17 翌月取引開始
カーシュ子爵はソーウェルラントにあるタウンハウスに来ていた。豊富な資金を背景に建築されたその建物は、ソーウェル辺境伯を除けば、ソーウェルラントで一番立派な貴族の住まいであった。
何故カーシュ子爵がここにいるのかといえば、前回スティーブの奸計により損失を被ったため、今度は自分が直接指揮を執る目的で先物取引所のあるソーウェルラントに乗り込んできたというのがその理由だ。
もっとも、カーシュ子爵は売り本尊がスティーブだとは気づいておらず、オーロラが本尊だと思っていた。
そして、オーロラは安くなった銅を買い戻していた事から、その手持ちは少ないのだろうという予測をしていた。相手が貴族の為、それをバルリエに調べさせるのは荷が重いだろうと、カーシュ子爵が自ら調査に当たっていた。
そして、子爵家の諜報部門からの報告が上がってきたのである。タウンハウスの執務室でその報告を諜報部門の男から受ける。
「辺境伯家の人間に金子を渡して確認したところ、銅の手持ち在庫については先月市場で買い上げたものが殆どであるとのことです。多くても20トンもいかないかとのこと」
「ご苦労であった。市場での購入量についてはバルリエに調べさせる。お前の方は引き続き辺境伯が銅を調達する動きが無いかを探ってくれ」
「かしこまりました」
諜報部門の男が下がると、一人になった部屋でカーシュ子爵は笑みを浮かべた。
「バルリエめ、こんな単純な手口に引っ掛かりおって。いや、あいつの部下の不始末か。まあいい。俺が直接指揮を執って、バルリエにもあの女狐にも格の違いというのを見せつけてやろうではないか」
カーシュ子爵はソーウェルラントに出発する前に、領地で銅についてはいかなる理由があろうとも通過を認めるなと命令を出してきた。これで国内の陸路での銅の輸送は封鎖されたことになる。それ以外であれば海路を使う事になるが、船など直ぐに都合できるものではない。
それ以外では、仮想敵国であるフォレスト王国からの輸入となるが、仮想敵国から兵器の材料となる銅を大量に輸入することなど不可能だ。それこそ戦争の準備ではないかと疑われてしまう。これでオーロラ側は銅の入手については、完全に行き詰まりとなったのである。
今度こそ銅の買い占めでオーロラを打ちのめし、西部地域の盟主が誰であるのかを諸侯に見せつける事が出来るとカーシュ子爵は考えていた。
その頃、スティーブもソーウェルラントに来ていた。場所はエマニュエル商会である。エマニュエルと二人で商談に使う部屋で密談を行っていた。
「エマニュエル、今から銅を買えるだけ買ってほしいんだ」
「今から更に銅を買うんですか!?」
エマニュエルはスティーブに銅を買えと言われて驚いた。銅価格は一時的に元に戻ったが、再び上昇の勢いを見せていた。そして、アーチボルト領は銅がどこからか産出しており、別に市場で買わずとも入手できるんじゃないかと思っていたので、高値となっている銅を買うという話に驚いたのだ。
「今、アーチボルト領から産出した銅を売りに出したら、折角誰かさんが買い占めている銅の価格が抑えつけられちゃうし、その買い占めしている相手に銅がソーウェルラントに入ってくる経路が他にもあると気づかれちゃうじゃない。それなら今は相手の思惑に乗って、一緒に銅を買い占めたほうがいいんだよ」
「そういう事でしたか。承知いたしました。それならば、当方といたしましても、売りに出された現物を買わせてもらいましょう」
「現物だけじゃなくて先物もね。ガンガン買いまくって」
先物もと言われたエマニュエルは困惑の表情を見せた。スティーブもそれに気づく。
「何か問題でも?」
「あ、顔に出てしまいましたね。商人としては失格です。理由は辺境伯閣下に睨まれることになりはしないかという心配ですね。閣下は銅価格の上昇を快く思ってはいないので、こちらが価格の吊り上げに加担するようなことが見られた場合、どのようなおしかりがあるのかと思いまして。現物だけであれば、取引先からの調達依頼で済みますが、それに加えて先物も目立つような買い方をしてしまってはと思った次第」
エマニュエルの心配も尤もであった。このソーウェルラントでオーロラに睨まれては商売は出来ない。バリエルのようにカーシュ子爵という貴族の後ろ盾があればそれでも良いが、エマニュエルのように力のある貴族が後ろ盾となっていない商会は、オーロラとの衝突は是が非でも避けたかった。
そんなエマニュエルにスティーブは心配ないと言う。
「今回の仕手戦の本尊は僕だから、それについては心配しなくていい。そこは閣下も了承済みだよ。現に、サリエリ商会の息のかかった商会も銅先物に買いを入れている。買い本尊に高値で買わせるためにも、もっと価格を吊り上げていかないとね」
「そういう事でしたら安心して買わせていただきましょう」
「身内で回転売買しながら、思いっきり吊り上げて欲しい」
回転売買とは売り買いを繰り返して、ポジションを増やさずに出来高だけ増やしていく取引だ。ここでは仲間内で買い注文を出しては買い、買ったものが少し高値で注文をだして、別の仲間が買うというのを繰り返して、価格を釣り上げる事を目的としている。
資金が仲間うちを循環するだけなので、さほど資金を必要としない。エマニュエルは手張りの注文とスティーブからの注文を使って、先物価格を吊り上げていくつもりだった。勿論、サリエリ商会が阿吽の呼吸で注文を合わせてくる事だろう。
「先月の利益を全部突っ込んでいくからね」
「それは騎士爵閣下も承知なのでしょうか?」
「…………」
その沈黙にエマニュエルは察するものが有った。スティーブはブライアンの許可を取らずに今回の仕手戦の仕上げを行うつもりであった。スティーブからすれば絶対に勝てる戦いなのだが、それをブライアンに証明するには時間が掛かる。なので、オーロラをだしにつかい、領地を売り払っても払いきれないくらいの資金を賭けた勝負をしようと決意したのだ。
ブライアンに何か言われても、オーロラの指示だという事で事後承認を得るつもりであった。
スティーブ以外からみたら狂気の沙汰としか思えないかけ金であるが、銅を魔法で作り出すことが出来るスティーブからしたら、今回の相場は領地を立て直すための資金を得る千載一遇のチャンスなのだ。
そして、エマニュエルにとってもそれは同じ事。年初までは冴えない個人商店だったのに、あっという間にのし上がり、今では狭き門である仲買人にまでなっていた。ならば、最後までスティーブに付き合おうと考える。
「まあ、私は今回は閣下ではなくスティーブ様に乗ったわけですから、最後までお付き合いいたしますよ」
「ありがとう。損はさせないからね」
「ええ、そうでしょうとも。今年になってから私は損をしたことがありませんので。これも全てスティーブ様のお陰です」
これはお世辞などではなく、エマニュエルの本心であった。ここまで来たならとことんまでスティーブに乗ってみようという気持ちだった。エマニュエルにしてもここで大勝利を納めれば、売りに回っている仲買人たちよりも上の立場になる事が出来る。自分の商人としての勘に人生を賭けてみようとなったのだ。
「ところで、銅が最終的に値崩れしたら、主要な輸出品であるアーチボルト領は困りませんかね?」
「それはそうなんだけど、銅製の鍋でも作って売りに出そうかと思っているんだ。熱の伝わりがいいから、煮崩れしにくくていいんだよね」
ここでスティーブがイメージしていたのは銅製のおでん鍋である。前世で仕事仲間の会社が作っているのを見たことがあったが、あれを売りだせばいいかと考えていた。銅の薄い板を作るのは手間だが、スティーブの魔法ならそれも苦にならない。
手間がかからなければ値段勝負でも負けることは無いので、それを商売にしようと考えていたのである。
「材料費が下がれば庶民でも手が出る価格になりますからね。買う人が増えるならば、商売としては十分に成り立ちますよ」
エマニュエルも既に仕手戦後を見据えている。値崩れした銅で商売をする方法として、庶民を相手に出来る商品があるなら、十分に成り立つと判断した。
「それはそうと、ゴマとネギの入手もお願いしたいんだ」
「それは継続いたします」
蕎麦の薬味としてゴマとネギの入手をエマニュエルにお願いしていたのだが、中々入手が出来ずに今に至る。
ネギは特に収穫に時間がかかるので、早めに入手したいと思っていた。ちなみに、ソーウェルラントや王都で出される蕎麦にはそういった薬味が付いており、金さえ払えば薬味は入手できる。ただ、自分の領地で栽培できれば、宿で提供して利益を得られると考えていた。
今でも利益は出るのだが、名産品として売り出すためにも薬味が欲しかったのである。貴族が食べる味が庶民の手にも届く値段となれば、という目論見達成のためにもう一歩であった。
なお、大葉については入手出来て生産が開始されている。そして、みょうがも探してはいるのだが、それについてはその存在が今のところ確認されていない。バジルは生産が難しいので諦めた。将来的には生産するかもしれないが、今はもっと優先すべき事が多いためだ。
「うちの連中もアーチボルト領の蕎麦は楽しみにしていますからね。更に改良されるのであれば、必ず注文する事でしょう」
「我が家の女性陣が開発を担っていますから、評判が上々だと伝えておきますね」
スティーブのいうように、蕎麦の改良はアビゲイルが指揮を執り、シェリーとクリスティーナが手伝っていた。名目は領地の特産品を作るということであったが、予算を使って美味しいものを食べたいという欲望が動機である。
特に、クリスティーナの実家からはそば粉と引換に調味料を送ってもらっており、味付けの工夫は尽きる事がなかった。一番粉、二番粉、三番粉によっても味付けを変えた方がいいこともわかってきて、その研究の終わりは見えなかった。それでも、売り物になりそうなものは、宿で提供するようにしている。
エマニュエルとの打ち合わせが終わると、スティーブは自領に戻った。そこで台所で試作に励んでいるクリスティーナたちにエマニュエルが蕎麦の味を褒めていた事を伝える。
「クリス、エマニュエルが自分の商会の人間に、宿の蕎麦が好評だって言われたよ」
「本当ですか、嬉しいです」
喜ぶクリスティーナの横でドヤ顔のシェリー。
「私が味見をして最終的な判断を下しているから当然よ」
「シェリーも少しは料理を手伝いなさい。我が領の特産品が蕎麦なのに、料理が出来なければ嫁ぎ先で笑われますよ」
そんなシェリーにアビゲイルの小言が飛ぶ。
「お金のある貴族に嫁いで、私が指示をしたのを料理人に作らせるからいいんです」
と言い訳をしたが、みんなが苦笑いをする。シェリーは本気で言っているので、少し機嫌が悪くなった。アビゲイルは玉の輿を夢見ている我が子に頭痛がする。
「姉上は味見以外に何を手伝ったのですか?」
スティーブはシェリーに訊ねた。
「裏庭から大葉を採ってきたけど。大仕事だったわ」
「大仕事ですか?」
「なによ、スティーブ。お日様の強い日差しの中で大葉を採るのは大変なのよ」
「あ、はい。いたたたた」
シェリーの返答に憐憫の眼差しを向けたスティーブは、シェリーに頬をつねられた。
「スティーブはもっと王都で調味料を仕入れてきなさい。もっと新しい味に挑戦したいのよ」
シェリーがそう言うと、アビゲイルが
「貴女は味見だけじゃない。新しい調味料を使って料理するのは誰だと思っているの?」
「わ、私だって料理が出来るようになりたいと思っているのよ」
「じゃあ、明日からは包丁を握りなさい」
「刃物が怖いから火加減を見る仕事にして欲しいの」
「じゃあ、火加減だけじゃなくて味付けもしなさいよね。いつもみたいないい加減な味付けは赦さないから」
シェリーの味付けはとてもいい加減であった。計量などせずに感覚で塩などを入れるので、毎回味が違う。今でこそアーチボルト領はお金があるが、貧しいときを知っているアビゲイルは無駄遣いに厳しかった。
そういうわけで、娘の雑な味付けで無駄になる食材には黙っていられないのである。
なお、家格からしたらシェリーの嫁ぎ先は精々が男爵家であり、余程裕福な領地を持っていない限りは、調味料をふんだんに使って料理を試作するなど出来ない。また、そうした裕福な男爵はカスケード王国では片手程しかいないので、シェリーのいうような嫁ぎ先での料理の指示は実現は難しい。
「蕎麦もパスタも好きなだけ食べさせてくれる旦那様を見つけたいわ」
シェリーの欲望むき出しの切なる願いであった。