118 入浴剤
ある時、スティーブはクリスティーナから冷え性についての相談を受けた。クリスティーナもナンシーも出産後に冷え性が酷くなって困っているのだという。
スティーブは医者ではないので治療薬はわからないが、冷え性なら温泉だと思いついて、試しに入浴剤を魔法で作ってみた。なぜ温泉を掘らないかといえば、ここは火山地帯ではないので、近隣に温泉がないため、ここでも温泉が出る可能性は低いだろうと思ったからである。
そして、水魔法で温泉を作らなかったのは、スティーブがいない時でも温泉の効果が得られるようにと考えたからであった。
魔法を使った結果、薬品精製の魔法は医薬部外品である入浴剤も作ることが出来た。早速試してみようということで、お風呂に入れて入浴してみたところ、薬物耐性のせいでその効果が確認できなかった。
「入浴剤の効果は薬物耐性のせいで消えるけど、天然温泉だったらどうなんだろう?」
そんな疑問が残ったが、問題はそこではない。この入浴剤の効果があるのかないのかである。
スティーブはクリスティーナとナンシーに相談した。
二人の前に差し出した手には入浴剤の粉が乗っている。
「これは入浴剤といって、温泉の効果が得られる薬剤なんだけど、僕は薬物耐性のせいでその効果を確かめる事が出来なかったんだ。それでも良ければ使ってみる?」
そう言うと、クリスティーナは首を傾げた。
「温泉とは何でしょうか?」
「地中からお湯が沸きだしている泉のことだね」
カスケード王国では温泉は一般的ではない。クリスティーナの実家でも領地の中に温泉は無かった。ナンシーも知識として知っているだけで、入ったことは無い。
「帝国では西方にそのようなものがあると聞いている。兵士の怪我の治りが早くなるとかで、治療に使われているぞ」
「ナンシーは使ったことある?」
「私の赴任地には無かった」
スティーブは説明に困った。なお、温泉は温泉法により定義が決められている。JIS規格では温泉マークが規定されており、ISOとのマークの違いがニュースにもなったりしていたが、こちらの世界にはそもそも温泉の定義、規格は存在しない。
そして当然のことながら温泉マークも存在しないし、さかさくらげという言葉もない。さかさくらげとは温泉マークが逆さになったくらげに見えることからついた言葉で、連れ込み宿を指す隠語であった。
年配の人はラブホテルのことを今でもさかさくらげなどと呼ぶが、最近はあまり聞かなくなったものである。というところも、当然説明できない。
「温泉っていうのは、傷を治すだけじゃなくて、血行を良くする効果もあるんだ。これを毎日お風呂に入れてみようか」
一般的な入浴剤は温泉効果といっても、天然温泉よりも成分が薄いため、効果も弱めとなっている。だが、スティーブは魔法であることを利用して、天然温泉に近い濃度まで成分を濃くしていた。そのため、効果も抜群である。本人は確認できていないが。
「旦那様がそういうのであれば」
「そうですわね」
その日からクリスティーナとナンシーはスティーブの作った入浴剤入りのお風呂に入ることになった。
二人は直ぐに効果が現れて、冷え性が改善されることになる。
そして、温泉の効果は冷え性の改善だけではなかった。美肌効果もあったのである。
ある時、義母であるアビゲイルが孫の顔を見に訪ねてきた。その時アビゲイルは嫁二人の肌がツルツルであることに気づく。
「あら、二人とも以前よりもお肌がツルツルしているわね。羨ましいわ。お肌のお手入れに何をしているのか教えてくれないかしら」
「義母様、実は冷え性の対策としてスティーブ様の作った入浴剤で温泉を作って入浴しておりますが、冷え性以外にも効果があるようなのです」
「温泉?」
アビゲイルにとっても温泉というのは初めて聞くものであった。そして、話を聞き終わると
「私も毎日ここでお湯をもらいましょう」
と宣言したのであった。
嫁姑の仲は良好であり、二人が断る理由もなかった。そして、スティーブは入浴剤を作った事を何故報告しないのかと母親に説教されることになった。
そして、温泉の効果を求める者はアビゲイルだけにとどまらなかったのである。
アビゲイルが社交界で肌を自慢して、それは温泉の効果のおかげであると言うと、貴族の夫人たちはこぞって入浴したいと言い出したのだ。
そんな夫人たちがアーチボルトラントに大挙して押し寄せることになった。
スティーブは慌てて宿に大浴場を作ることになった。
そして、貴族の夫人が宿泊するということで、平民については本村にある宿に移ってもらう事になった。
大浴場は温泉の効果だけではなく、熱交換システムを備えており、温かいお湯が常に流れている。
更に、シャンプー、リンス、ボディーソープも医薬部外品を魔法で作っているので、一般的なものよりも髪の毛サラサラで、臭いも汚れもさよならする優れものであった。
この件でもスティーブはアビゲイルから説教される。
「スティーブちゃん、こういうのがあるなら早く出しなさいよ」
と。
スティーブが説教される相手はアビゲイルだけではなかった。
オーロラもスティーブの屋敷に来ていたのである。そして、温泉の事についてどうしてもっと早く教えてくれなかったのかと強く言われた。
「閣下、私は閣下に信頼されていると思ってましたが、今回はその考えを改めねばならないようです」
「はぁ」
「はぁではありません!どうして温泉の事についてもっと早く言って下さらなかったのですか!」
「ソーウェル卿、というかオーロラさんなら情報など直ぐでしょう」
「ええ。直ぐに情報が入りましたが、仕事の調整でここまで掛かってしまったのです。閣下が直ぐに教えてくだされば、もっと早く来れたものを」
「というか、宿ではなく、どうして我が家に?」
オーロラの勢いに押されつつも、スティーブは気になった事を訊いた。
他の貴族は皆宿に泊まって温泉に浸かっている。それなのに、何故オーロラは屋敷に来たというのか。
「それはアーチボルト男爵夫人の誘いだからだ」
「そういうことよ、スティーブちゃん」
アビゲイルがオーロラに許可を出していたのだった。オーロラは大浴場と屋敷の風呂では効能が違うのではないかと予測し、アビゲイルに金銭をちらつかせて屋敷の宿泊許可を出させた。
スティーブは何かあったなと勘づいた。
「母上、何かやましい事は無いですか?」
「ないわよ」
と答えるアビゲイルであったが、その目は泳いだ。それを見てスティーブは大きなため息をついた。
オーロラの予想通り、スティーブの屋敷にある風呂は臭いの強い硫黄泉なども試しに作ってあった。まだまだ土地は余っているので、スティーブが庭に風呂を五個作って、アルカリ泉や酸性泉などいくつかの泉質を用意していた。
「それでは僕は忙しいのでこれで」
「あら、残念ね。一緒に入ってもよかったのに」
オーロラの冗談にスティーブは真顔で返す。
「うちの領地には貴族の口にあうような料理を作れる料理人が僕しかいないので、宿泊客の食事を作らねばならないのです」
そう、庶民の食事ならば宿の従業員でも可能だが、貴族の口にあうような料理となると、各地で修行のようなものをしてきたスティーブしか作れなかったのである。
なお、アーチボルト家が普段食べているものは、自分達で作っていた。貧乏時代からの名残であり、誰もそれを不便に思っていなかったのである。
その結果、宿に回せる料理人はいなかったのである。
「あら、泊めてもらうお礼に貸すわよ」
「そうして貰えると助かります」
さて、そうなればこの忙しさも後少しと思ったとき、屋敷に来客があった。
フレイヤである。彼女が子供と一緒にやって来た。夫であるパーカー準男爵の姿が見えないことで、スティーブは不審に思う。
「姉さん、事件です?」
「違うわよ。ママからの手紙でスティーブちゃんの魔法のお風呂でお肌ツルツルってあったから、やって来たのよ。おまけに肩凝りにもきくそうじゃない。書類仕事ばっかりで、肩凝りに悩まされていたところよ」
フレイヤもアビゲイルからの情報で温泉に入りに来たのだった。仕事はパーカー準男爵に押し付けて。
そして、フレイヤの後ろからベラが手紙を持ってやって来る。
「スティーブ、シェリーから」
「ありがとう。なんだろう?」
スティーブは受け取った手紙に目を通す。そこには迎えに来てとだけ書いてあった。
「何て書いてあったの?」
ベラに訊かれたので
「シェリー姉上が迎えに来てだって。どうせ、母上が肌を自慢する手紙を送ったんだよ。迎えに行ってくる」
「わかった」
スティーブはメルダ王国に転移し、シェリーの支度が出来るのを待って帰ってきた。
すると、メルダ王国に転移する前にはいなかった、ユリアとカミラが屋敷にいた。
スティーブはどういうことかとクリスティーナに訊いた。
「どうしてユリアとカミラがいるの?」
「霊泉で穢れを落としたいそうです。スティーブ様の許可は得ているとか。心当たりはありますか?」
「あっ!」
そう言われて、スティーブは心当たりを思い出す。天然温泉を探すために、ユリアに聖国に温泉はないか訊ねたことがあった。その時、うちに人工の温泉があるから良かったら入浴しますかと言ったのだった。社交辞令のつもりであった。
「どうやら、心当たりがあるようですね」
クリスティーナに睨まれると、スティーブはシェリーの方に視線をずらした。
「姉さん、事件です」
「言わなくてもわかるわよ」
スティーブが約束してしまったのなら追い返すわけにもいかないと、クリスティーナは諦めてユリアとカミラも一緒にお風呂に入ることにした。
なお、庭の温泉には高い囲いがついており、屋敷からは中を覗くことは出来ない。
女性たちが入浴中にスティーブは宿泊客用の食事を作る。
そうしているうちに、長湯である女性たちも風呂からあがってきた。
オーロラは不満顔でスティーブに迫る。
「閣下、この温泉を販売するつもりはありませんこと?」
「入浴剤を販売するとなると、温泉客が居なくなるんだけど。ここまで来るメリットが無いですから。まあ、シャンプーやリンスは付加価値が残るかも知れませんが」
「それは残念ね。これに毎日入浴できる奥様たちが羨ましいわ。でも、私だけには売ってくださる?」
オーロラは強く迫った。しかし、スティーブは首を縦に振らない。観光業収入を失いたくないというのもあるが、母親と妻たちにこのアドバンテージを失いたくないと強く言われているからだ。
その後もオーロラは手を変え品を変え条件を提示するも、スティーブは首を縦に振らなかった。
温泉を買いたいというのはなにもオーロラだけではなかった。貴族の夫人たちは、皆夫に温泉を買うようにとお願いをしたのである。
しかし、貴族のトップであるスティーブに対して、誰も強く出ることが出来ず、国王に陳情が集まった。そして、国王も王妃から温泉を買うようにと言われていたのである。
国王もスティーブに強く言えずに、妥協案として王立研究所で温泉の研究をすることにしたのである。スティーブも研究用ならということで、入浴剤を提供した。
王立研究所はその入浴剤で作ったお風呂の効果を試す治験参加者を募集する。普通は治験参加者には謝礼を払うのだが、今回は逆に治験参加権をオークションにかけた。そのお金で火山地帯の探索費用を捻出。遂には天然温泉をいくつか発見することになったのである。
火山地帯を領地に持っていた貴族は、農作業に適さない領地に頭を悩ませていたが、温泉の発見により収入が激増し、アーチボルト領のように金で農作物を買うという解決方法が出来た。街道や鉄道も国の予算で整備されることになり、温泉の効果を世に知らしめたスティーブに感謝したのである。
また、天然温泉を持つ貴族以外にも恩恵はあった。戦争の可能性が減り、その能力をもてあましていた水属性の魔法使いたちも、魔法で温泉を作り出すという仕事が出来たのである。
魔法で作り出す水はイメージしたものとなるので、スティーブのところで温泉に入り、そのイメージを頭に焼き付け、魔法で再現する事が出来た。
魔法使いを抱える貴族はこれで温泉を手に入れたのである。オーロラもその一人だった。
これにより、アーチボルトラントの温泉客は適切な数にまで減った。それにより、スティーブにも時間的余裕が出来た。
そして、たまっていた工場の仕事にとりかかることが出来るようになったのだ。
ニックはスティーブと一緒に決裁書類に目を通しながら質問する。
「温泉は各地に出来ましたが、シャンプーやリンスはまだ出来てないんですよね。売ったらどうですか?」
「ニック、そういうものは外観がうるさいんだよ。容器に少しの傷があっても高級感が損なわれる。だから、売ることはしないんだ。宿の宿泊客だけに提供するくらいがちょうどいいんだよ」
「随分と詳しいですが、経験でもあるんですか?」
スティーブには前世の記憶で、仕事仲間が化粧品の容器の成形をしていて、外観検査が大変だと言っているのを聞いたというのがあった。
特に高級化粧品はクレームが多く、利益率が悪いと言っていたので、やりたいとは思わなかったのである。
「まあね。エマニュエルから聞いた話だけど」
そう誤魔化した。
ニックは頭をかきながらぼやく。
「なんで女ってのはいくつになっても綺麗でいようとするんですかねえ」
「なんでだろうね。一説には男は子供を作ると他の雌に向かっていくから、それを止める為じゃないかなんてのもあるね」
.
「そりゃあ若くて綺麗な方がいいですからね」
「ほら、そういうところだよ。そんなこと言うから、奥さんが綺麗にして他の女に目移りしないようにするわけ」
「しかし若様もそこまでわかっていながら、どうしていつも怒られるような事をしてるんですか?」
ニックの言葉になにも言えないスティーブであった。
いつも誤字報告ありがとうございます。