骸 MUKURO
「雫ちゃん起きられる?忍ちゃんをお願い出来るかな?」
楓が言い、雫は起き上がると翔の頭を撫で、倒れている忍を抱き上げた。
岩屋で様子を見ていた聡史と涼子が駆け寄る。
聡史が忍を抱き岩屋へ運ぶ。涼子と雫が翔にも手を伸ばすと楓に止められる。
「翔君はこのままで。目が覚めたらやる事があるから。本当に居眠り王子様ね~」
言葉に従い、翔を霽月の前に横たえると二人は岩屋へ戻って行く。
二人が岩屋へ到着するのを見届けると楓が一点を見詰めた。
霽月が唸り始める。
「さてと、隠れていないで出てきなさいよ。月が綺麗よ。」
地面が波打ち腐臭が湧き上がる。ふつふつと地面が液状化して黒い大きなものが頭を出し、次第に肩、胴体、足が浮かび上がると地面が再び凝固する。
月の光に照らされ全体像が浮き彫りになる。
鬣を生やし、目が縦に付いた顔はアメリカパイソンの様で額から二本の赤い角が生え、鼻腔の下にある口は横に広がり奥に深く裂け、鮫の歯のような鋭い牙が並んでいる。
体表には針金のような太く長い毛で覆われ二本ある手と足には七本の指と短刀のような爪が付き右手には大きな出刃包丁を持っていた。
その大きさは猿哮よりも二回り小さい。普通の狒狒の倍程度の大きさである。
実体化が終わると夏にも関わらず口からは白い息を吐き散らしていた。
新たに現れた物怪は伝承の『鬼』を連想させる。
鬼の出現に史隆達は楓の周りに駆けつける。
「楓さん。こいつは?」
史隆がふらつきながら楓に訊ねる。
鬼の瘴気に意識を保つことが精一杯になっていた。
「隆一君の仇・・・の片割れってところね。魂の断片だけになっていたのがここまで再現出来る様になった。それで狒狒達を使って暴れ始めた・・・ってところかな。どうなの?猿哮。何時までこいつに踊らされているの?」
猿哮は楓を見詰めたまま表情を変えずに立っている。
瑠弩と嵯臥は興奮して唸り声を上げていた。
鬼は楓の顔を暫く見詰め、膝を沈めると後ろに跳んだ。
猿哮の横に降りる。
「何下がってるのよ。恥ずかしがり屋さん?まあいいわ。史君。まだ頑張れる?」
楓は史隆に言う。狒狒は三十頭程の数。
「一人十頭だな。哲也、一志君動けるか?」
左右にいる二人に声を掛ける。
二人とも満身創痍で立っているのがやっとといった状態だった。
「普通なら全然余裕のノルマなんですけど・・・まあ頑張ります。」
一志が言い、哲也の様子を見る。
哲也も肩で息をしながら左手を上げて同意している。
三人の様子を見て「じゃ。お願いね~。」と言い、楓は岩屋の琴乃に向い、霽月にも「翔君見といてね。」と言った。
「さて、残業と行こうか。父さん。この業界ってブラックだな・・・っていうかさあ、一番のダメージは楓さんの衝撃波だった気がするけど・・・」
哲也が冗談を言うが半分は本気であった。
狒狒が前に出て来た。的を絞らせないように分散して包囲する。
楓が退いたのを見て無理に攻め込まないようにしているようであった。
楓は岩屋に来て琴乃の状態を見る。
出血は止まっているが傷口はじくじくと開き筋肉の繊維が見える。
涼子に往診用鞄を取りに行かせ玄司に傷の周囲の服を切るように指示する。
鞄から小瓶を取り出し傷口に少しずつ滴らせると白い煙を上げて傷が塞がって行く。
「この液体って何ですか?」
涼子が聞くが「うん・・・水」とだけ応えて楓は左手で傷口の周囲を摩って行くと傷口は綺麗に塞がり、焦げ茶色の粕が出て来た。
粕を払うと綺麗な肌が出てくる。
全ての傷口を同じように手当し、最後に琴乃の顔を摩ると元の綺麗な顔が現れた。
「よし。これで大丈夫。後は意識が飛ばないように適度に励ましていて。」
涼子と玄司に言い、琴乃の顔を見て「あとは琴乃ちゃん次第よ。」と告げた。
岩屋の人間に「誰か水持っている人いる?」と楓が声を掛ける。
「自分の水筒に少し残っています。」
聡史が言ってリュックから水筒を出し持って来た。
「ありがとう。琴乃ちゃんに少しずつ飲ませてあげて。」
楓は一度言うと何かを思い付いたように聡史を見上げる。
いつもの悪戯っ子の楓がいた。
「聡史君チャンス。口移しで飲ませてもいいよ。後で殺されるかもしれないけどね~」
言われた聡史は琴乃の顔を見ると水筒のキャップを持って口に含もうとする。
涼子が睨んで手を伸ばし、水筒を受け取って少しずつ琴乃の口に流し込んで行った。
楓は忍の下へ歩く。
忍の事は雫が抱いて介抱していた。
岩屋の結界に守られているとはいえ、鬼の放つ瘴気は結界内にもビリビリと響き、肌と鼓膜を刺激していた。
「楓さん。あの・・・私・・・」
雫は考えがまとまらない。
知らない筈の事が分かる状態が続き思考が目まぐるしく変わる。
ここにいる人間、物怪、思考する全ての者からの情報が次々に頭の中に入って来て思念の海で溺れるような感覚が続いている。
現れたばかりの鬼からは底の知れない『純粋な憎悪、凄まじい悪意』が流れ込んで来た。
誰もが興奮し怯えている『心』が無限のループを送り続けていた。
目の前の楓の思考を除いては・・・
「うん。これ終わったら忍ちゃんと同じレッスンしようね。今は少しだけ落ち着こう。」
楓は言うと左手の指先を雫の額に伸ばしそっと触れる。
触れられた雫は目の焦点がはっきりして水の中に潜っていた状態から陸上へ這いあがる事が出来た。
楓は、雫に抱かれた忍の頭を優しく撫でる。
「頑張ったね~あなたのお陰で皆無事に生還したよ。ご苦労様。ありがとう。」
そっと呟いた。
雫は楓の表情を見て懐かしさと母性の深さを感じた。
黎明寺で祖父が物語を話してくれていた時、いつも優しく見ていてくれた薬師如来像の顔が思い浮かぶ。
「雫ちゃん。今は複雑な心境だとは思うけど、翔君の本当の力を見てあげて。」
言い終わり立ち上がると、希代司に「応援が来るまで皆をお願いね。」と告げ、前線に向って歩き出した。
槍穂岳登山口 特別捜索本部。8月6日日曜日0時18分。
サイレンの音が遠くに鳴り渡る。
外回りの山住衆が捜索本部に緊急車両の到着を報告した。
続いてもう一台の赤色灯も麓に確認出来たと告げられる。
「皆さん準備はよろしいでしょうか。」
村井が皆の顔を見て声を掛ける。
弥生が車から出してきた鞄から必要と思われる物を宗麟と分け、本部内の応急用品をそれぞれが持って外に出た。
先に到着したのは血液運搬用の車両だった。
製剤が入ったボックスを受け取り医師の到着を待つ。
約5分遅れで救急車が到着し、医師が受け取りのサインをした。
「課長!大丈夫なんですか?」
浅井が大きな声を出し駆け寄る。弥生や宗麟も近付いて来た。
「これが大丈夫な人間の姿に見えるのか?」
頭に包帯を巻き、首にもコルセットがはめてある。深山は冗談めかしに言って笑い、迎えてくれた人達に曲がらぬ首を伸ばし、頭を下げ「帰還しました。」と告げる。
「帰還しました。じゃないわよ。あなたはここで皆と一緒に留守番よ。」
車から出て来た裕子が言う。
「裕子先生・・・救護班の医師って先生が行かれるんですか?」
弥生が言う。
弥生は翔の事件の後、深山の斡旋で裕子と同じ青嵐学院大学附属病院に就職する事が出来た。
深山に救われた共通の知人であり、翔の治療を担当してくれた事から、医師と看護師の間柄を越えた繋がりがあり親交が深い。
「弥生さん。翔君や雫さんも無事のようですね。佐々木監理官からの・・・多分、楓さんからのご指名で呼ばれたの。恐らく何が起こっているのかを見せてくれる気がするわ。勘だけど。この人達もどうしても見たいって聞かないのよ。和尚さん。喝。入れてやってください・・・って、皆さんも行くんですか?」
弥生達の装備を見て裕子は唖然とする。
「まあまあ。」と言う深山をひと睨みしてから微笑む。
「それじゃあ、皆で深夜の山登りしましょう。知り合いが多いと安心出来ますし。」
皆に振り返って裕子は笑いながら言った。
「では、お願い出来ますか?本来自分が行くべきですが何か事情があるみたいで、ここで血液製剤の受領のみで病院に戻るよう言われていますから。」
松田総合病院で深山達の担当医をしていた正田が言う。
「はい。ご説明するには時間のかかる事情が有るものですから。まだ、余談を許さない患者さんもいると思いますのでよろしくお願いします。」
裕子が言い。血液製剤を受け取り深く頭を下げた。
救急車がロータリーを順行して帰って行く。九鬼藤次が立っていた。
「藤次さん。」
九鬼の従者達が駆け寄り無事の確認をしていた。
救急車が帰った後、捜索本部に黒塗りのトヨタアルファードが2台静かに入って来た。警官が近付き事情聴取をしようとした時だった。
森の中から声が上がる。
山住衆が何かを叫んでいるのを聞き、警官達は声のする方へ走った。
西の登山道から子供くらいの影が藪の中を飛び跳ねながら津波の様に押し寄せて来るのが見えた。
「猿神か?村井さん達は一旦本部に戻ってください。こちらで対処します。」
彰幸が言って山人刀を振り込む。斬撃の先の猿神が消滅した。
猿神は大きく迂回して鳥居を越え本部裏の崖に入る。
藤次が回り込んで迎え撃ち『破邪の法』を打つが怪我の影響もあり効果が低い。
警官の銃は役に立たず、風丘のライフルと巳葺小屋で渡された刀を振るう佐藤と片岡が意外な戦力になっていた。
巳葺小屋で猖獗から逃れた猿神が本部へ攻撃の的を変えて来ていた。
猿達は絶えず動き的を変え神崎一門に攻撃してくる。
個々の対戦では問題なく対応出来ているが、数が多過ぎた。
徐々に後退して本部前のロータリーにまで戦線が下がって来てしまう。
照明の明かりに蜘蛛の糸のような白い影が散らばった。猿神達の動きが止まる。
人の形をした小さな紙と羽毛のような細かい羽根が舞い『斬』と声が聞こえた。
空には満月が輝き捜索本部前の広場を照らしていた。
美しい夜空に血飛沫が舞う。
猿神達は一斉に首が落ち、身体を裂かれて絶命し、煙になって消えた。
「何だよ實さん。結婚式か?山ん中入るんだぜ。羽織袴に草履って。山なめるにもほどがある。」
「そういう直さんだって正装してるじゃないか。コスプレか?楓さんに会いに行くんだ。きちんとした格好しないと恥ずかしいだろ。」
「同じ理由だよ。うちは陰陽師の家系なんだぜ。狩衣は伝統衣装なんだよ。」
戦いが始まった時。到着していたアルファードから降りた二人の影は、九鬼家統領の九鬼直志と龍崎家統領の龍崎實明だった。
「父さん。」
藤次が声を掛け、歩いて来た。神崎彰幸も駆け寄って来る。
「藤次・・・なんだそのやられ方は。まあ、死なんでよかったな。相手が相当悪かったみたいだが・・・もう少し精進しろよ。」
九鬼直志が言う。藤次は「はい。」と言って笑顔を見せた。
「彰幸君。御無沙汰してますな。遅れて申し訳ない。うちの娘が帰って来ないんで迎えに来たんだよ。我々も巳葺小屋行っていいかな?」
龍崎實明が神崎彰幸に訊ねる。
彰幸は「勿論です。よろしくお願い致します。」と答えた。
事態が納まり牟田から「もう大丈夫です。」と言われ浅井が外に出る。
始めて物怪の襲撃を経験した裕子は身を固めていたが夫の深山を見て口を開いた。
「・・・何?山ってあんなのばっかりいるの?・・・そうなる訳よね。」
裕子は深山の頭から爪先までを何度も往復して見た。
「いや・・・僕は今のの三倍位大きい奴にやられたんだけど・・・ね。もう片付いたみたいだし・・・大丈夫だよ。」
会話を聞いていた弥生も笑っている。
一度死にかける程の思いをしていたが、仲村も含め超自然現象に対する免疫が出来てしまっていた。
「楓さんが呼んだ以上、きっと大丈夫ですよ。先生を待っている患者さんがいます。急ぎましょう。」
弥生が言うと、裕子は自分の使命を思い出し『医師』の顔に戻る。
「そうですね。弥生さん。助手をお願いします。」
女性二人は意気揚々と本部を出る。
「・・・女性。というか、母親っていうのは強いですね。」
仲村は言い、続いて行く。宗麟と村井も顔を合わせ笑いながら出て行こうとした。
「あ、あの。これお願い出来ますか?流石に重いものは持てそうにありません。」
深山が血液製剤の入った保温ボックスを指差して言った。
慌てて戻って来た宗麟が持ち深山の肩を叩いて外に出た。
深山も身体を引き摺りながら外に出ると最初に外に出ていた浅井が宗麟から保温ボックスを受け取っていた。
「ん?深山君か?酷いやられ方だなー。歩けるのかい?」
九鬼直志が、本部から深山が出て来たのを見て声を掛けた。
「ああ、直志さん・・・そうか。直志さんが来てくれたから早く片付いたんですね。」
「まあね。龍崎の實明さんもいるから皆で楓さんとこ行こうか。」
柔らかい月の明かりに照らされ、灯籠の前に救護の為の応援隊が集まる。
当初の編成に九鬼、龍崎の統領が加わったので神奈川の神崎一門は残り、代わりに三人衆が入る事になった。
先頭に牟田と山住衆の三人、風丘と宗麟に村井、そして弥生、裕子、仲村が並び山岳救護班の佐藤と片岡が入り、浅井と深山そして藤次が続く、応急の医療器具と担架を持つ九鬼家と實明が連れて来た龍崎家の人間がその間に護衛として入り、最後尾に龍崎實明と九鬼直志が入る。
「それでは、参ります。暗闇の道中ですので足元にご注意願います。」
総勢三十三名の救護隊が月明かりの山に入って行った。