19 現物売り
銅相場は膠着状態にあった。何故ならば、現物は市場に出回らずに値段がつかない状況、先物は350にサリエリ商会の無限売り指値。先物の期近最終売買日までは一週間となり、陸路も海路も銅が入ってこないのを見た商人たちは、先物の買いを緩めるような事はしなかった。
当然カーシュ子爵とバルリエも先物を大量に買っている。丁度今、二人は最終売買日までの売買についての最終打ち合わせを行っている。場所はカーシュ子爵のタウンハウス。そこには西部地域からカーシュ子爵派の貴族たちも集まっていた。
当限月の売買でソーウェル辺境伯家は莫大な損失を被り、その結果資金力が衰え求心力は衰える。それに代わってカーシュ子爵が西部地域を率いるようになれば、今現在子爵の派閥に属している自分達が後からきた者達よりも優位に立てると考えていたのである。
当然カーシュ子爵は上機嫌であった。とっておきのワインを開けて皆に振る舞い、勝利の前祝いだとうたう。
「それで、建玉はどれくらいになった?」
ワイングラスを片手にしたカーシュ子爵は、バルリエに現在の建玉を訊ねる。
「閣下の建玉が6,500枚、そして我ら全て合わせて8,900枚となっております」
「中々のものだな」
「はい。我々以外にも買いが入っており、合計の建玉は15,000枚近くになるかと」
それを聞いたカーシュ子爵は笑い出した。
「はっはっは。15,000枚だと。それではどうやっても受け渡しは無理だな」
カーシュ子爵が笑うのには理由があった。カスケード王国での銅の産出量は一年間で15,000トンである。産出されるもの以外に、市場に出た物が再度売りに出されることもあるが、それにしても合計の年間取引量は精々が20,000トンである。
陸路を封鎖せずとも、そんな量を集めるのは不可能だ。
「決めたぞ、バルリエ。買戻しの注文は金貨500枚で指せ」
「随分と上でございますね」
「現物が無ければ、最終売買日までに反対売買をするしかない。となれば、どんなに高くとも買うであろう」
カーシュ子爵の言う事は正しい。ソーウェル辺境伯の差損は1枚あたり金貨150枚。これに先物の建玉が15,000枚程度なので、損失額は実に金貨2,250,000枚となる。証拠金はあくまで証拠金であり、それ以上に損をするのが先物取引である。
この場にいる一人の男爵がカーシュ子爵におべっかを使う。
「今頃辺境伯は泣きながら銅をかき集めている事でしょうな。閣下の策略とも知らずに巨額の売りを積み上げた愚かさに気が付いた頃ではないでしょうか。所詮は頭の出来が違いますから」
「あれが大きな顔をしているのは、先祖がたまたま上手くやっただけの事。自分の力で手に入れた地位ではないからな」
カーシュ子爵も上機嫌で話に乗る。貴族たちは男爵以上にカーシュ子爵の印象に残りたいと、次々にオーロラを貶す話を始めたが、それを聞きながらもバルリエは心のどこかに不安があった。
オーロラは貴族たちが言うような無能ではない。それは何度か取り入ろうとしていた経験のあるバルリエだからわかっている事であった。頭の回転が速く数字に強い。
そんな彼女が国内取引量と同等の建玉を期近だけで建てた。なにか裏があるのではないかとどうしても考えてしまうのだ。
確認できる状況では、ソーウェルラントには銅は入荷していない。あと一週間ほどしかない状況では、陸路の封鎖が無かったとしても輸送は不可能だ。取引所のルールも穴が開くほど確認した。力技で取引を無かったことに出来るようなことはない。それに、相手は商人ではなく貴族である。取引を無理やりなかったことになどは出来るはずもない。
それでも、何度も考えすぎかと不安を払拭しようと思ったが、今までの商人としての経験が気を付けろと警告を発していた。
そして翌日異変がついに起こる。
サリエリ商会から銅の現物が売りに出されたのだ。それも10トンの銅が一気にである。その話が伝わると取引所は騒然となる。
「銅の現物があるなら買えるだけ買うぞ」
「俺が先だ!」
「こっちは1トン金貨370枚出す!」
サリエリ商会の前には銅を求める商人たちが群がった。なにせ、10トン程度であれば先物の価格には全く影響がない。それに、カーシュ子爵たちの資金力であれば全く問題なく買い占める事が出来る。それがわかっているから、我先にと買いに走ったのである。
そんな商人たちにサリエリ商会の店員が言う。
「ご安心ください。銅はまだまだございます。直ぐに追加で持ってまいりましょう」
「まだあるのか!」
その言葉に商人たちは驚いた。そしてそれが本当かと疑う。しかし、その言葉どおり銅は次々と運ばれてきた。何台もの馬車がサリエリ商会とソーウェル辺境伯の居城の間の道を埋め尽くす勢いだった。居城から商会に銅を運び、荷が無くなるとまた居城に戻る。そして新たな銅を積んで商会へと向かう。
そして、銅を買った商人たちはそれを自分の商会へと持ち帰るので、サリエリ商会の周辺は大渋滞となった。
その話は直ぐにバルリエにも入ってきて、慌ててカーシュ子爵に報告に行く。
「閣下、サリエリ商会が大量の銅を売りに出しております」
慌ててやって来たバルリエを見て、カーシュ子爵はなんでこいつはそんなに焦っているのだと怪訝そうに見た。
「大量の銅があるはず無かろう。それは相手のはったりだ。お前ともあろうものがそんな手に騙されるのか?先月も同じ手を使ってきたであろう」
「いえいえ、それが今回の売り出しは100トンに迫る勢いでして。さらに、それでもまだまだ在庫はあると言うのです。現に辺境伯の居城からサリエリ商会へと途切れることなく銅を積んだ馬車が来ております」
「その銅は偽物ではないのか?」
バルリエの報告がにわかには信じられず、カーシュ子爵は銅が偽物であることを疑った。
「それはこちらも確認を急がせておりますが、まずは現物の買い占めを継続させておる次第です。偽物であれば返金の要求をしますので、ご安心ください」
「そうか、偽物であれば面白いがな。だが、それでも高々100トン程度では、先物の建玉の一割にも満たないではないか。しかもそれを売りに出すとは」
「いえ、先ほど申し上げましたように、在庫はまだまだあると言うのです」
「どの程度の量があるとは言っておらんのか?」
「はい。私の方では辺境伯の居城の中の情報をとる事はできませんので、その総量がどれほどのものかは」
平民の商人であるバルリエは、当然ソーウェル辺境伯の居城の中の情報を得る事は出来ない。バルリエはカーシュ子爵に情報をとるようにお願いをしているのである。ただ、取ってほしいと直接的に言わず、回りくどい言い回しになっているだけだ。
「わかった。そちらのほうは俺が何とかしよう。バルリエは現物の買い占めを頼む」
「承知いたしました。しかし、手元の現金がいささか不安でございまして」
「わかった。直ぐにお前の商会に金貨を届けさせよう。これを買いきってしまえば、もうあちらには売り崩す手段は無くなる。最後のあがきだからな」
カーシュ子爵は直ぐにソーウェル辺境伯の手持ちの銅の量を調べることと、バルリエ商会に現金を運ぶことを指示した。バルリエはその指示を確認して自分の商会に戻ることにした。
その頃、サリエリ商会では銅の買い付け注文の処理と、引き渡しで大混雑となっており、臨時の店舗をソーウェル辺境伯の居城の前に開設すると通達した。これで二箇所で銅の販売が可能になり、尚且つ、本来の店舗までの運搬が半分になったことで、客の回転が飛躍的に良くなった。
ただし、銅を出庫してくるのにどうしても時間が掛かるため、売買契約を先に締結してから出庫を待つことになる。出庫自体はソーウェル辺境伯の許可があって、24時間体制で行われるとなっていたが、それをわざわざ公表するようなことは無かった。売り切れてしまうかもしれないという気持ちがあることで、客は高値でも銅を買ってくれるからだ。
そして翌日になっても銅の現物の売り物は出続けた。流石にその日は買い付けている商人たちも不安になってきたようで、昨日程の押し合いへし合い、順番を巡って喧嘩になるようなことは無かった。
それどころか、昨日買った分を早いところ売りにだそうと、自分の商会に急いで帰ってしまう者も出始めた。なにせ、無限に銅が売りに出されるので、このままでは値崩れするのが見えていたからである。
それに対抗するのがカーシュ子爵の現物買い占め。逃げ足の速い提灯筋を落ち着かせるために、バルリエは自分の商会で銅の買い取りをすることを大々的に宣伝する。勿論その資金源はカーシュ子爵と派閥の貴族が出資している。
自分達が売り惜しみしている銅を、市場で高値で大量に買いつけることになったカーシュ子爵の目論見は崩れかけていたが、ここまでにつぎ込んだ資金を考えると後には引けなくなっていた。そして金額よりもオーロラに敗北したという事実が出来る事を恐れていた。
そんな市場の様子をスティーブはオーロラと一緒に彼女の執務室でハリーから受け取っていた。なお、本日はサリエリ商会の会頭であるサリエリも同席している。
「そういうわけで、こちらが放出した銅の現物を買った商人たちは、バルリエ商会に持ち込んでいるようです。お陰でサリエリ商会の賑わいは無くなってしまったと。それと、カーシュ子爵の手のものがこちらの使用人に接触を試みたようですが、銅の保有量についてはわからないと答えたと報告をうけております」
報告を受け取ったオーロラは満足そうな笑みで頷くと、テーブルにあったお茶のカップを手に取り一口飲んだ。そしてカップを元の場所に戻すと、サリエリに指示を出す。
「サリエリ、バルリエ商会の買い取り値よりも大幅に下げて銅を売りなさい」
「それはよいのですが、それであれば直接こちらがバルリエ商会に銅を売り込みに行きましょうか?」
とサリエリはオーロラに提案した。
「それで相手が買わないと言ったら意味が無いわ。お前とバルリエが売り買いで対立しているのは誰もが知っていること。買い取りを拒否したところで相手の印象は悪くならないけど、それが他の商人だったらまた違ってくるでしょう。仮にここでバルリエが勝ったとしても、イメージが悪くなればその後の商売に影響が出るわよ。相手もそれを考えるでしょうね」
「そこまでは思い至りませんでした」
サリエリはオーロラに頭を下げた。
そして、オーロラは今度はスティーブの方を見る。
「それにしても、この城に入りきらないほどの銅を作り出せるなんてすごい魔法よね。銅鉱山が無価値になってしまうわ」
「いえ、閣下。私が死ねばその魔法も無くなりますので、鉱山開発は継続しなければなりません。私が生きている間でも、技術の継承というのには時間が掛かりますし、一度途絶えてしまえば復元は難しいものですので、鉱山開発は継続するべきでしょうね」
スティーブはそうこたえた。
現在売りに出されている銅はスティーブが魔法で作ったものである。ただし、スティーブでも一度に大量の銅を作るのには魔力が足りないので、オーロラに場所を借りて作り続けてきたのがこれであった。
「それもそうね。でも、生きている間なら銅相場をどうにでも操れるじゃない。その気になれば大陸の銅価格を支配することも可能でしょう」
「興味はありませんよ。銅をいくら作ったところで領民の腹は膨れませんから」
「欲が無いわねえ。それが本心なら安心よ。怪物を相手にしなくて済むのだから」
それはスティーブの本心であった。スティーブのつくる銅で収入を得たところで、それが出来るのは精々50年程度である。スティーブの亡くなった後にはなんの産業も無い領地が残るだけ。そうなれば領民は飢えてしまう。
とりあえずの目の前の資金難を乗り切るためならば仕方がないが、それを長期間するつもりはない。
「僕からしてみたら、閣下を相手にするほうが大変ですけどね。魔法使いが常人の手に負えないのであれば、国王は代々魔法使いになっているはずです。人を支配するのは魔法ではなく政治ですよ。そして、魔法使いよりも政治家の方が手ごわい」
「それは確かにそうね。動物の群れじゃないんだから、力だけでは人は支配出来ないわね。その事にその年齢で気づくなんて、余程親の教育が行き届いているようね」
「父には閣下からお褒めの言葉をいただいたと伝えておきます」
オーロラとスティーブのやり取りを見ているサリエリには、スティーブが年齢に似つかわしくない思考をするので、中身は老練な貴族ではないかと思えていた。今回の仕手戦でもオーロラに最初に売りを指示された時は大反対したのだが、最終的な売買までのストーリーを聞いて売り向かう事を承知した。
その時は流石はオーロラであると感心したのだったが、その後本尊がスティーブだと聞いてどうしても信じられなかった。しかし、スティーブが頻繁に出入りしているエマニュエル商会だけは、最初の売りのタイミングから、ドテン買いのタイミング、そして再びのドテン売りのタイミングと完璧であった。
サリエリの仕掛ける回転売買ですら、阿吽の呼吸で注文を出してきている。
確認できた事実を積み上げた結果、スティーブが本尊という結論になったのだが、それでも僅か10歳の子供がこんな大相場を操作しているとは信じられなかったのである。
そして今日、対面してその言動を見聞きして納得した。
オーロラがその知略でドロドロとした貴族社会を生き抜いているとしたら、スティーブは知略に加えて魔法という特異がある。将来的にはオーロラすら超えるのではないかという予感がしていた。
「まあいいわ。今後手を組むかどうかは後にしましょう。既に1,000トンの現物売りの注文を受けているから、これを相手が1トン金貨360枚で買うなら現金は枯渇するでしょうね」
オーロラは話題を本筋に戻した。
カーシュ子爵の資産がいかに多くとも、カスケード王国には現代の日本のように、現金を銀行で振り込んで世界中に即座に移動出来るような仕組みが無い。全ての現金をソーウェルラントにあるタウンハウスに持ってくるわけにはいかないので、全財産で買い支えるという事は出来ないのだ。
そして、オーロラが調べた情報では、カーシュ子爵一派とバルリエ商会が用意できる現金では、1,000トンを買い支えるのは不可能だということだった。
ついに銅の大相場は終焉を迎えることになる。