177 まさかのニック
翌日、経済革命クラブの三人は学校を休んでいた。最後の仕上げをするためである。当然スティーブの許可を取ってのことであった。そして、売り注文は変わらず10,001ドラに6,000,000株の売り注文がならんでいた。買えるものなら買ってみろという売り方の意志である。
その日は利食い売りが優勢で株価は9,700ドラ付近を行ったり来たりしていた。ところが、前引け(午前中の取引終了)間際になると、一気に買い注文が入る。
株価はどんどんと上昇し、6,000,000株の売り注文を全て買ってしまった。
そして前場が引ける。
お昼休みとなると、フレミング商会から株式分割の発表があった。株価が高くなったので、分割して買いやすい株価にしようというのである。期日は一か月後。
これがミハイルの考えた方法であった。
後場の取引が開始すると、売り注文がほぼ無くなり株価は20,000ドラに到達する。
何故こんなことが起きるかといえば、株を分割するために、一度証券会社に集める必要があるからである。つまりは、市場内で流動する株が極端に少なくなり、なおかつ空売りしていた投資家は買い戻さねばならなくなるのである。
本来の株主は、分割した株を手に入れるため株を一度証券会社に渡す都合があるため、返却を求めるのだ。期末決算でも株主名簿の確定のために、株券を返却することもあるが、それをしなくとも配当金はもらえる。株主総会での権利が無くなるだけなのだが、分割となれば話が違う。
フレミング男爵が担保に差し入れた株をアンリ商会に貸していた銀行も、この発表により一時的に株を返してもらう必要が出来たのだ。
そうした流れがわかっているからこそ、売り注文が出なくなるのだ。
そして、悪いことにネイキッドショートで売った者は、買った投資家から株の提出を求められるので、何としても市場で買わなければならない。
アンリ商会の会頭はこの情報をカッター伯爵に持って行った。
「閣下、一大事にございます!」
「どうした?」
「フレミング商会が株式の分割を発表いたしました」
「それが?」
カッター伯爵はこの時株式分割による値上がりの仕組みを知らなかった。だから、分割程度で何を慌てているのかと呆れたのである。
だが、会頭の説明を聞いて青くなった。
「まずいではないか。しかも、前場に売り注文が全部食われただと」
「おそらく早耳情報を仕入れたものによる買い注文かと」
「今、株価はどのくらいだ」
「私が出るときには20,000ドラに迫る勢いでした」
「なんだと!」
カッター伯爵の売り玉は9,000,000株程度であり、約9百億ドラの損失であった。
いかに伯爵といえども簡単に払える金額ではない。
そして、決済しなければ追証となるが、売り注文で動かせる資金の殆どをつぎ込んでしまったため、追証の差し入れも難しいのだ。
さらに、アンリ商会も手張りという自分の注文で空売りをしていた。伯爵に提灯をつけていたのである。アンリ商会だけでなく、他の投資家も本尊の伯爵に提灯をつけている者が多く、今現在株の奪い合いとなっていた。
「どうすればいいと思うか」
「フレミング男爵に分割を取り下げさせるべきでしょうか。それ以外に方法はございません」
「ならば、娘を人質にするか。学校が終わってから、夜こちらに行儀見習いとしてやってくる。身柄を押さえて、それを賊のせいにすればよいか」
カッター伯爵は直ぐに家令を呼んで、その指示をした。
あとは、ジャスミンの身柄を押さえてからの交渉である。
夕方、ジャスミンが屋敷にやってきたのを確認すると、カッター伯爵はあらかじめ用意していた脅迫文をもって外出した。行先はフレミング男爵のところである。この時間は男爵は商会の売り上げを締めるため、商会の方にいることが多い。だからそちらへと向かった。
そして、そこにフレミング男爵はいた。
「突然の来訪すまない。緊急事態でな」
「緊急事態でございますか?」
男爵は怪訝な顔で伯爵を見た。
「先ほど我が家にこんなものが届けられた」
そう言って取り出した書状には、ジャスミンを誘拐したことと、株式の分割を取りやめれば解放するという要求が書いてあった。
カッター伯爵はジャスミンを解放するつもりなどなかった。
なにせ、身柄を押さえたのは自分の屋敷である。解放すればそれがバレるので、殺してしまうつもりだった。
ただ、話を聞いた男爵に焦りはない。伯爵はそれが不思議だった。
「誰がそんないたずらを」
「いたずらだと?」
「ええ、娘ならここに」
男爵がそう言うと、ジャスミンが奥から出てきた。
「何っ⁉」
伯爵は驚く。ジャスミンが来て直ぐに出たのだ。徒歩の娘に追い越されるようなことはないはずである。
驚きの表情を見せてしまった伯爵であるが、すぐに冷静さを取り戻した。
「無事であればよかった。しかし、今日は我が家に来るはずではなかったかな?」
「お伺いいたしましたが、閣下のお屋敷には賊がおりまして。捕まりそうになったところを助けていただいたのです」
そう答えるジャスミン。何故か顔が赤い。
「賊が、我が家に?」
伯爵がそう言ったとき、さらに奥から女性の声がした。
「あらあら、王都も物騒ね」
「東部は治安がよろしくてよ」
そこに登場したのはオーロラとイヴリンであった。
伯爵は今度も驚き混乱する。何故国内屈指の大貴族である二人がフレミング商会にいるのか理解が出来なかった。
だが、次の瞬間それを理解する。
オーロラの真っ赤な唇が動いた。
「それでね、伯爵。私はこの商会の株を5,000,000ほど持っているのだけれど、お譲りしてもいいのよ」
「あら、ソーウェル辺境伯閣下、奇遇ですわね。私も同じ株数をそろえておりましてよ」
伯爵は自分がこの二人の大貴族に狙われていたことを理解した。
そして、ジャスミンを人質にしようとしたこともばれているだろうと。
「まあ、フレミング商会の株だけではなく、カッター卿の他の商品の建玉にも、向かい玉が建てられていそうですけど」
それを聞いて伯爵は逆上した。どうせ自分はもう終わりである。二人を前に取り繕うことはしない。
「ふざけるな!金など払わんぞ」
そう言ってつかみかかろうとする。しかし、前へ進むことが出来なかった。いつの間にか足に鎖がついているのである。
「伯爵、年貢の納め時だ」
ここでスティーブの登場である。
種を明かせば、スティーブがカッター伯爵を監視しており、ジャスミンの身柄を押さえることを知っていた。だから、ジャスミンが伯爵の家令に捕まる直前に助け出したのである。
馬車よりも早く帰宅できたのも、スティーブの魔法があればこそであった。
「そもそも、フレミング男爵の商売が傾いたのも、伯爵の策略だと調べはついている。まあ、それを追求しなくとも、今回の件で破産であろう。殺しはしない。苦しみが直ぐに終わるからね。ずっとみじめなままの人生を歩むがいい」
「ぐっ」
スティーブの考えは仏教のそれに近く、死は苦しみからの解放となる。だから、死を以て罪を償うというのはさせない。出来るだけ長く反省をさせるのだ。
カッター伯爵はスティーブの言葉に反論できず、唇をかんだ。とても強く噛んだために、血がにじむ。
その情報はフレミング男爵も知らずに驚いた。
「まさかそんな。私はそんな相手を頼って金を借りていたのか」
「金を貸した以上に空売りで儲けたのでしょう。まあ、その儲けた金も、今回のことでなくなりますが」
カッター伯爵は両手両膝を床について、敗北を認めた。
翌日、取引所はフレミング商会の解け合いを宣言する。
解け合いとは株式用語で市場がさまざまな要因で急激な混乱にさらされたときややむをえない事情がある場合などに決済不能に陥った場合、緊急手段として双方に一定の価格を提示し、決済することをいう。
日本ではジェイコムの上場初日にとある証券会社が間違って61万円1株売りとすべき注文を1円61万株売りとしてしまい、実に発行済株式の6.6倍もの株を空売りしてしまったのである、
当然買い戻しなど出来ずに、翌日解け合いとなったというのがある。その他にも中山製鋼所の仕手戦でも、空売りが発行済株式の数を越えてしまって、解け合いとなったこともあった。
今回は株式分割で現物株の入手が極めて困難な状況であり、解け合いとすることが決定された。
その株価、50,000ドラ。前日の引けの倍の金額である。
勿論、その決定の裏にはオーロラとイヴリンがおり、取引所に圧力をかけたのである。
売り方は抗議したかったが、相手は大貴族であり、なおかつその条件を吞まなければ、さらなる踏み上げを食らうのはわかっていたからであった。
そして三日後の休日、アーチボルト家に関係者が集まっていた。
スティーブとその家族、経済革命クラブの三人、オーロラ、イヴリン、フレミング男爵とジャスミン、バルリエ、エマニュエル、それにシェリーである。
スティーブが最初に口を開いた。
「まずは完全勝利おめでとう」
「ありがとうございます、閣下。結局後始末はお願いしてしまうことになりましたが」
代表してミハイルが感謝の言葉を述べ、頭を下げた。
イザベラとエリザベスはみんなのいる前でお礼を言うのは恥ずかしく、頭を下げるだけであった。
「よく株式分割なんて手を思いついたものだ」
「需給の引き締めをする手段がないかと思って、色々な銘柄の過去の値動きを調べている時に思いつきました。閣下にお褒めいただけるとは感激です」
「本当に大したものだわ。あなたたちが諦めたら、資金力で締めあげようとしていたのに、資金もなしにそれをやってのけるんだもの。どう、うちに養子にこない?」
オーロラがちゃっかりスカウトしようとするが、ミハイルはそれを断る。そして、怯えるミハエルの前に、イザベラが立ちふさがって、オーロラから守る形になった。
「そんな怖い目でみないでよ。取ったりしないから。うちの子になって貴女と結婚すればいいじゃない。祝福するわよ」
それを聞いてスティーブの口がへの字になる。子供たちとスティーブ以外から笑いが漏れた。
そして、オーロラが続ける。
「ここ数日は楽しかったわよ。竜翼勲章閣下と取り分のことで楽しくお話できたし」
「西部の辞書に半分というのを付け加えたいと思ったわ」
オーロラとイヴリンがクスクスと笑う。
二人は破綻した貴族や商会の債務の分配でバチバチとやりあっていたのである。イザベラとエリザベスがとりっぱぐれなかったのは、彼女たちが面倒な回収を引き受けたからであった。
なので、現金を一括で手にすることが出来たのだ。
なお、カッター伯爵は破産したのだが、その借金が消えることにはならず、国から支給される金を延々とソーウェル家に支払うことになった。もちろん、王城での集まりでもソーウェル家の意見に同調するしかなく、実質、伯爵家を乗っ取ったかたちになる。
スティーブが咳払いをした。
「おほん、バルリエとエマニュエルにも感謝しなさい。二人が子供の注文を受けてくれたのだから」
「パパに内緒って言ったのに」
イザベラは二人の商人に対して不満の口吻をもらす。
「流石にこの金額を閣下に内緒でお受けすることは出来ませんよ。まあ、しばらくは好きなようにやらせてくださいとお願いしましたがね」
バルリエは悪気もなく言った。
彼としても最期の仕手戦をやりたいという気持ちがあったので、状況を逐一報告することと引き換えに、口出しをしないでもらったのである。
「級友を助けるっていう理由が無ければ許可はしなかったよ。それに、実際とても危険だったろう」
それにナンシーが同意した。
「そうよ。今回はたまたま死者が出なかったけど、それって旦那様がいたからよ。イザベラ、貴女は自分自身の身を守ることは出来ても、他の人を守るにはまだ力不足だわ」
普段は怒らないナンシーが強い口調だったため、イザベラは落ち込む。
「我が家はそのおかげで助かりましたので、御寛恕いただければ」
フレミング男爵が助け舟を出した。
スティーブも本気で怒っているわけではないので、それ以上は言わない。
バルリエは笑いながら
「あの世へのよい土産が出来ました」
などと言う。
今回バルリエは勝つためにオーロラとイヴリンに情報を流して、仲間になってもらっていた。そして、自分が売り抜けたように見せて、実際は二人に玉移動していたのである。
老獪な相場師バルリエはそうして、子供たちが失敗しても、勝てるように動いていたのだ。
エリザベスはシェリーを上目遣いで見た。
「ママ、私とってもお金持ちになったんだけど……」
「こちらで預かります」
「えー」
こちらも不満の口吻をもらす。
それを見たスティーブが諭すように言った。
「烏に反哺の孝あり。烏ですら親恩を感じてその口に餌を入れるようになるという言葉だよ。リズはメルダ王国の王女という肩書を使ったのだから、すべて自分のものにするというのは諦めなさい」
「おじさん!」
エリザベスはスティーブにも上目遣いでうったえたが、それは届かなかった。
エリザベスが黙ると、フレミング男爵がイザベラの前に歩み出る。
「今回の件で私には商売は無理だと感じました。どうか、商会をもらってくれはしませんか?」
「私に?」
「はい。カッター伯爵に騙されていたのにも気づけないし、温泉施設は貴女の魔法なしには成り立たない。閣下のご令息様を働かせるのも気が引けますし」
そう言われてイザベラはミハエルを見た。
それに気づいてスティーブはちょっと落ち込む。
「そういうことなら、男爵から株を買い取って経営してみたらどうかな。今の株価だと買い取れないけど」
ミハエルに言われてイザベラは決意した。
「そうね。せっかくだから三人の共同経営にしましょう。でも、学校があるからしばらくは男爵に経営を継続してもらうことになるけど」
「雇われ社長ですな。承知いたしました。それと、娘のことですが――――」
フレミング男爵がスティーブを見る。
スティーブはその視線に嫌なものを感じ、背筋が冷たくなった。
「閣下に助けられてからというもの、閣下に身をささげたいと申しておりまして。夫人にとまではいいませんが、もらっていただけませんでしょうか」
その言葉に室内が凍り付く。
「あら、それなら私ももらってくださいな。独身ですわよ」
イヴリンも負けじとアピールする。
クリスティーナの額には青筋が出るとまではいかなかったが、その内心には激しい炎が燃えていた。
ユリアとカミラがまあまあととりなし、ジャスミンはアーチボルト家に行儀見習いとして来ることで決着した。
なお、後年ジャスミンはスティーブに似たアーサーの弟と結婚することになる。
こうしてフレミング商会の仕手戦は終わり、普段の学生生活に戻るかに思えたイザベラだったが、その終焉は突然にやってきた。
ある日、まだアーサーと一緒に行動しなさいと言われていたイザベラは、放課後の廊下をアーサーと一緒に歩いていた。エリザベスとミハエルも一緒であり、後ろにはアーサーとお近づきになりたい取り巻き女子たちがついてきている。そこで思わぬ人物に出くわしたのである。
「ニック?」
「お嬢!」
ニックであった。王都に職業訓練校をつくる話があり、ニックも講師の依頼がきていた。ニックは学校というものがよくわからないので、王都のいくつかの学校を見学していたのである。
そして、貴族学校にも来たというわけだ。
「お嬢、それにアーサー坊ちゃんも。いやー、兄弟そろって王都に行っちまうもんだから、領地も寂しくていけません。たまには帰ってきて工場にも顔をだして――――」
「黙って!」
イザベラはニックを黙らせたが時すでに遅し。
ギギギギと音がしそうな遅さで後ろを振り向くと、女子生徒たちは何ともいえない表情で固まっていた。
「自己紹介の時は省略したけど、私の名前はイザベラ・ティーエス・クロムウェル・アーチボルト。帝国の国籍もあるから、帝国からの留学生っていうのも嘘じゃないの。それにほら、アーサーと結婚するつもりはないっていうのも本当だったでしょ。だって兄弟なんだもの。それでね、皆さんにはこれからも今まで通り接してもらいたいんだけど」
そうお願いしてみると、女子生徒たちはぎこちなく頷いた。アーサーは苦笑し、エリザベスは額に手を当てて天を仰いでいた。
そして、その日の夜、一部の女子生徒たちは親同伴で、スティーブのところに謝りに来たのであった。
――――
イザベラは仕事机に座って学生時代のことを思い出していた。ニックのせいで他の生徒たちと距離が出来たことを。そして、ニックにその償いとして銃を作らせたことも。
「結局、ニックに作ってもらったものが一番出来が良かったわね。もう作ってもらえないのが残念だわ」
水を射出するといっても、その水には防錆剤が添加されている。そこは工場経営者の娘なので、湯洗浄用の水を作るなどおてのものだった。
鉄を洗う場合、水だと錆びてしまうので、アルカリ性の防錆剤を添加したりするのだ。これを使うことで、銃身内部が錆びることを防いでいたのである。
「最近歳のせいか、昔の事ばかりを思い出すのよね。私もこの先長くないかしら」
イザベラはそう呟くと、天国でミハエルに会った時に何を話そうかと考えるのだった。