのである。
現状非売品であると思っていた伯爵は、その懇願に応えるべく、娘に書簡を送って来たというわけだ。
なお、既にエマニュエルが洗濯ばさみを販売しているが、日が浅いのと西部地域で全て消費されてしまうことから、北部までは一般販売の連絡が行ってなかったのであった。
この時スティーブは軽い気持ちで、久しぶりにクリスティーナの実家に顔を出そうかと考えていたのである。まさか、この後大きな陰謀に巻き込まれるとは夢にも思っていなかった。