145 おかえり
屋敷に戻ったスティーブはヤコブを連れてマッキントッシュラントに行くことにした。クレアが心配しているだろうから、すぐにでも連れて行きたかったのである。
ヤコブはクリスティーナとナンシーと一緒の部屋にいた。下手に動き回られると、屋敷の使用人たちが混乱する可能性もあるからである。
スティーブの顔を見たクリスティーナが訊く。
「スティーブ様、終わったのですか?」
「うん。ルモワーニュはソーウェル卿に捕まり、綿花相場も値崩れしたよ。あとはヤコブをクレアのところに届ければ終わりだ」
「義姉様のところは?」
「何とかプラス収支で終わったよ。義兄殿は今後は相場に関われなくなるから、そっちも解決だね」
「それは何よりです。それで、我が家の利益は如何程に?」
「先物の利益が金貨300枚くらいかな。決済はエマニュエルに任せてあるから、うまくやってくれると思うけど」
それを聞いてヤコブは自分がまきこまれていたものの大きさに驚いた。
「き、金貨300枚ですか」
「そうだよ。その程度にしかならなかった」
「それがその程度」
改めて貴族と平民の身分の差を味わう。
今度はナンシーがスティーブに訊く。
「それで、あのソーウェル卿の利益は?」
「ルモワーニュ商会を丸ごと抱えた。アレックス殿下の御用商人の立場も含めてね。それでいて、王位継承争いには参加しないという条件も認めさせたらしい」
金貨の枚数に加えて、王位継承争いという単語で、ヤコブの思考は停止した。
「結局美味しいところは全部あの女が持って行ったということですか」
「まあね。でも、ソーウェル卿のお膳立てがあったからこそ、義兄殿の損失を取り返せたというのもあるしね。それに、僕が同じことをしようとしても、ルモワーニュ商会なんて持て余すだけだよ」
「それもそうですね。しかし、西部地域、帝国、メルダ王国に加えて王都にも息のかかった商会を所有するとは、どれだけ稼ぐつもりでしょうか」
ナンシーは呆れ顔でソーウェルラントの方を見た。
「彼女も自分の引き継いだ家を守るのに必死なんだよ。そうそう、ヤコブのことは罪に問わないってことになったから。ルモワーニュの逮捕の時は本物の僕だったから、今までルモワーニュと一緒にいたのが僕なのかヤコブなのかわからないって事になった。それに、ヤコブは一度もスティーブ・ティーエス・アーチボルトだと名乗っていないからね。実際には有罪と無罪の間くらいかな。僕の気分次第でどっちにでも転ぶ位置だよ。ま、貴族が有罪っていえば何でも有罪になる社会だから、それを言っても無意味か」
思考の停止していたヤコブであったが、罪に問わないという言葉を聞いて再起動する。その後の難しい話は理解できなかったが、自分が許されたことだけは把握できた。
「それじゃあ、自分は無罪ってことで帰してもらえるんですね」
「そうだよ。今からクレアのところに送り届ける」
「私も行きたいです」
クリスティーナとナンシーは野次馬として同行したがった。結果を見届けたいという気持ちが強かったのである。
「じゃあ、みんなで行こうか」
スティーブはそういうと平民の服に着替えてからマッキントッシュラントに転移した。貴族が一般地区を歩いていると目立つので、前回同様にお忍びの格好としたのである。そこからはヤコブの案内で家まで行く。
スティーブはドアをノックした。すると、中からクレアが出てくる。
「おかえりなさい」
クレアが泣きながらスティーブに抱き着いた。
それにクレア以外の全員が困惑した顔になる。
スティーブは優しくクレアを引きはがした。
「ごめん。僕は別人なんだ。もう一回ヤコブ相手にやってくれるかな」
「えっ???」
クレアは改めてスティーブをまじまじと見る。よくよく見ればヤコブの持っていない服を着ていた。
「あの、アーチボルト様ですか?」
「うん」
「申し訳ございません。てっきりヤコブかと思って」
泣き止んだクレアは顔を真っ赤にして頭を下げた。これには流石にクリスティーナとナンシーも怒ることはしなかった。
クレアはやり直しと言われても、色々な恥ずかしさからヤコブに抱き着くことは無かった。
「ヤコブは無罪放免。罪になるようなことはなかったよ」
「ありがとうございます。って、ヤコブはなにかやったんですか?」
「僕に成りすますように脅されていたんだよ。まあ、そちらの方は犯人が捕まったから、報復とかは心配しなくていい。ただし、今後もヤコブの外見を使おうとして寄ってくる連中は後を絶たないだろうね」
途中まで喜んでいたクレアだったが、最後の一言を聞いて不安になった。
「今回は酒を飲んで失敗したけど、家族を誘拐されることもあるだろうね」
「どうしたらいいんですか」
「マッキントッシュ侯爵に話をして、家族でうちの領地に移住するとかだね。僕の目の届く範囲であれば、僕が責任をもって見守ることが出来るから。ただ、この町で暮らしたいというのであれば、それでもいいと思うよ。特に強制するつもりはないから」
「あの、お酒を飲んで失敗した話を教えてもらいたいんですけど」
「それは本人の口から聞いてみて」
そう言ってヤコブを見れば、彼はばつの悪さから困った顔をしていた。どうやって説明したら怒られないかと必死に考えていたのである。
結局諦めて正直に話した。
「私がこんなに心配している時に、どっかの女と楽しくお酒飲んでたんだ」
クレアはヤコブを睨みつけた。スティーブもヤコブをかばうつもりは無く、しばらくは平謝りするヤコブを眺めていた。
クレアが怒りをぶつけ終わって落ち着いたころあいを見計らい、スティーブが同じ説明をした。
「どこで暮らすのも自由だし、今すぐ決断しなくてもいい」
「いえ、家族に危険が及ぶ可能性があるというのなら、今すぐにでも引っ越したいです」
クレアはそう決断した。小さな子供まで巻き込まれる状況を避けたかったのである。
「わかったよ。それじゃあマッキントッシュ侯爵に話をつけるけど、準備が調い次第アーチボルト領に移動しよう。一応却下されることを考えて、旅行ということにしておくけど」
スティーブとクレアが会話をしているところにヤコブが割って入る。
スティーブの目の前で土下座して頭を下げた。
「ありがとうございます。俺、もう二度と酒は飲みません。真面目に仕事をします」
「その約束は僕じゃなくてクレアにしてあげなよ」
同じ顔に土下座されると、スティーブはなんとも不思議な気分になった。そして、すごく居心地が悪かった。まるで、自分が謝罪しているのを見ているかのようだったからである。
「わかりました。クレア、これから俺は酒を飲まねえ」
「本当に?誕生日くらいいいんじゃないの」
「いや、よそう。また騙されてひどい目にあうといけねえから」
そんなやり取りを見て、スティーブはこれなら大丈夫かなと思った。幻覚を見せて誘惑してみようかとも思ったが、それは無粋であると思いとどまる。ヤコブの決意を信じることにしたのだ。
その後、マッキントッシュ侯爵に話を持って行ったが、あっさりと移住を認められた。マッキントッシュ侯爵としても、スティーブにそっくりな平民を抱えていて、それが犯罪に巻き込まれた時に責任を取りたくなかったのである。
知らなければまだしも、こうして話を聞いてしまった以上は、責任はないと言い張るのも無理があるのだ。
こうしてヤコブ一家はアーチボルト領に移住することになった。幸い大工の仕事は腐るほどあるので、仕事にも困らない。
ひとつの家族が救われた裏で、救われない家族もあった。
パーカー準男爵家である。
フレイヤは夫とともに実家を訪れていた。先物相場が終わったことで、反省会を開くことになったのだ。今回は家族の問題なので、当主であるブライアンが一番の上座となる。
「それでは姉上、これが先物の利益です」
そう言ってスティーブは金貨20枚をフレイヤに手渡した。
「なんとかプラスになったのね」
「そうですね。僕としてはソーウェル卿にいいように使われた感じしかしませんけど」
「我が家としては損が出なかっただけ御の字よ」
フレイヤはにこにこしながら金貨を受け取る。そんな雰囲気を吹き飛ばすように、ブライアンが険しい顔でオーロラの出した処置をパーカー準男爵に伝える。
「パーカー準男爵、ソーウェル閣下から連絡が行っていると思うが、卿の注文は今後一切受け付けられることは無い。先物でも株でもだ。貴族家の当主としては不名誉な決定だとおもうが、どうしてこうなったかはわかっているな?」
「はい。自分の不勉強ゆえの結果でございます」
パーカー準男爵も神妙な顔でこたえた。
既にオーロラから通知が行っており、本人も知っていた。当然他の貴族にもこのことは知られることになり、大恥をかくことは予想できたが、それも全て自分のせいであると反省していた。
このままなんの規制もなく、損失を出し続けていけば、いずれは領地を取り上げられることになってしまう。それだけは避けたいために、今回の処置も受け入れることにしたのだった。
ブライアンは続ける。
「それで、先物の損がなくなったことだし、貸した金の一部は返してくれるんだよな?」
「えっ、パパそれはもう少し待って。損失分として引き当てていたお金も領地の改革に使いたいの」
フレイヤは返却を拒んだ。それを聞いたアビゲイルの顔が、そして背後が鬼のオーラを醸し出す。
「フレイヤ、それはちょっと甘えすぎじゃないかしら」
「そんなこと無いわよ。シェリーに比べたら可愛いものじゃない」
シェリーがブライアンに借りた金額はけた違いだった。国家間の戦争の賠償金なので当然だが。
悪い前例があるので、アビゲイルも怒りにくくなる。
「ママ、何も返さないって言っているわけじゃないの。当初の返済計画は守るつもりよ」
「返してくれるなら」
とブライアンが甘い顔をすると、それが決定打となって返済計画の前倒しは無くなった。終始パーカー準男爵は小さくなっており、特に反論するでもなくアーチボルト家の会話を聞いているだけだった。
一方その頃王都では、アレックス殿下とカッター伯爵が密談していた。
「ルモワーニュ商会をまるまるソーウェル卿にくれてやってよかったのですか?」
カッター伯爵は上納金が無くなるのを惜しんだ。だが、アレックスはそんなものは気にしていなかった。
「そんなものを要求してあれが敵に回るくらいなら、諦める方が得策だろう」
「敵に回らなかったですが、仲間にもなりませんでしたな」
「それでよい。あれを御せるほどの実力はまだないからな。味方に引き入れたかと思ったら、派閥を乗っ取られるのがおちだ」
欲のないアレックス殿下の発言に、カッター伯爵は随分と気持ちに余裕が出来たなと思った。以前のアレックス殿下であれば何としてでも仲間を増やそうとしていただろうが、今は待つことを覚えていた。南方の利権を手に入れたことが大きく影響しているだろうと容易にわかる。
「今はまだ雌伏の時ということですな」
「雄飛にはまだまだ時間がかかる。今までの自分の生き方を大いに反省しているよ」
アレックスは今まで怠けていたことを激しく後悔していた。周囲を見渡せば、スティーブ、シェリーとエイベル、イヴリンに皇帝ルイスと若くとも活躍している人物が山ほどいた。そうした者たちに比べて、何ら実績の残せない自分が許せなかったのである。
そして、それを冷静に把握できており、焦らないように自制していたのである。
「それにしても、ジーパンというのは庭いじりにはちょうどよいな。卿もいくつか作ってみるか?」
アレックスは話題を変えて、最近王都で流行しているジーパンをカッター伯爵にも勧めた。
「いや、あいにくと私は庭をいじる趣味はございませんので」
「そうか。それでは仕方ないな。しかし、アーチボルト卿は恐ろしいな。彼の考え出したものは生活に入り込んでくる。そして、気づけばそれが無いと困るようなほど受け入れられている。魔法瓶や洗濯ばさみ、鉄道もか。そうした部分を押さえられていることは脅威だな」
アレックスはジーパンを穿いたときに、これは数年すればあって当然のものになるだろうという予感がした。そして、思い返せばスティーブの発明したものには、そうした物が多かったのである。
さらには、その製造販売が独占に近い状態なのだ。それが脅威でなければなんだというのか。
「では、いずれは排除されるおつもりですか?」
「馬鹿を言うな。私も命は惜しい。あれと対立するくらいなら、ドラゴンと戦った方がましだ」
カッター伯爵の直球の質問に、アレックスは否定で答える。
「ただ、こうした発想が出来る者が配下に欲しいなと思ったのだよ」
そうした者をどう探そうかと悩むアレックスであった。
しかし、そんなアレックスの発言をカッター伯爵は真剣には受け止めていなかった。こうした齟齬が随所にあることが、アレックス派が伸びない理由でもあった。
いつも誤字報告ありがとうございます。