青嵐学院大学附属病院 小児医科部課長 深山裕子
今日の朝。
深山のスマホに翔達が襲われたと県警特殊事例対策本部監理官の佐々木涼子から連絡があり、深山が楓に内容を大きな声で説明し、佐々木に楓との会話の内容を話しているところで忍が着替えてザックを手にして一緒に行くと言い出した。
深山は反対したが娘の真剣な顔を見て裕子が許可した。
その条件として楓の判断を仰ぐ事としたが、裕子は『行くんだろうな』と思っていた。
本当に二人で出て行った後は心配で何も手に着かなかった。
16時を過ぎた頃、青嵐学院大学附属病院の小児医科の医局で午前中に診察した担当医からの報告書に目を通していたところでスマホが震えた。画面を見ると『神崎史隆』とあり、嫌な予感と共に電話に出る。
『申し訳ありません。槍穂岳登山口の特別捜索本部が急襲に会い深山さんが負傷しました。現在、県立の松田総合病院に搬送されています・・・』
後半は何を語っていたのか分からなかった。「連絡ありがとうございます。」とだけ言って電話を切り、恩師でもある副医院長の田辺に相談すると「業務の代わりをするからすぐに駆け付けて下さい。先程こちらにも槍穂岳の件について報告が入りました。今、遠山医院長が県警や松田病院と協力体制について医師の派遣を検討しているところです。楓さんが係わっていますから大丈夫だと思いますが、逆に楓さんが絡んでいますから遠山医院長が暴走する前に深山先生が向かわれた方が収集が付きます。場合によっては深山先生にも治療の要請があるかも知れません。現地では先生のご判断で必要と考えられる医療行為を行って頂いて結構です。最終的な責任は全て我々が取ります。よろしくお願いします。」と力強く送り出してくれた。裕子は心の底からこの田辺と出会えた事を神に感謝した。自宅に戻り留守番をしていた裕一を連れて松田町へ急ぐ。病院に辿り着くと旧知の医師が救急担当をしている事が分かり医局で状態を聞いているとスマホが震える。『楓さん』とあり直ぐに出ると『裕子さん。ごめんなさい。忍ちゃんがさらわれたの。』といきなり言われその場で膝を付いてへたり込んでしまった。何も話せないでいると『でも大丈夫よ。あの子には守護が付いているから。それに翔君も一緒にいるみたいなの。多分、雫ちゃんも同じ所にいて、この二人にももっと大きな守護精霊が付いているから。相手は物怪。十年前に裕子さんにも話して、深山君に怪我を負わせた者達。こういう時の為に忍ちゃんは身を守る術を身に付けているから、心配している事は分かるけど私を信じてもう少しだけ待っていて。必ず忍ちゃんを助けるから。事が落ち着いたら裕子さんの力が必要になるかも知れないけど、その時は力を貸してね。』話を聞いている内に何故か心が落ち着き力が漲って来ていた。「はい。信じて待ちます。私に出来る事は何でもやります。何時でも呼んでください。」と言って通話を終える。『その為にここに来たんだ。』深山裕子は医師として強く心に刻んだ。その後、浅井からも連絡があり、より詳しい内容を把握すると夫の病室に向う。かつて南足柄の病院で短い間だったが同僚として働いていた医師の正田が息子の裕一と遊んでいる姿を見て声を掛けた。正田も県警や松田総合病院の医院長から青嵐学院大学附属病院との連携を聞いていて必要な事が起きたら協力をお願いされた。
今となっては、忍は修学旅行にでも行って、一回り成長して帰って来るのを楽しみに待っているような気持ちでいた。その代わりに大きな子供が先に帰って来ただけだと思っている。
裕子が静かに自分を見詰めている姿を見て、深山は語り出した。
「史隆さんが、楓さんは人の生きる事と死ぬ事についてはあまり関心を持っていないって言った事があるんだ。言われてすぐに反論したんだけど、史隆さんは続けて、楓さんは自分が生まれる前から今の姿のままでいる。自分の時だけが止まり、他の人の時計のみ進んでいたら。目の前を通過するだけの存在にどれほどの興味を持つのだろうか。と言っていた。確かに楓さんと初めて会ってから今日に至るまで姿は何も変わっていない。他の人間はそれぞれ年老いて行き、新しい生命が誕生した・・・あまり言っていない事なんだけど、楓さんは我々が思っている神様や精霊だけじゃなく、実は物怪とも精通しているんだ。人間よりも遥かに永く生きるそれらと、人間との調和を担っているんじゃないかと僕は勝手に思っている。確かめた事は無いけど同じように思っている史隆さんが言いたかったのは、楓さんは人々の命を軽んじている訳ではなく、人間のみではなく、この世に在る全ての生命そのものが、生まれてから死ぬまでを流れる大きな川の傍らに立ち、濁りや氾濫を抑える事をしているだけなのだと言いたかったのかもしれない。」
深山は天井を見続けていた。
「何それ。神様よりも更に上の神様がやる事みたいね。でも納得出来る解釈だわ。いっそうの事『楓さんって本当は神様なんです』って言ってくれた方が安心出来る。同性から見ても憧れるような綺麗な顔とスタイルでいつまでも変わらないなんて、同じ人間・・・ではないのは分かっているけど、『人として』生きているかと思うと随分神様って不公平ねって思うわ。青嵐大病院の現医院長の遠山先生が学生時代に楓さんに出会ってから一生のアイドルとして今でも暇を見つけては東洋医心研究所に遊びに行っちゃうのよ。あそこの所長の皆川先生って戦争孤児だったお父さんとお母さんを楓さんが拾って育てて生まれた子供だって医院長が言っていたの。それを普通の事としてさらっと話す医院長も凄いと思ったけど、皆川先生にとって楓さんはお祖母ちゃんになっちゃうのよね。知らなければ楓さんが皆川先生のお孫さんって思っちゃうわ。その皆川先生もお子さんが独立して奥様が亡くなられても楓さんが一緒にいてくれるから今でも元気でいられるって、忍に弓道を教えてくれながら私にだけそっと仰っていたわ。楓さんの立場で考えると自分が愛情をかけた子供達が自分を置いて先にいなくなることをずうっと見て来たって事なのかしら。史隆さんの考え方も的を射てるかもね。まあ、その楓さんを極普通に受け入れている私達も変わっているのかもしれないけど。それでも私はあの人が好きよ。微妙に時代に合わせきれていないところとかもね・・・それで?ゲームがなによ。」
深山はもう一度今回の事件について整理する、
先ず、翔の親友である聡史が『槍穂岳』に登ろうと翔に持ち掛けた。
理由は不明だがそれまで翔が山に登る事は家族の反対で可能な事ではないと分かっていての誘いだった。
即日忍からその情報を聞き楓に相談すると、黎明寺の宗麟と深山を経由して経緯を語らせ、翔自身が登山を望むようであれば最終判断をすると回答された。
結果として翔は楓と面会し、槍穂岳への入山を許可されるが、整備された登山道を進むという条件が付いた。
そして昨日、8月4日に彼らの登山が実行された。
雫からの聞き込みでは、前の晩から弁当を用意するため友人や聡史と夜を明かし、早朝から電車とバスで槍穂岳登山口に入った事が分かっている。
当日の彼らの行動は神社参道のカメラや神社での参拝記録、神職からの事情聴取で奥宮までは順調に歩みを進めていた事は確認していた。
事態が動いたのは奥宮を出立した後だった。
衛星や気象レーダーからは確認出来ない雷雲によって彼等は簑沢峠から、どういう経路で入ったのか不明だが、巳葺山の南麓にある通称「巳葺小屋」へ避難した。
当日の天候は公式には「晴天」だが、実際に簑沢峠をハイキングしていた人達や簑沢峠ロッジの管理人からの証言でも同時刻に嵐が起こり大雨が降った事は確かである。
巳葺小屋には隆一の第一発見者である脊山稔がいて、翔達を向かい入れ翌朝まで小屋に泊まり、早朝簑沢峠まで送る約束であった。
本日未明。
小屋に狒狒が侵入し脊山を殺害。翔達は被害を受けず陽が登ると登山管理システムの緊急時連絡ダイヤルを利用して秦野警察署へ救助要請をした。
秦野警察署は、山岳救助班に調査と救助を指示し、「殺人事件」の疑いありとして県警本部へ報告を上げる。
県警本部へ入った報告内容から、特殊事例対策本部案件の疑いありとして担当監理官の佐々木涼子警視へ通達され、救助対象者「神崎翔」の名が伝えられると至急救助体制をとり、現場に特別捜索本部の設営を所轄に指示する。
佐々木から「神崎翔が襲撃された」と深山自身に連絡が入り、即時楓に通達。
同時に神崎弥生と聡史の父、仲村弘人にも報告した。
妻の裕子に話そうとした時、既に着替え登山準備を整えた忍が自分も行くと言い出し説得しているところ、騒ぎを聞いた裕子が忍の姿を見て「行ってきなさい」といって深山に同行するように促した。条件として楓の判断を仰ぐ事とするが結果、同行した。
楓と槍穂岳へ向かう。
佐々木監理官から状況の確認をする。
楓は道中、神崎総本家の史隆へ東丹沢包囲網の指示を出す。
神崎家だけではなく山梨の龍崎、小田原の九鬼にも応援させるよう史隆に指示していた。
楓はこの時、両家現統領へも応援の『命令』を下していた。
更に警察庁へも連絡。
神奈川県警からの報告と照合して警視庁、山梨県警にも東丹沢、巳葺山周辺への進入路封鎖と登山客の緊急退去を要請。人員不足分を静岡と埼玉の近県から応援を出すようにも指示する。
国防大臣からの協力は拒否していた。
捜索本部に到着し、所轄警察署の村井警部補と現場状況の情報を共有し、槍穂岳周辺の登山道封鎖を依頼。
巳葺小屋へ向かっている佐々木監理官へ楓が身の守り方と、山の守護神への対応を指示する。
現場へは所轄の山岳救助班が先行して到着し、翔達の安全を確保していた。
神崎弥生と雫、仲村弘人が捜索本部に到着。状況を説明し、二人の無事を報告する。
佐々木監理官達が宗麟の案内で巳葺小屋へ到着。
大蛇との遭遇の後、県庁の案内人、藤盛氏が突如現れた狒狒により惨殺される。
狒狒との交戦に楓、忍が参戦したらしい。負傷者を出しながらも楓により狒狒を撃退。
東丹沢包囲網の『籠』を閉じるため三家による山狩りが始まる。
山狩りの成果は無く、包囲網が少しずつ狭まって行く中、突然捜索本部に狒狒の大群が襲撃して来た。警察官の応戦もむなしく壊滅し、深山を含め大勢の負傷者が出てしまい、雫を連れ去られる。
現時点で指示者は不明だが、恐らく佐々木監理官の指示により応援の県警隊と救急車が現地に入り、深山を含めた負傷者の応急処置と救急搬送を行い、特別捜索本部の即時復興が行われる。
九鬼一志の一行が復興中の捜索本部に到着。
一志の術によって狒狒の痕跡を発見し雫救出に向かう。
巳葺小屋から夜になる前に翔達と佐々木監理官等が捜索本部へ退避する道中、またしても狒狒の別動隊に襲撃され九鬼の次男、藤次が負傷し翔と忍が連れ去られる。
史隆達が槍穂神社参道を駆け下り特別捜索本部に到着し、宗麟、浅井と今後の警備体制を打ち合わせた後、楓の待つ巳葺小屋へ出立した。
深山が、現場の浅井から裕子が聞いた内容を含めて承知しているのはここまでだった。
『頼りない子』だと思っていた浅井が一人で悪戦苦闘している姿が目に浮かんでいた。
『これが終わったら、きちんと褒めないといけないな』深山が新人の頃を思い出す。
「何にやけてるのよ。人の質問にも答えないで。」
天井を見て考え込んでいるだけの夫の姿を見て裕子が言う。
「いやあ、浅井君が頑張ってるんだろうなあって考えていたんだけど、僕が新人の時の方がしっかりしていたなって思ってね。」
首が痛んだがもう一度裕子を見て深山は応えた。
「事件と環境に恵まれていただけでしょ。当時は怪奇的なものや猟奇的な事件が幾つもあって、神崎の隆一さんや県警の新井さんがいてくれて、楓さんとも早い内からお世話になっていたって自慢話してたじゃない。しかもそれって、二年目からでしょ。局長就任の御挨拶に行ったとき、葛城さんが笑って話してたわよ。『深山君も最初はこいつやっていけるかな?』って思っていたって。浅井さんは四月に移動してから、今日までは失踪者の調査と楓さんへの挨拶ぐらいしかしてなかったんでしょ。来年になってから正当に評価してあげなさいよ。宮内さんだって今は立派にやっているんでしょ。人それぞれ経験の積み方が違うのよ・・・もっとも、こんな経験。公務員、しかも市役所の人間がする事ではないのよ。普通はね。」
裕子の指摘は正しかった。確かに自分は恵まれていたと深山は改めて感じている。
今もだが、死線を越えそうな思いを何度か経験している。
しかし、楽しかった。目の前にいる妻もだが、自分には有能な人物が周りにいてくれて、常に充実した生活が送れている。
中学二年生で天涯孤独になってはいたがY.PACから派遣される担当の社員の人達はいつも親身になって対応してくれた。
寮の人達も世話をしてくれて、病気の時なども家族同然に扱ってくれていた。
『家庭生活を知らない』と言うのは噓になるくらい恵まれていたと思っている。
そして現在、自分には手にすることは出来ないと思っていた『本物の家族』がいる。
宮内も、浅井も家族はいない。
彼等にも自分と同じように彼等なりの幸せを掴んで欲しいと願っている。
「それでね・・・博くん。そろそろ質問に答えて頂けませんか?」
裕子の敬語を聞き、背筋が凍る。
「・・・はい。」
深山は話し易くなるように前を向き、天井を見ながら話し始める。
「事の始まりは翔君と隆一さんの事件からだった。哀しい事に国内・・・世界を見ても屈指の実力者と言われていた隆一さんが亡くなられて、翔君が巻き添いにあった。この事件は今でも謎なんだけど、楓さんは全部把握していると思う。全て知った上で我々には事実の一部しか話していない。意図的なものなのか、楓さん特有の『面倒くさい』からなのかは別としてね。翔君の治療は裕子さんが診てくれたから説明の必要はないけど、その際に、多分『最強の精霊』が翔君の中にいる事を楓さんも史隆さんも知っていた。だけど、隆一さんが亡くなる時にその精霊も負傷していたんじゃないかな。昔、まだ駆け出しの頃、隆一さんから都市部に比べて『山』には天然の物怪や本物の『神』が未だに存在していて人間が迂闊に領域に入ると助け出せない事の方が多いって言われたんだ。そこで楓さんは翔君に『敵』になるかも知れない物怪が存在する『山』に入る事を禁じた。恐らく負傷していたであろう精霊も今は完治している。そして、何故か親友の聡史君が翔君が山に入れないのを知った上で因縁の地、槍穂岳への登山を誘った。楓さんはこの偶然も感付いていたんじゃないかな。忍が僕に翔君の事を伝え、楓さんに相談したとき、『翔君に過去の出来事を話しても良い頃になったね。』と言って宗麟さんと僕に説明役をまかせて、彼の意思を聞いた上で最終判断を楓さんがする事になった。それで、今日の出来事に繋がっていく。楓さんが許可したから僕達は安心していたんだ。それに翔君が山に入る事によって隆一さんの事件についての記憶が戻る事も期待した。ところが登山道に沿って歩く条件から、衛星や気象レーダーからの映像には現れない嵐に遭遇して、巳葺小屋に行ってしまう。そして狒狒との闘いが始まってしまった。翔君が巳葺小屋へ行くまでのハプニングを楓さんが予知していたのかどうかは分からない。ただね、今となっては『終に主人公がコートに立った』という風に感じている。その主人公の下に各種プレイヤーが勢揃いして壮大なゲームを開始したんだ。『秋月楓』という指揮官を得てね。」
「楓さんが皆を集めて遊んでいるって事?」
裕子が聞く。
「そうじゃないよ・・・そうか、史隆さんはこの事を言っていたんだな。楓さんにとっては人の生き死に、それ自体に関心がない・・・人間はこの世に生を受けてからは平等に、それぞれの死に向って生きて行く。楓さんを除いては・・・今回不幸にも死人が三人も出てしまった。脊山さんは別として、一般人がゲーム会場に侵入しないように楓さんが整理する前にコートに紛れてしまった藤盛氏と佐々木さんの部下。これは流石に楓さんにとっても予想出来なかったかもしれないけれど・・・人間が成長する時には生死を分ける程の試練が必要な場合があるんだ。」
深山は話しを止め、裕子を見る。
「翔君が試練を受ける必要があったって言いたいの?」
裕子が言うのを深山は、やっと上げた右手を振った。
「裕子さん。こんな前代未聞のゲームを会場で見ないと勿体ないよ。裕一をお母さんに見て貰ってさ。コートには名プレイヤーが揃ったんだ。本当は巳葺小屋で見たいけどせめて捜索本部で見ようよ。」
「は~あ?何言ってんのよ!いい加減にしなさい。あなたが行くのはゲーム会場じゃなくて検査会場よ!今度はSPECT検査やるわ。」
「あの・・・そのゲーム。僕も見に行きたいんですけど・・・」
カーテンが開き大学生くらいの年齢で、背の高い細身の美青年が入って来た。
全身の至る所に包帯が巻かれている。裕子の陰になってしまい深山からは見えず「誰?」と聞く。
「九鬼藤次です。深山さん。兄がお世話になっています。」
従者の女性に肩を借りてやっと立っている状態だった。振り返って藤次の状態を見た裕子が言う。
「あなたも絶対安静ですよ。二人共ドクターストップです。」