126 温度計と水銀
シリルがスティーブのところにやってきた。すこし難しい顔をしているので、スティーブは気になった。
「どうしました?」
スティーブに訊ねられて、シリルは用件を切り出す。
「実は王都のガラス工業ギルドが、もっと仕事が欲しいというのです」
「ああ、弟子入りの件で引け目があるわけですね」
アーチボルト領から若手を数名、王都のガラス工房に修業に出した。その際、シリルを通じて王立研究所に仲介をお願いしたのだが、どうもその件で多少の融通をきかせる必要が出てきたようだった。
江戸切子のようなガラスのグラスや、ガラス製まほうびんという新しい商品が出てきたおかげで、ガラス職人の仕事は忙しいはずなのだが、さらなる仕事を要求されてきたというわけである。
「すぐに考えていただくというのも難しいでしょうから、思い付いたときでよいのですが」
申し訳なさそうに頭を下げるシリル。
スティーブとしても、自分が原因でシリルがこのような状況になっているので、何とかしたいという気持ちになった。
そこで一つ思いつくものがあった。
「温度計を作りましょうか」
「温度計ですか」
スティーブが思いついたのはガラスで出来た温度計だった。水銀温度計やアルコール温度計はガラスを使っている。
「水が凍る温度を0℃、沸騰する温度を100℃として、目盛りをふっていきましょうか」
スティーブは元日本人なので、なじみの深い摂氏の温度を測る温度計を作ろうとおもった。
水銀は直ぐに用意は出来ないが、アルコール温度計に使う白灯油であれば、スティーブの魔法で作ることが出来る。
すぐに氷水も魔法で用意して、まずは0℃の状態を作り出した。その時のアルコールの高さを0℃に設定する。なお、水温は魔法で測定しているので、0℃で間違いはない。
次に、その水を火で温めて沸騰させる。一般的な地上の大気圧で沸騰した温度が100℃であり、それも魔法で測定して確認した。
0℃と100℃が決まり、そこから目盛りの間隔が決定する。あっという間にアルコール温度計が完成した。
「白灯油っていう液体を使っていますが、入手性からアルコールや水銀でもいいと思います。ただ、水銀は体に害があるから、取り扱いには注意が必要でしょうけど」
スティーブは魔法で水銀を作り出すことが出来ないので、水銀の温度計を作ることは出来ない。なので、口で説明するだけになった。温度計の歴史は17世紀にさかのぼることが出来る。つまりはその程度の文明レベルで作れるというわけである。精度の問題はあるが。
「まあ、僕の作った温度計を基準にして、同じような値が出るようにすればいいんじゃないですかね。ガラス管の需要も出来ますよ」
ガラス製温度計の規格もJISで決められている。さらには、温度の測定方法の規格もある。今の技術でどこまで出来るのかというのはあるが、ガラス職人の仕事を作るついでに新しい規格を決めていくのもいいかと思った。
シリルは完成した温度計を受け取ると、すぐにその仕組みをメモする。ガラス工業ギルドからの要求から、急遽自分の専門の仕事に話が変わったのである。
「もっと早くこれを知りたかったですね」
「僕の場合魔法で測定が出来るから、測定器の必要性を感じないんだよね。だからついつい忘れていたよ」
興奮気味のシリルに対して、スティーブは申し訳なさそうに頭を下げた。今言ったように、スティーブは魔法で測定が出来るから、測定器の必要性をあまり感じていないのだ。温度、湿度、角度、照度など、測定するのに魔法を使えば誤差なく正確に測定できる。それゆえ、スティーブが持っている現代知識を披露することを忘れていたのである。
「水銀も魔法で作れたらいいのになあ。誰か水銀を作る魔法使いの知り合いはいませんか?」
スティーブはシリルに訊ねた。
「金属を作る魔法使いはスティーブ殿しか知り合いにおりませんよ。鋼、銅、金、銀と作れるのに、水銀は作れないんですか?」
「金と銀は鍍金液だからねえ」
と言ったところで、スティーブはアマルガム鍍金を思い出した。アマルガム鍍金とは水銀に金を溶かして、鍍金したい物に塗る。そして水銀を蒸発させると金が残るという鍍金だ。鍍金液として金が溶けた物なら出来るのではないかと思って試してみると、金を含有した水銀が鍍金液として出来た。
さらにそれを分離の魔法で金と水銀にわけることで、純粋な水銀を抽出することが出来た。一緒に金も出来た。
「これって無尽蔵に金を作れるということですよね」
「あー、そうなるねえ。ただ、金を作ってそれを使えば、金の流通量が増えて価格は下がるだろうね。希少価値がなくなるから。大インフレが起きるんじゃないかな」
「それは困りますね」
「領地の資金問題は解決しますけどね」
とスティーブは笑ったが、実際にスティーブの膨大な魔力を使って水銀と金を作った場合、その価値は大幅に下落して経済は混乱することは見えていた。
「まあ、金のことはさておき、元々の目的である水銀の温度計もこれで作れますね」
そう言って、スティーブはガラスの中に水銀を入れた温度計を作った。それもシリルに渡す。
「割れないように気を付けてください」
「はい」
水銀の毒性については知られており、シリルもガラスが割れないように梱包して王都に送るつもりだった。
シリルは預かった温度計を見ながら、
「しかし、アマルガム鍍金用の水銀も金に変えることが出来たなら、人類の夢である錬金術が完成しますね」
と、錬金術という言葉を口にした。
シリルは普通にそう言っただけだったが、スティーブはそれに食いつく。
「そういえばあまり錬金術については知らないけど、やっぱりカスケード王国でも錬金術は研究されているの?」
「はい。王立研究所でも研究がされるくらいには一般的ですね。彼らは科学的な検証に慣れていたので、私の報告書についてもすぐに受け入れて、その検証方法や応用について考えてくれました。宗教的な思想の影響が弱いというのが今の発展の原動力でしょう」
地球の科学の発展が錬金術の延長であるように、カスケード王国においても錬金術の研究が科学の基礎となっていた。そして、究極の目的が他の物質から金を作るというものである。
それは、土をこねて金を作れないかとか、水銀や黄銅、錫などの金属の合金を作ったりという研究であり、過去からの積み重ねが研究報告としてまとめられているというのである。
そして、どれも成功はしていない。長い歴史の中では、金を作る方法を発見したと偽る者もいたが、それらは再現されることがなく、詐欺だと見破られてしまっている。
「興味があれば報告書をお見せいたしますよ。まあ、失敗の歴史であり、成功例がないのですが」
シリルはそう言って温度計からスティーブに視線を戻したが、その時のスティーブの表情は心ここにあらずといったもので、どこか遠くを見ているわけでもなく、ただ目の焦点が合っていない状態だった。
そして突然、
「水銀から金が作れるかもしれません」
と言った。
「本当ですか?」
シリルは驚いた。今までもスティーブが奇跡と呼べるようなものを実現してきたが、水銀から金を作るとなると、それは死者の蘇生にも匹敵するような神の奇跡である。何千年という間実現できなかった、人類の夢がかなうのであるから。
「ちょっと危ないかもしれないので、人がいないところで実験してきます」
スティーブはそういうと、転移でどこかに消えた。
そして、戻ってきた時に、その手には小さな金の粒があった。
「成功です」
「本当に金ですね」
スティーブは興奮してシリルに金を手渡す。シリルはその金をじっくりと観察する。観察しながらもスティーブに訊ねた。
「どうやってこれを水銀から作ったのですか?」
「金や水銀がそうであるというのは、陽子の数で決まるんだ」
「陽子?」
日本人なら学校で習うようなものだが、カスケード王国では陽子はまだ発見されていない。なので、シリルはその言葉がわからなかった。
「陽子っていうのは正の荷電を持つっていってもすぐには難しいか。元素には原子核というのがあって、それは陽子と中性子から出来ている。陽子の数で元素の種類が決まるんだ。そして、金は陽子の数が79、水銀なら陽子の数は80。1個しか違わないんだ」
「つまり、陽子の数が変われば元素も変わるということですね」
「そう。分離の魔法で陽子を分離してみたところ、水銀が金になったんだ」
これは科学的に出来ることが証明されている。水銀の同位体は7種類存在し、そのなかでHg-196という中性子が116個のものに1個中性子を加えることでHg-197をつくる。このHg-197は速やかに崩壊してAu-197になるのだ。
Au-197は陽子79個、中性子118個の安定した金である。原子炉の中ではこれを作ることが可能なのだ。
もちろん、スティーブは原子炉など持ってはいない。そしてHg-196は0.15%しか存在しないので、原子炉で作るにしてもコストがあわないのである。
ではスティーブがどうやって作ったかといえば、まずは水銀を分離の魔法を使って同位体ごとに分けた。そして、それぞれの同位体は中性子の数が違うので、陽子の分離と一緒に中性子が117個になるように中性子も分離させたのだった。当然被曝の可能性があるので、誰もいない山奥で実験してきたのだ。
スティーブは測定で放射線量も測定できる。確認した結果、魔法で水銀を金に変えた時に被曝することはなかった。
最初に少量で確認し、徐々にその量を増やしていった。結果何の問題もなし。ただ、膨大な金塊が誕生しただけだった。スティーブはそれをいつもの埋蔵金として隠し、少量だけを持ち帰って来たのだった。
「非常に興味深いお話ですが、それを観察する方法はありますかねえ」
「今は無理だろうね。今ある顕微鏡で見えるような大きさじゃないから」
スティーブはそうこたえたが、実際には1918年に密封された窒素ガスの中から水素が発見されるということで、陽子という存在が見つかっている。それでも、カスケード王国でそれを再現するのは無理なのだが。
「しばらくは忙しくなりますね」
「工場の経営もあるから、あんまり王都に縛り付けられたくないんだよなあ」
そういったものの、結局スティーブとシリルは世紀の大発見の報告で、王都に長く拘束されることになったのだった。
スティーブの実験は最初に王立研究所のメンバーに見せたのだが、その実験を見たいと国王が言い出して、翌日それを見せることになる。国王はその結果に満足して、それを公表した。
すると、貴族たちも水銀から金を作れるというので、その方法を確認したいと王立研究所に押し寄せてきたのである。その貴族たちは皆が、多額の寄付を申し出たので、王立研究所としても断るわけにもいかないで、スティーブに実験を繰り返してもらうことになったのだった。
そして、この実験を公表するに至ったのは、分離の魔法がつかえたとしても、陽子と中性子のイメージが出来なければ、その再現は無理であるから他国では再現できないという事実があったからである。
こうして、カスケード王国だけが水銀から金を作ることが出来ると世に知らしめたのだった。
この結果として、金価格が一時的暴落したが、その時状況を冷静に見ていたオーロラが、底値で金を買いあさり、今後金が無尽蔵に水銀から作られるわけではないと知った者たちが、金を買う動きを見せた時に売り抜けたのだった。
なお、温度計の報告書も同時に提出したのだが、それは霞んでしまった。温度計の研究を割り当てられた研究者は不満たらたらだったが、彼はそんな研究を押し付けたやつを見返してやろうと奮起し、のちに歴史に名を残すようになるのだが、それはまた別のお話。
いつも誤字報告ありがとうございます。