18 吊り上げ合戦
ソーウェルラントの商品先物取引所は異様な熱気に包まれていた。カーシュ子爵が銅の流通を止めたことは公然の秘密であり、銅を扱う職人たちは仕事が出来なくて子爵の陰口を言っていたが、その不満の矛先の一部は子爵にいいようにやられているソーウェル辺境伯にも向けられていた。
とある工房にて。
「親方、銅が入手出来ないんじゃ鉄を使って鋳造しちまいましょう」
弟子が銅が入手出来ないため、鉄を使って鋳造をしようと親方に提案した。銅といっても鋳造する際には錫を混ぜて青銅にする。この工房では青銅の扉や鐘を主に作っていた。
「馬鹿野郎、鉄を溶かすのに温度を上げるのが大変だろうが!」
親方の怒声が飛ぶ。
青銅の融点は730℃程度に対して、鉄は鋳鉄でも1200℃程度であり、その温度は500℃も離れている。人力で温度をそこまで上げるとなると大変であるし、温度計もないので普段と違う材料を鋳造するとなると難しい。親方はそれを知っているが、弟子はそれを簡単に考えているので怒られたというわけだ。
「まったく、銅の価格を下げてもらわねえと仕事にならねえよ。お貴族様は何やってんだか」
「親方、誰かに聞かれて通報されたらまずいですよ」
「どのみちこのままじゃあ仕事にならずに、飢え死にしちまうわい」
こうした愚痴は各所で聞こえた。工房だけではなくそこの客も注文した物が入荷しないことになり、やはり不満は溜まってくる。スティーブが最初は半年くらいかけてカーシュ子爵をやっつけようと考えていたのに対して、オーロラが二ヶ月と期限を区切ったのはまさしくこの事態を予期してのことであった。
そして、庶民の不満を嘲笑うかのように銅の現物価格は上昇していく。先月の高値を抜いて1トンあたり金貨250枚となってもその勢いは止まらなかった。売り物が出れば即座に買い手がつく。そして現物の値上がりを追うように先物も値上がりした。
勿論これは本来売り方であるソーウェル辺境伯が、買いに回って回転売買をしていることもあった。が、複数の仲買人とそこに注文を出す商人を使う事で売り本尊が買っているとはばれなかった。大きな売り指値を複数の小口の買い注文で買い、売り注文が食われたところで雑な買いが入る。はた目に見ていれば、売り方が踏まされてしまったとしか見えない。
ただし、その注文の殆どは仲間うちの玉のやり取りだった。
それに気づかないカーシュ子爵は上機嫌であった。タウンハウスにバルリエを呼び、相場の状況を確認するが、終始笑みがこぼれていた。
「バルリエ、相場の状況はどうなっておるか?」
「はい、閣下。現在現物価格は1トンあたり金貨280枚まで値上がりいたしました。先物は278枚ですが、明日には両方とも300を超えている事でしょう。それにサリエリ商会の先物売りは直ぐに食われて、上で買戻しを繰り返しております」
銅価格はついに元々の価格から4倍ほどに値上がりしていた。ここまでくると狂乱である。しかも僅か一ヶ月で駆け上がってきたとなれば、前代未聞の出来事であった。
カーシュ子爵は自分の相場操縦が成功していることに非常に満足であった。
「うむ、よい報告だな」
「ええ、ですが――――」
とバルリエが言葉を濁した。すかさずカーシュ子爵はその理由を訊ねる。
「何か問題があるのか?」
「はい。実は提灯がつきすぎて先物の建玉がなかなか集まらないのです。我々の指値よりも上を買われてしまいます」
「なんだ、そんなことか。では今後は売り板にぶつけるように注文を出せばよいではないか」
「自ら高値を買うおつもりですか?」
「当然だ。女狐が踏まされて買戻しを繰り返しているのを見れば、奴らには売り崩すだけの力は無い」
強気の姿勢のカーシュ子爵。買い本尊が上値を買うのは仕込みの時と仕上げの踏み上げ相場の時が基本である。普段から本尊が高値を買っていては、儲けが少なくなるし売り崩しにもあいやすい。上値は提灯筋に買わせていくのがセオリーなのである。
そんなセオリーを崩すことにバルリエは不安があったが、本尊であるカーシュ子爵が買えといえば買わないわけにはいかない。翌日からはバルリエ商会が主体となって買い注文を出すことになった。
勿論、その動きをスティーブとオーロラが見逃す訳が無い。二人は再び密会をしていた。
「バルリエ商会が上値を買ってきましたね」
「ええ。相当な自信があるようね。こちらはどうするの?」
「先物価格金貨350枚のところに無限に売り指値をしましょう。証拠金勝負に持ち込んで、相手の限界まで建玉を増やしてやります。相手はこちらが現物を持っていないと思っている事でしょうし、意地になって買ってくるはずです」
スティーブがオーロラに視線を送ると、彼女はそれを受け取って頷いた。
「うちの者に接触して、銅の在庫量を確認してきたそうよ。手筈通り在庫量が少ないと伝えてあるわ」
「それは重畳ですね。我々が空売りであれば受渡期日まで先物を買い戻しさせなければよいだけですので、どんな高値でも買ってくる事でしょう」
「子爵の資産は現金と換金性のよいものでざっと金貨50万枚くらい。鉱山や領地の価値が100万枚くらいだけど、そこまでのってくるかしら?」
カーシュ子爵の資産を調べたオーロラの情報はスティーブも先に聞いていた。この資産額は子爵としてはかなり多いほうだ。伯爵に比肩すると言ってもいい。だからこそカーシュ子爵もオーロラに取って代わろうという野望を持つわけだ。
「そこで先物の証拠金取引というのが重要な役割となります。子爵の現金が金貨50万枚といっても建玉1400枚程度ですから、証拠金としては微々たるものです。受け渡し日までに反対売買すればいいと考えて、建玉を増やしてくる事でしょう。現にバルリエ商会が強気で上値を買っており、今の相手の建玉は1000枚程度ですから」
仲買人が受けた注文は、発注が誰であるかを報告する義務がある。これは精算事故があった時のための措置だ。しかし、リアルタイムでの報告は困難であるため、取引後三日以内に取引所に報告することになっている。
なので、取引当日に判るのは仲買人の出している注文だけになる。そこから手張りの注文や本尊の注文数を推定していくわけだ。
「ただ、閣下にはカーシュ子爵を煽る為に、時々取引所に足を運んでいただくことになりますが」
「それは構わないわよ。相手は私が陣頭指揮を執っていると思って熱くなる事でしょうね。精々目立つようにふるまうわ」
閣下は何もしなくても目立ちますよという言葉をスティーブは呑み込んだ。元々の美貌に加えてそれらを飾り立てるのにふんだんにお金を使えるオーロラは、西部一の美女であるといえる。そして、一番の権力者でもあった。そんな彼女が目立たないわけがない。
「それと、先物価格が350に到達したら、現物を放出していきましょう」
「カウンティングしてくるでしょうね」
「ええ、ですから今の手持ち分をきっちり売り切ったら、そこで一旦現物売りを止めます」
ここでいうカウンティングとは、カーシュ子爵側がオーロラが売りだした銅の現物をカウントして、自分達が掴んだ情報と照らし合わせる行為をいう。相手に渡した情報分だけを売れば、相手はこちらの手持ちが尽きたと判断することになるだろう。
その結果、先物は完全な空売りとなる。現物を入手出来ない状態での空売りなので、いつかは買い戻さなければならないのは明白。と思わせるための演出ではあるが。
そして翌日、一気に買いが入って銅価格は金貨350枚まで上昇した。ここでサリエリ商会が防戦売りになり、無限に指値注文を出してくる。同時に現物の売りを出して、その様子をオーロラが取引所に監視しにやって来た。
また、その日はカーシュ子爵もバルリエを伴って取引所にいた。
オーロラは早速サリエリに発破をかける。
「もっと銅の現物を売りなさい。価格が上がったままじゃない」
そういわれたサリエリは恐縮する。
「ただいま手元に銅がございませんので」
「ならば船を使ってでもかき集めなさい。開いてる船室にも詰め込んで持ち帰ってくるように指示を出すのよ」
「かしこまりました」
そのやり取りを見ていたカーシュ子爵はバルリエに耳打ちする。
「売りに出された銅の量は?」
「こちらが仕入れた相手の手持ちのほぼ全てかと」
「それで焦って船でかき集めろと喚いているのか。陸路は我が家でせき止めているから、海路しかないというのは理解できているようだが、船では急いだところで受け渡し日には間に合わんだろうな」
「はい」
現在は受け渡し日まで二週間を切っていた。王都や外国の港にいって銅を買い付けて、ソーウェルラントに戻ってくるには時間が足りない。カーシュ子爵にしてみれば、オーロラはそんなことも計算できずに喚いていると見えた。
そして、先物に蓋をしたところで、現物はそういう訳にもゆかず、現在は1トンあたり金貨360枚という値段がついていた。だが、それでも現物の売り手はサリエリ商会しか出てこない。なぜなら、みんなが最終的にはサリエリ商会が現物を高値で買う羽目になると思っていたからだ。
その日、取引所ではオーロラを恐れるものは無く、彼女の前であっても皆が買い注文を出した。
さらに、現物が買えない商人達は先物の買戻しに期待をして、バルリエ商会に提灯を付けて無限に売り注文が出てくる金貨350枚の価格を買っていった。
先物自体にレバレッジがかかっており、証拠金があればその100倍の量の売買の予約が出来るのに、借金をして証拠金を増やし、それで先物を買い始めたのだ。尚、証券金融のような金融取引のための証拠金を貸す金貸しの金主は、実はソーウェル辺境伯家であった。
オーロラは自分に向かい玉を建てる買い方に、自分の家の資金を貸していたのである。これは、自分に対抗したものは絶対に許さないという彼女の意思であった。勿論、証券金融の構想はスティーブの発案である。
日本には日証金、日本証券金融株式会社という代表的な証券金融会社があるし、兜町などでは株券や現金を担保にお金を貸してくれる金融屋が存在する。そうした知識を使って、オーロラに提案したのだ。
そして、そんな相場の狂乱を見ていた中にいたのが、スティーブとエマニュエルである。
エマニュエルはスティーブに注文を確認した。
「スティーブ様も350に売りでよろしいのですよね」
「勿論だよ。閣下がここに売り指しをしているということは、これ以上上では売れないからね」
「では、スティーブ様と私自身の注文を出します。それにしても、買い一食(一色)ですね。サリエリ商会と我が商会以外に売り手はいませんよ」
仲買人であるエマニュエルは同業者の出す注文を見ていた。その全てが買い注文である。スティーブがいなければ、自分も買い注文を出しているだろうと思っていた。
「最高の展開だよね。これで売り崩せたら、サリエリ商会以外の商会はエマニュエルに一目置くことになるんだよ」
「一目置かれるか、変人と見られるかはわかりかねますが。ここで売れるのは商人ではなく、政治家ですよ。計算が出来る商人であれば、状況判断から買いに回るのは当然で、売るのは大儲けか大損かのギャンブルであり、商売ではありません。私が売っているのは結果が予測できる立場であり、いわばずるですからね」
「人の行く裏に道あり花の山だよ。付和雷同しては大成は出来ないから。それを今買っている連中に学ばせてやらないと」
いたずらっ子のように笑うスティーブに、エマニュエルは苦笑した。
「スティーブ様を見ていると、本当に子供なのか信じられません」
「見た目通りだよ」
「いえいえ、これが子供であるというのならば、辞書にある子供の意味を書き換える必要があるでしょう。一般的な10歳の子供は相場で海千山千の商人を手玉にとったりは出来ませんから」
エマニュエルにそう言われて、スティーブはフフッと笑った。
「ねえ、エマニュエル。僕には前世の記憶があって、それを使っていると言ったら信じる?」
「それが一番納得できる説明ですね。記憶を持って生まれ変わるなど聞いたことはありませんが、そうでもなければスティーブ様の業績は説明できませんよ。本当のことですか?」
「まさか。フライス聖教会は魂の転生について教義ではなにも言ってないからね。本当にそれがあるなら、教義にも何かしらの言及があるでしょ」
スティーブはとぼけた。エマニュエルも本気で転生しているとは思っておらず、その話はそれ以上はしなかった。
そして相場は終焉へと向けて加速していく。