140 ジーパン
スティーブはエマニュエル商会を訪れ、エマニュエルにデニム生地の調達を依頼した。デニムという名称は地球のものであるため、綾織のコットン生地であることを伝えた。
エマニュエルはスティーブの依頼を受けて、国内だけではなく周辺国も含めて生地を調査する。
この動きをいち早く察知したのはオーロラであった。サリエリ商会からエマニュエル商会がコットン生地を探しているという情報が伝えられると、バルリエに命じて綿花先物に買いを入れた。
他の取引参加者たちは理由はわからないが、バルリエの買いによって綿花の先物価格が上昇していることで、バルリエに提灯をつけた。この動きにはイヴリンも参加した。彼女の情報網にオーロラの子飼いの商会が綿花の先物に買いを入れているという情報が入ったのである。それと、エマニュエル商会によるコットン生地を探す動きも。
イヴリンはスカーレットを呼んだ。
「スカーレット、西部に行くわよ。私たちが到着する前に、買えるだけ綿花の先物を買うように伝えておいて」
「イヴリン様自ら足を運ばれるのですか?」
「そうよ。あのソーウェル卿が指揮を執っているなら、どう動くかなんてわからないもの。私が現地で直接指揮を執るわ」
スカーレットはイヴリンがこう言い出したら止まらないのはわかっていたので、すぐに西部にいる者に先物の注文を伝えるように指示を出し、イヴリンが出掛ける準備をするのであった。
エマニュエルはスティーブに依頼されたコットン生地を見つけることに成功した。そして、その報告をスティーブにする。
「スティーブ様、ご依頼いただきましたコットン生地を見つけました」
スティーブは生地を受け取ると、それをじっくり観察する。
前世で見たデニム生地に似ているなと思った。ただし、インディゴカラーではないので、その分だけデニムっぽさを感じなかった。
「ありがとう。思っていたやつだよ」
「しかし、困ったことがありまして」
「何か?」
「私がコットン生地を探しているという情報から、スティーブ様が新たな事業をするのではないかという憶測を呼び、綿花先物の価格が上昇してしまったのです。仕入れの値段が上がってしまいます」
「それなら心配ないよ。別に綿花市場のシェアが変わるような仕入れはしないから、無理に吊り上げた価格はそのうち戻るだろうね。敢えて売るようなことはしないけどね」
スティーブはエマニュエルに放置するように指示した。
「承知いたしました」
「それよりも、僕はこれからこの生地を使って、考えているパンツを作るから。それが良かったら生地を正式に注文するから準備しておいてね」
「はい」
スティーブはコットン生地が手に入ったので、それを使って早速試作をすることにした。ニックと一緒に裁縫部門を訪れる。
ニックはコットン生地を手に取ると感想を述べた。
「随分と厚手の生地ですね。針がもたねえんじゃないですか」
「そうだね。この生地専用の丈夫な針が必要だね」
そう言ってスティーブは通常よりも太い針を魔法で作り出した。
裁縫部門では人形用の服も縫っており、パンツを作った経験もあるため、試作する分には問題はない。
新しい針に糸を通して、さっそく裁断した生地を縫っていく。
そして出来上がったものにリベットを打つ。
「これで完成。ミシンの針が壊れなくてよかったね」
「リベットを打つっていうのは気づきませんでしたね」
「リベットを冷間鍛造で作れば、縫製部門と鍛造部門の利益が同時に出せるね。それに、既存のリベットに参入すると、また工業ギルドから苦情が来そうだしね」
「若様、やっとわかってくれましたか」
ニックはスティーブを見たが、スティーブは本気でわかっている様子ではなかった。
「保護された産業はいつかは競争力を失って消えていくよ。うちが冷間鍛造で作らなくても、鍛造機と金型を売れば同じことだし、それすらやらなかったとしても、きっと誰かがそうした事業を始めると思うんだ。」
「そりゃ、買う側の立場からしたら安い方がいいってなりますからね」
「そうだよ。だから、いつまでも熱間鍛造だけやっていればいいってもんじゃないんだ」
「まあ、俺が工場長の間だけは既存の製品に殴り込みをかけるのをやめていただければと思います」
「前向きに検討しておくよ」
そんな二人のやり取りを聞いていた縫製部門の作業者たちは、工場長の口の利き方にはらはらしていた。社長である以前に貴族であるスティーブに対し、ニックの言葉遣いがぞんざいすぎるのだ。
玩具事部門だと古い社員もいるので、いつものこととして聞き流すのだが、ここにはそこまでのベテラン社員がいなかったのだ。
「さて、クリスティーナとエマニュエルの意見を聞いて、いけそうだったら裁縫部門と鍛造部門の人員を増やさないとね」
「若様、これ俺の分も作っていいですか?」
「社員割引ね」
「まだ試作でしょう」
「工場長がそれをやったら、みんなが真似するじゃない」
スティーブがちらりと縫製部門の社員を見ると、みんながそれを否定した。流石に頷く度胸はなかったらしい。でもまあやるんだろうなとスティーブは思っていた。敢えて指摘はしなかったが。
「ほらあ。うちの従業員はみんな真面目なんですよ」
「作業着として支給するからそれまで我慢していて」
「早く欲しいんですが」
「それなら、早いところ商品化することだね」
スティーブはニックに早めの生産体制構築を指示した。
そして、試作品を持ってクリスティーナのところに行き、彼女と一緒にエマニュエル商会へと転移した。
エマニュエルはスティーブからジーパンを受け取って、それを値踏みする。
「随分と丈夫そうですね。それに、リベットで生地を留めているんですか」
「これなら労働者の人気を獲得できると思うよ」
「そうですね。売れると思いますが、値段次第でしょうか」
エマニュエルが懸念を示すとクリスティーナが値段交渉をはじめる。
「平民相手なのでそんなに利益は乗せられないけど、そもそもコットン生地はエマニュエル商会から購入するんだから、材料費はわかっているわよね。銅貨15枚くらいが妥当じゃないかしら」
「この出来ならば、一度購入すれば5年はもちますからねえ。うちがその価格で仕入れて、売るのは銅貨20から30くらいでしょうか。デザインがよいので作業着ではなくて普段着として、都市部でも売れそうですね」
「ナンシーに穿かせて、女性でも着用できることをアピールしようと思っている。動きやすいし汗を吸うし、いいと思うんだよね」
作業着として誕生したジーパンであったが、今では世界中で普段着として使われている。スティーブはカスケード王国でも同じようになるだろうという自信があった。
ファッションモデルという仕事がないので、ナンシーに穿かせてそれを広めようとしている。クリスティーナは対外的な場所ではドレスを着用しなければならないため、流石にジーパンを穿かせるわけにはいかなかった。屋敷であれば問題ないので、試作品を穿いてその出来栄えを確認していた。
値段に関しては、本来であればもう少し利益を取りたいところであったが、平民相手の商売のために、これ以上高額にしてしまえば売れないだろうと思っていた。
エマニュエルも価格には納得して、仕入れることを決める。
「わかりました。これはうちの商会で仕入れて売りましょう。しかし、困ったことに綿花相場がまだまだ上昇しているのです」
「まだ上がっているの。誰がやってるのかな」
「本尊はバルリエ商会ですね。そこにクレーマン閣下が加わってまして。それがさらに提灯を呼び込む形になってます」
「セル・ザ・ファクト。僕の商品が出たところで天井を打つと思うよ。馬鹿みたいに上がっているなら、売りをいれていこうかねえ。ジーパンの話も終わったことだし、ちょっと市場を見に行こうか」
スティーブはクリスティーナとエマニュエルを連れて、取引所を訪れた。そこにいたのはオーロラとバルリエ。イヴリンとスカーレット。そしてジョセフ・フロベールであった。
「ソーウェル卿、クレーマン卿。お二人がおそろいで今日の取引所には華がありますね」
「閣下の奥方が来てしまえば、我らの輝きなど色褪せますよ」
オーロラはにっこりとほほ笑む。そして、クリスティーナに負けているなどとは毛ほども思っていなかった。
「お久しぶりです閣下。せっかく西部まで来たので、この後ご連絡を差し上げてご挨拶に伺おうとおもっておりました。奥様も温泉の効果か、なんとか見れる程度の肌になられましたね」
イヴリンも頭を下げる。その頭を睨んでいるクリスティーナ。こちらは露骨な悪意に満ちていた。スティーブは取引所に足を運んだことを後悔した。
そんな女性たちとは違い、ジョセフは悪意などなく挨拶をする。
「お久しぶりです。閣下」
「ジョセフ、久しぶりだねえ。なかなか帝国に行く機会が無くて。イノも元気かな?」
「ええ。私がこうしてカスケード王国に来ている間は、イノに店を任せております」
「なるほど。で、今日は何しに来たのかな?」
スティーブの質問にジョセフは目をそらした。あ、これは答えたくない質問だなとスティーブは直感した。この場にジョセフがいて、オーロラもいるとなるとなんとなく予想がつく。
オーロラは目をそらしたジョセフに助け舟を出した。
「閣下はここに何をしに?」
「新商品の開発が終わったから、久しぶりに先物取引でもしてみようかと思ったんだよね。なんか綿花が値上がりしているっていうからさ」
スティーブはオーロラとイヴリンを交互に見た。貴女たちの仕掛けは知っていますよという思いを込めて。
イヴリンはスティーブの視線など気にせずに、新商品がなんであるかを訊ねる。
「閣下、どのような新商品を開発されたのですか?」
「新しいパンツだね。丈夫で作業着としても使えるし、普段着としても十分おかしくないやつだよ。エマニュエル商会を通じて全国に販売しようとおもっているんだ」
それを聞いてオーロラはジョセフに目線で合図を送った。ジョセフはそれを受け取ると一礼して下がった。
「それでは私はこの辺で失礼いたします」
「帰国したらイノにもよろしく言っといてね」
「承知いたしました」
ジョセフが下がると、オーロラは売り注文をバルリエに指示する。スティーブとイヴリンもそれに倣って売り注文を入れた。
スティーブはオーロラに耳打ちする。
「どうせ、ジョセフに帝国から綿花を運ばせたのでしょう。先物を吊り上げておいて、現物の売りが出る前に売り抜け。場合によったらドテン売り」
「最近閣下がお相手してくださらないので、寂しさからついこうしたことをしてしまいましたの」
寂しさのかけらも感じない表情でオーロラは言う。
その横で、イヴリンはスカーレットに囁いた。
「ほらね。来ておいて正解でしょう。相場はここで天井よ。本尊が売り抜けたのですもの。ここでの会話と判断の素早さ。私がここにいなければ損していたかもしれないわね」
「イヴリン様の言う通りでございました」
「帰りは閣下のところの宿にでも泊って、温泉でゆっくりしましょうかね」
「領地が心配ですが」
「スカーレットはまじめすぎるのよ」
そうは言ったものの、イヴリンも領地を長く空けすぎていると思っており、これ以上長引くなら手じまいして帰るつもりであった。
「まあ、いい臨時収入になったわね。東部でも先物取引所をやりたいわ」
「西部での運営についての調査は終わっておりますので、あとはスタッフが揃えばですかね」
「そこが問題よ。優秀な人材は取り合いなんだもの。いっそ、ここのスタッフを引き抜こうかしら」
「戦争になりますよ」
スカーレットはイヴリンがどこまで本気なのかわからず、ちらちらとオーロラの方を見た。
オーロラはスティーブとの会話を楽しんでおり、とりあえずは聞かれていないようであったことにホッとした。
そしてこの後、やはりジョセフによる大量の現物の売りが確認され、先物の価格は元の価格に近づいたのだった。
そこで売り玉を手仕舞いして、スティーブは全て終わったと思っていたが、じつはそうではなかった。
この綿花の価格が下がったことが、スティーブを悩ませることになるのである。
いつも誤字報告ありがとうございます。