『まさか・・・』
東丹沢 雨山峠古道
「自分のミスです。申し訳ありません。」
史隆達は一般には知られていない古道を走っている。
槍穂岳登山口特別捜索本部の援護に回った山住衆から本部壊滅し雫が強奪された報告を受け史隆は走りながら楓に連絡を入れていた。
事態が動いたが物怪の陽動にまんまと釣られ自身の姪を連れ去られるという失態を犯していたことを謝罪している。
『史君のせいじゃないよ。さっき深山君のとこの浅井君から聞いたけど、やっぱりこの狒狒には幽世使いがいるね。でも雫ちゃんには強力な追手が入ってるから大丈夫よ。一志君が向かっているんなら彼が現場行けば幽世の癖を掴めると思うから次の手が打てるよ。それよりもさあ史君。その歳でここまで走れるの?ふふふ・・・哲也君に任せて後からゆっくり来なさいよ~大丈夫だから。』
この状況において何故楓が落ち着いているのか理解出来ていない。
「歳は関係ないですよ!まだまだ若い者には負けていません。それに幽世使いってそんな高度な術使える物怪がいるんですか・・・とにかく全員巳葺山に向かっています。何か作戦ありますか?」
実際、話しをしながらも史隆が一番早く走っている。
登山道とは全く様相の異なる険しい道とは言えない道を進んで行きながら要所に山住達がいて正しい道を指し示し、人数を増やしていった。
『ん?作戦何てないよ~こうなったら出たとこ勝負で行こう!まあまあ若い子達を信じて任せなよ。保護者として頑張っちゃうの?オジサンの星だね~頑張って来てね。』
通話を終えると息子の哲也が横に来て話を聞くが「いつもの楓さんだった。」と言って速度を上げた。
『・・・まさか。な・・・』史隆の中で一つの疑問が浮かび、心の中に沈めた。
槍穂岳登山口 特別捜索本部 16時
「重傷者六名。軽傷者二名。行方不明者二名。損壊車両四台に特別捜索本部全壊。路面の陥没箇所は三、また街路樹が花壇の花を含めて八割程度破損しています。道路照明は無事です。また所轄移動が二台損壊しています。以上が現在判明している被害になります。重軽傷者八名は緊急搬送完了、県立松田総合病院が受け入れています。」
応援で来た県警本部の田中巡査部長は村井に報告を行っていた。
重傷者には深山が、行方不明者には雫が含まれている。
「ありがとうございます。ところで、誰の指示で応援に来て頂いたのでしょうか?」
村井が聞く。
狒狒の襲撃からわずかな時間で警察車両だけでなく救急車までが入り全員が搬送出来たのは、まるで襲撃を知り被害が出るのが分かっていたかのようなタイミングであった。
田中は驚いた顔をしたが報告をする。
「自分は本日11時県警本部から十二名の部隊で寄入口の県営バス営業所の駐車場に待機するよう命令が出て13時から現地待機していました。救急車両は別の指示で14時に最初の2台が入り出動命令が出た時に3台が加わりました。捜索本部の村井警部補からの要請と聞いていますが。」
当然、村井は要請を出していない。しかし助かった事実に変わりがない。
これだけの被害を出しながら死者が現時点でいなかった事は村井の心を救った。
「分かりました。本当に助かりました。行方不明者の捜索を行いたいのですが、この後も手伝って頂けますか?」
「勿論です。終結するまで戻るなと言われていますから。ご指示下さい。」
田中の言葉に、村井は奥歯を噛み締め目を瞑り敬礼する事しか出来なかった。
17時。秦野署からも応援が入り特別捜索本部の建て直しが始まる。仮設テントのシートはテープ補強され曲がった骨組みの鉄骨は入れ替え、内部機材の半分は再起動出来てはいる。夜間に備え仮設照明が導入される事になった。
周辺警備をしていた警官からバスロータリーの崖下に多数の人影を発見したと報告を受け、村井が見に行く。
落下防止の手摺を手が掴むと崖から勢いよく手摺を飛び越えて一人の青年が現れる。
身長180センチメートル位の線の細い美青年というのが第一印象だった。
その青年が下に声を掛けるとわらわらと総勢二十名の男女が崖から上がって来る。
その中に行方不明だった警官が、大きな男達に抱えられているのが見え歩み寄る。
「気を失っています。救急車を呼んでください。」
美青年が言う。
「見付けてくれたんですか。ありがとう。すぐ呼びます。」
村井は礼をして、応援の田中達に部下の手当と救急隊の要請をお願いした。
「ところで、何で崖から・・・あなた方は?」
村井は恐る恐る聞いた。
「九鬼一志と申します。これが最短ルートなものですから。狒狒の討伐に来ました。」
浅井から聞いていた男であった。
崖を登って来たというのに九鬼の白い服に汚れは一つも見えない。
救いの神を見るような目でこの美青年を見つめる。
「あなたが九鬼さん・・・お願いします・・・あの子を・・・神崎雫を助けてください・・・お願いします。お願い・・・」
力が抜け、膝を付き、自然に口から出た言葉だった。
檜洞丸 東麓 15時46分
「は~い終わり。怪我人いる?」
怪我人など、出る筈もなかった。二十頭の狒狒は次々に龍崎琴乃に襲い掛かったが悉く煙に消えていった。
「全員無傷です。それでは道を変えましょう。真っ直ぐ進みますか?」
従者の男が琴乃に伺いを立てる。
「そうね。距離的には一番近い位置にいる筈でしょ。美味しいところは一君が取っちゃったみたいだから楓さんの所に一番乗りしましょ。」
言ってスマホを出す。史隆は通話中だったので哲也にかけ直す。
「あ、哲ちゃん、こっちは片付いたよ・・・走ってるの?何かあった?」
『今は動き有りません。一志さんが槍穂岳登山口の捜索本部に向かってくれてます。自分達も進行して巳葺山目指します。琴乃さんもお願い出来ますか?』
哲也が話すと琴乃は「そのつもりよ。」と言い周囲を見渡す。
『どうしました?』
哲也が聞いた。
「ねえ。この山変よ。あいつら、どこから出て来たのかしら?陰の気配無いけど。」
言われた哲也が応える。
『父さんと一志さんも同じ疑問があって、今、楓さんと話しています。幽世がどうのこうのって。琴乃さん。発見時に幽玄の跡ありました?』
「幽世、狒狒が?丹沢の狒狒ってそんな事出来るの?『奴』の関与があるのかしら。」
琴乃が話している最中。電話の先で史隆が何か言っているのが聞こえる。
「哲っちゃん、どうしたの?」
『あ、琴乃さん。楓さんの話だと大物の狒狒が幽世作り出せるらしいです。気を付け・・・』
話しの途中で史隆の声が聞こえた「登山口が襲われた!雫がさらわれた。」
『琴乃さん。聞こえましたか?やられました。作戦が裏目に出てしまった。』
「・・・楓さんにしては詰めが甘いわね、一戦目で殲滅し損なうし・・・まさか・・・ねぇ。」
琴乃が訝しむ。
『えっ、何ですか?』哲也が言い、何か話そうとした時琴乃が続ける。
「いいわ。仕方ない。私達は最短で楓さんを目指すから案内をお願い。」
『了解です。各所に山住衆を配置します。琴乃さんが一番早いと思いますからよろしくお願いします。』
「はいは~い。」
言って琴乃は電話を切り「皆!走るよ~」楽しそうに言った。
巳葺小屋 15時
「伯父さん。いつの間に、あんな技身に着けたんですか?」
翔が宗麟に聞いた。
「まあ。十年前の事があって、史隆君に自分も何か出来ないか相談したんだ。それでこの山を彷徨いながら試行錯誤していたところ、亡くなった脊山さんと出会ってな。彼から山の過ごし方や仲間達を教えて貰って、身を守る術を習ったんだ。彼は私の師匠でもあった。仏門に身を置く者としては復讐や執着は捨てなければならないし、ましてや殺生はご法度なんだが・・・楓さんがな。」
「いいんじゃないのって私が言ったのよ。」
楓が話す。
「見ての通り、物怪は消滅する。死体は残らないのよ。存在が幽玄なの。厳密には命っていうか魂を持つけど、死そのものとは無縁。また生まれ変わるっていう言い方が正しいか分からないけど何かの形に転生するのよ。元が自然発生の者もいれば人や動物が年月を経て物怪になった者もそれぞれの事情で最初の形に戻ったりしてね。転生先が物怪になるのか昇格して神の一員になるかは分からないけどね。人に転生する場合もあるんじゃないかな。だから、人を殺すのではなく、物怪から迫る脅威を掃う事はその者の輪廻転生を促す行為であるから仏道には反していないって言ったのよ・・・知らんけど。」
笑って言う。相変わらずの楓節で茶化した。
「本山に知られたら破門になりかねないけど、実際に困っている人を救う方法にレパートリーがあってもいいんじゃないかと思ってね。それに健康やボケ防止にも身体動かすのはいいからな。」
宗麟は笑い話にしたが、表情を変えずに静かに語った。
翔は楓に問いかける。
「楓さん。最初に狒狒に襲われた時、脊山さんを殺した奴と・・・県庁の人を殺した奴は、脊山さんが右手を切りつけた跡がある同じ奴でした。でも、大きさがまるで違っていました。倍以上の大きさだったんです。あいつ等は身体の大きさも変えられるんですか?」
同じ疑問を持っていた聡史も楓を見る。
「そうね~君達は蛇ちゃんも見たでしょ。あの大きさでうろうろしていたらすぐ見つかって大事になるじゃない。皆水浸しになるしね。彼等は幽玄の存在であり、肉体を持つことも出来るの。仕組みは今のところ誰にも分からないし、彼等に聞いても『出来るからそうしてる』くらいにしか答えないと思うのね。狒狒も精霊としては低俗の存在ではあるけど、彼等の一員である以上、得手不得手はあるものの陰に潜めるし、実際の大きさ以上にはなれないけど小さくはなれるのよ。その方が何かと都合がいいでしょ。例えば神道で祀られている神様が本当の大きさで現れたら皆パニック起こすほどになるから普段は見れる者にしか見えない光や風、臭いもそうね。花や木もそう。他には昆虫や動物、鳥になって見守っているのよ。だから、むやみに昆虫や小動物を捕まえたりするのは止めた方がいいの。」
宗麟も頷いて翔達を見ると、二人共顔を見合って頷いた。
食事を終え、片付け終わると、先程までの殺伐とした場所とは思えなくなっていた。
それぞれが夏の午後をゆっくりと過ごしていた。
楓のスマホが震える。『深山くん』とあった。
「深山君?・・・そう。大丈夫。心配しな・・・深山君?・・・浅井君。謝らなくていいの・・・」
話し終えると、翔と聡史が迫って来て叫んだ。
「ねーちゃんがどうしたんですか?」
登山口が襲われて雫を連れ去られたと楓が伝える。
二人が走り出そうとするのを「待ちなさい」と言って引き戻させた。
藪まで走った二人は行くあてもなく失速すると所轄の二人と、風丘に抑えられ楓の前に戻って来た。
「道分からないでしょ?それにね、浅井君の話しだと、頼もしい追跡者が追ってるから雫ちゃんは大丈夫よ。今、一志君が現場に行っているから報告を待ちましょう。」
楓は落ち着いて二人に諭し、宗麟にも目配せをして座る様に促す。
再び楓のスマホが震える。史隆からの連絡だった。
槍穂岳登山口特別捜索本部 17時22分
捜索本部は応援の部隊と所轄の増員によって修復され、結局通信機器は一新された。
登山口鳥居前では、山住衆の三人と牟田達が、一志と霧の消えた付近で何かの跡が無いか探っていた。
浅井も近付き事の顛末を一志に報告する。
「そうですか・・・深山さんにはまだ学生の頃からお世話になっていたんでご無事だといいんですが。浅井さんは最近御担当に?はじめましてですよね。確か宮内さんが担当官だったと思うんですが。佐々木さんとは何度かご一緒しましたけど、楓さんと一緒なら大丈夫でしょう。」
一志は何事も無かったように言う。
「はい。今年の春に移動があって深山の部下として働かせていただいています。宮内は先輩で同じ課におりますが、20日まで九州出張中です。」
一志は「そうですか。いきなり大仕事になりましたね。」と言い、牟田兄弟に最後の狒狒が消えた正確な位置を確定させるよう言うと、二人は大狒狒と対峙した場所と幽世が発生した場所をそれぞれが立ち示した。一志は幽世発生場所で右膝を付き右手で刀印を結ぶと地面に九字を切る。
紫色の煙が上がり森へ消えて行った。
「完成度は低いな。これなら追い込める。牟田さん達はここで護衛に回って欲しい。特に弥生さんをまだ狙ってくる可能性あるから三人衆も頼む。警官達にもこれ以上被害出ないよう皆、よろしくお願いします。」
一志が言うと山住衆は頭を下げ本部へ歩いて行った。
浅井と村井が一歩下がった所で見ていたが一志に近寄って来る。
一志は振り向いて二人に話す。
「あとはうちの連中と山に入ります。彼らが護衛しますから先程のように一方的にはやられないでしょう。銃刀法違反は勘弁してくださいね。浅井さんが状況を正確に伝えてくれたので良かった。とんでもない味方が後を追っています。楓さんの言う通り、雫さんは大丈夫でしょう。出発前に弥生さんとお話出来ますか?」
浅井は「勿論です」と言い、村井と修復出来たばかりの本部へ一志を招いた。
本部内には放すると一志は頭を下げ、弥生の前に座る。
「小田原の九鬼です。本家長男で一志と申します。雫さんの行方についてたった今見当が付きました。これから追います。」
弥生が一志を見上げた。
「本当ですか。私も行きます。」
言って立ち上がるのを一志は座ったまま両手で制し、座るよう促す。
「お母さん。本来はもっと正式な形でご挨拶に伺おうと思っていたんです。自分が小さいころ隆一さんには可愛がって頂いていました。静岡の総本家で雫さんと一緒に遊んだ事もあるんです。今、奴らの動きが分かりました。そして、途轍もない『神』とも呼べる大きな存在が先行して雫さんを追っています。楓さんが仰っているように絶対に助けます。ここで山住衆が護衛しますのでもう少しお待ちください。雫さんは必ず僕がお連れしますよ。」
目の前の美青年が言うのを弥生は素直に聞く事が出来た。どこか楓に似た雰囲気に心が鎮まる。
一志は隣で立っている浅井に声を掛ける。自分の番号を教え連絡先の交換をした。
「浅井さん。これからは、浅井さんを中心に連絡を取ります。本部に何かあったら必ず自分か楓さんに連絡を入れてください。神崎の史隆さんや哲也君とは面識ありますか?彼等の中からもここへ応援が入る筈です。人が増えますから浅井さんの判断で人員配置を行ってください。それぞれ必要とされる仕事をやりましょう。」
言い終わると弥生と仲村に会釈して本部を出る。
史隆へ連絡を入れ幽世の特徴と完成度の低さから幽世には長く留まれず、必ず現世に現る事を伝え、一族を連れて森に入り炙り出すと提案した。最後に本部護衛の人数を増やし、本部の指示は浅井に一任するように依頼した。
史隆も了承し新たな作戦を開始した。
「それじゃ、皆行くよ。」
一志の号令に総勢二十名の九鬼一門が森に入る。
『僕が識別出来る程度の幽世をあの楓さんが追わないのは・・・』
一志の中に大きな疑問とその解答が浮かぶが『まさか・・・ね。』勘ぐる事は止めた。