37 分離
シリルとアイラの結婚の承認は上手くいった。エアハート侯爵は既に独立した貴族としての地位を確立しているシリルに対し、反対したところで無駄であろうと理解していた。アイラの身分の問題も、一度アーチボルト家の養女となることで解決するので、問題にすることも無かった。
本音で言えば、シリルの結婚を他家との交渉の材料にしたくはあったが、それを強引に推し進める事でシリルとの溝を公にしてしまうマイナスを考えれば、素直に認めておく方が得策だと判断したのであった。
実際に、シリルの実母であるエアハート侯爵夫人は、いまや子育て成功の秘訣を聞きたいと、社交界で引っ張りだこになっており、その状況に水を差すような事は望んでいないし、夫人の怒りを買うのも遠慮したかったのだ。
ただ、最大限息子を利用するために、結婚式は侯爵が取り仕切るというのを条件として呑ませた。自分の一族の力を披露するのに、呼ぶ相手の選定から日取り、式の内容までを全て侯爵が手配する。シリルもそれくらいであればと承諾したのだった。
結婚の許可がおりたことで、王都のアーチボルト家はお祝いムードである。アイラは嬉しい反面、これから厳しい教育が待っている事への恐怖が入り混じった複雑な感情だった。アビゲイルは一時的とはいえ、自分の家の養女となるので、どこに出しても恥ずかしくないような礼儀作法を教育するつもりで張り切っていた。
そんなお祝いムードの翌日、スティーブはシリルと一緒に王立研究所に来ていた。本日は分離の実験に立ち会うためである。珍しい鉱石から物質を純度の高い状態で抽出するのだが、それがどんな物質であるかはスティーブの測定の魔法で確認するのが最適なため、王立研究所から招きがあったというわけだ。
現在はモリブデンの抽出に立ち会っている。これはスティーブにもメリットがあって、分離抽出については魔法が使用される。つまり、スティーブが分離の魔法を使えるようになるという訳だ。
「これでクロムとモリブデンが揃いましたね。焼き入れし易い鋼が作れそうですね」
スティーブがそういうと、分離作業を指揮していた技官の顔が曇る。
「本当はもっと色々な物質を分離して、条件を変えたトライをしたい所なのですが、農業研究部門からも分離の魔法使いの使用要請がありまして、時間が取れないんですよ」
「あー、その件ですか」
技官の話にスティーブには心当たりがあった。
農業生産向上のために肥料が欠かせないという話をシリルにしたところ、その肥料をどう調達すればよいかという話になった。
そこでスティーブが前世で見た厄介者のクラゲを畑にまくというのを思い出した。保水力があり、窒素・リン・カリウムを含み、抑草効果があるというのもだ。
カスケード王国においてもクラゲは海の厄介者であり、漁師たちはその出現に苛立っていた。売り物にもならないのに、売り物の魚を傷つける。時には網も駄目にする。
それが有効活用できるとなれば、漁師も喜ぶし領主も喜ぶ。
そして、その会話を聞いていた魔法使いが話に加わって来た。
「おかげさまで自分も扱いが良くなりました。今まで分離の魔法なんて、味付けに失敗した時の修正くらいしか使い道がないなんて言われていたのに、こうして鉱石の分離やクラゲの塩分除去で引っ張りだこです。これも全部竜翼勲章閣下のお陰です」
「あの、その呼び方は恥ずかしいので止めてもらえませんか……」
名前で呼ぶのが失礼になると考えた魔法使いが、スティーブのことを受勲した等級で呼ぶので、スティーブはとても恥ずかしかった。ただ、これは一般的な事であり、魔法使いが常識外れという訳ではない。
そして、止めて欲しいと言われた魔法使いは困惑する。本人としては分離魔法の地位をあげてくれたスティーブに対しての、精いっぱいの感謝の気持ちだったのだが、それが気に入らなかったと受け取ったのである。
それを察知したシリルがフォローする。
「スティーブ殿は恥ずかしがりな性格だからね。それに受勲して間もないので、そうした呼び方に慣れておられないんだよ」
「そうでありましたか。以後気をつけます」
魔法使いとしては、価値が無いとされていた自分の魔法が、いまや研究の最先端に必要なものとなったことで、待遇が一気に良くなったので、今度はそれを失いたくないと強く思っていた。分離魔法といっても、分離する物質がなんであるか知らないと効果範囲を設定できない。
だから、今迄は広く知られている塩くらいしか分離出来なかったのだ。錬金術師の研究で発見されるような物質も、そうして知られれば分離出来るという仕組みである。
なお、この魔法により水銀の同位体であるHg-196を分離して、そこに中性子を照射すればHg-197となり、それが電子捕獲によって金に変わるという錬金術が完成する。問題は中性子を照射する魔法使いがいない事だ。
同位体の概念は既にスティーブからシリルに伝えられ、それが報告書となっているので、分離魔法が使える魔法使いがそれを読めば、分離する事は可能なのである。
そうした手つかずの研究も多数あり、全てに物質の分離が関わってくるので、魔法使いの仕事はぎっちり詰まっている。そして、優先度は食糧がどうしても高くなるので、特殊鋼をつくる研究よりも農業研究が優先される。
窒素・リン・カリウムは既にスティーブの知識として肥料になるのはわかっているが、それ以外の物質での成長度合いの確認や、土壌の中にある酸の分離除去だったりと、時間がかかる研究が多くあった。目下、追加で分離魔法が使える人物の捜索が急務となっている。予算を組んで、魔法適性のある人物を片っ端からしらべるという荒っぽいやり方ではあるが、現状それしか手段が無いためそれをやっているのだ。
「あ、そんなにかしこまるような事じゃないです。それに、シリルさんだって最初は技官殿って呼ばれるのを嫌がって、結局シリルさんっていう呼び方に落ち着いたんだし」
「そう言えばそんなこともありましたね」
スティーブがシリルも同じだと言うと笑いが起きる。忙しくはあるが、膨大な予算が組まれて高い地位と遣り甲斐が与えられるので、雰囲気がとても良い。そして、分離魔法を覚えたスティーブは、こっそりエマニュエルのところに転移してクラゲを大量に注文した。
やせた土地の改良が出来る目途がたったので、一気に仕入れに動いたという訳である。
当面は農業生産の押上であるが、ゆくゆくは農業生産、食品加工、販売といった六次産業化をしていきたいという目標がスティーブにはあった。
その第一歩となる農業生産向上のための分離魔法を取得したのは大きな成果であり、スティーブにとっては受勲以上に価値のあるものであった。
午後になると、今度は庭でスティーブが魔法で線路を作る。そこにやはり魔法で作ったトロッコを走らせた。
所謂シーソートロッコで、シーソーの上下運動で車輪を回転させる。
枕木が無いが、それはデモンストレーションの用途だけであるので、今だけスティーブの魔法で軌道の形状が維持できればよいということからだ。
「車輪が円ではなく円錐になっているのは、脱線を防ぐためですね。円錐であることによって、常に線路の中央に戻ろうとする力が働きます」
スティーブとシリルは既にアーチボルト領でトロッコの試作を行っていた。土砂や荷物の運搬を本村と新村の間で行い、その有効性を検証済みである。ただ、鉄道敷設事業の費用対効果を考えると、後回しにされそうな内容だったので、王都に来たついでにお披露目したという訳だ。
これが蒸気機関車も走らせられたなら、優先度は一気に上昇したかもしれないが。
ただ、これを鉱山開発に利用しようとすれば、本来の技官の仕事である。当然担当者を決めて実用に向けた研究が開始される。
年配の技官が笑いながら
「これは興味をそそられますが、もう研究所の職員はみな手一杯ですからな。予算がついたとしても研究者がおらんでしょう」
と言った。
現に、王立研究所は来年度は質を下げる可能性があっても、研究者の採用枠を増やすべきかどうかという議論が起こっている。
王立といいつつも、各地の貴族が利権を睨んでその研究成果を奪い合っている状況だ。下手をしたら、自分の利益を優先するために、他の研究を潰すくらいのことは平気でやってくるだろうとは、研究者はみな考えていた。
「シリル殿には戻って来てもらいたいところだが」
先程の年配の技官が、シリルを見ながら冗談とも本気とも取れる雰囲気でそう言った。シリルは困った顔でスティーブを見る。
「シリルさんが栄転されるなら喜ばしい事ですね。寂しくなりますが」
「自分はまだまだスティーブ殿から学ばなければならない事があります。戻るくらいなら、ここの職を辞して、アーチボルト領に骨を埋めます」
「ああ、それは困ります。自分の手に負えない研究を、シリルさんを通してこちらの研究所に丸投げする事が出来なくなりますから」
「お二人からの情報が来なくなったら困りますな。いや、今の状況だと来ても困りますが」
困るといいつつも、そこは研究者としての興味がわいたようで、トロッコとレールを観察しながらスティーブとシリルにあれこれと質問をするのだった。
アーチボルト領でスティーブたちが敷設したトロッコは、平坦な土地に真っ直ぐなものであり、鉱山で使うためには逆走防止の仕組みや、曲がりくねった軌道でも脱線しない工夫を追加しなければならない。それに、枕木も本来は必要になってくるので、その事も説明した。
すっかり日が暮れたころ、スティーブとシリルは王都のアーチボルト家のタウンハウスへと帰宅した。
そこでスティーブに来客があり、サロンで待たせていると伝えられる。
「ダフニー・シールズ様がお見えになります。今はサロンにてスティーブ様の帰宅をお待ちいただいておりました」
その名前を聞いた時、スティーブはとても嫌な予感がした。
オーロラから聞いていた情報が頭をよぎる。
巻き込まれたくないと思っていたが、どうやらトラブルは向こうからやって来たようだった。