大きな蛇
東の空には森の木々を越えた太陽が強い光を降り注いでいた。森からはヒグラシの鳴き声が響き、姿は見えないが木の上からカッコウの声がする。
巳葺山の麓とは言っても標高は800メートル近い。平地に比べて5℃程度は気温が低い筈の小屋の周囲でも気温が上がって来ていた。
「まだこんな所にいなければいけないんですか?ここに着いてからもう一時間経ってるんですよ。そちらの上官が来たら終わりじゃないんですか?事件だったら鑑識やら応援が来るんでしょう?私もねえ通常外勤務になるんでね。今日が何曜日か分かっていますか?私は普通の公務員なんですよ。言ってみればこれはボランティアなんですからいい加減にしてくださいよ。もう私一人でも帰らせて頂きますよ。こんな事起こされたんで出張所に戻って報告書を書いたりして、いろいろ面倒な作業があるんですから。私がいなくてもあの女の警官達は来れたんだから帰れるでしょ。」
小屋の前を暫くの間うろうろと歩いていた県庁の公園緑地管理課の職員は切り株に腰掛けると、タオルで顔を拭いながら不満を口にした。
「藤盛さん。ご案内のご協力本当に感謝します。ですが、もう少しご協力お願いします。人を殺すような獣か、断定出来ませんが殺人犯が潜伏している恐れがあります。単独行動はお控え願います。」
小屋に入って行った佐々木達を目で追っていた佐藤巡査部長が言う。
「はあ?殺人犯はこいつらじゃないんですか?大体ね、私はこいつの顔は見たくないんですよ。救助相手がこいつなら協力は拒否したかった。十年前にも親子で無計画に入山して勝手に熊に襲われて・・・よく普通の顔して山に来れたもんだな!」
藤盛は翔を睨みつけて怒鳴った。
その言葉に怒ったのは聡史だった。
走り寄り、両手で藤盛の胸座を掴み宙にあげる。80キログラムはありそうな藤盛を軽々と持ち上げた。藤盛は足をバタつかせてもがく。
「あんた本当に人間か?今なんて言った。こいつが・・・こいつの家族が十年間、のほほんと普通に過ごして来れたとでも思ってるのか?」
佐藤と片岡が止めに入り聡史を宗麟が引き離した。
「ケッ。お巡りさんよう。見ての通り暴力を振るわれたぜ。被害届出すからそいつを逮捕しろよ。全員証人だろう、見ていたよな。法律に則り対処しろよな。」
悪態をつく藤盛に、その場の人間は睨みつけるが、何も言えないでいると、後ろから声がする。
「そうですね。仲村聡史君。任意同行を要請します。下山後事情聴取しますので私の傍から絶対に離れないように。」
小屋から戻って来た佐々木が言った。
「なんだよ、任意同行って。手錠掛けろよな。少年法か?」
藤盛はまだ何か言いたげであったが森に向かって歩き出した。
「あなたもですよ。被害者が行方不明になると立件出来なくなりますから。」
佐々木は言いながら周囲の異変を感じ、森の奥を見る。一陣の風が吹き、蝉の声が途切れ鳥が鳴かなくなった。風が吹いたのに葉が擦れる音すらなくなる。まさに無音の空間になっていた。振り返ると宗麟と目が合う。
宗麟がゆっくりと頷き岩屋を指差した。
「至急全員岩屋へ。走って!」
佐々木が岩屋を指差し叫ぶ。
須藤が翔を、風丘が聡史の手を引き宗麟が所轄の二人に岩屋を指差して走り出す。
佐々木が藤盛に駆け寄って手を引こうとするが「あんたも暴力振るうのか?」と言われ「ご自由に。」と言って岩屋へ走る。
空気が震えている。鼓膜が音を拾えずに定期的なリズムで振動だけを続ける。
何かが地を這い蠢きながら山を下って来るのを、大気の振動が地肌を通し内臓に響いて伝えている。尋常ではない質量を持った何かが森の中に存在している事だけは実感出来た。再び突風が吹き降ろし生暖かい空気が津波の様に押し寄せて来た。
藤盛を除く八人が岩屋に辿り着く。
「一般人は中へ。所轄は一般人の警護。入口を塞いで。全員銃の使用を許可します。」
佐々木が号令を掛け、翔と聡史、宗麟が岩屋の横穴に入り、所轄の二人が穴の左右に、横穴を背に佐々木が中央に須藤と風丘が左右を固めそれぞれ銃を構える。
「藤盛さん。早く!」片岡が叫ぶが。
藤盛は「何やってんだ。」と言ってやって来た道、東の藪を目指して行く。
突如空から大粒の雨が降って来た。見上げるが空は明るい。雨は勢いを増し視界を遮る。
突然の雨に藤盛は踵を返し小屋へ走って行った。
轟音と共に『それ』は姿を現した。
鼓動のリズムで空気が振動すると『それ』の通り道に振る雨粒が横に弾ける。
軽自動車程の大きな頭。巨木のような胴体を持った巨大な『それ』は地面を這いながら水飛沫を上げながら鎌首を持ち上げ、小屋の前まで出て来た。何かを探しているようにも見える。森の木々に隠れて全長は分からなかった。確かに存在している筈の『それ』は輪郭が歪んで正体がはっきりとは見えない。
『大きな蛇が出ても絶対に攻撃しちゃダメよ』楓の指示が佐々木の中で木霊する。
「総員銃の使用を禁止します。銃を仕舞って。皆動かないように。」
佐々木の指示に所轄は銃をホルダーに収め、須藤達はライフルを下に向けた。
「大きな蛇って・・・」
呟いた佐々木は改めて目の前の『それ』を見る。近寄るにつれ輪郭が露わになる。
巨大な蛇は、頭から隠れている尻尾まで真っ白く、全身を覆う白い鱗の先だけが金色の縁取りがあり大きな目は青く、口は閉じたまま岩屋を見据える。
「まあ・・・蛇ではありますな。形は。しかし、楓さんも人が悪い。これは大蛇ですよ。確かにこの巳葺山には山住の人達に伝承されている大蛇の目撃談がありますが、こんなにも美しい白蛇様とは思いませんでした。この山の守護神様ですかな。」
宗麟は穴から出てきて手を合せて拝礼をした。
大蛇は鎌首を下げ、小屋から岩屋へ身体を一伸びして真っ直ぐに這って来ると再び鎌首を上げ横穴を覗き、翔と目を合わせる。
しばし見詰め合い大蛇は顎を上げ鎌首を持ち上げて方向を変えたかと思うと、西の斜面へ這って行った。
姿が消えると雨が止み元の空気感が蘇り、ヒグラシの声が聞こえてくる。
雨が上がると地面からの湿気がこみ上げて来た。暫く誰も声を出せないでいる。
佐々木のスマホが震えた。画面に『秋月楓先生』と出ていた。スライドして耳に当てる。
『涼子ちゃん。今古道に入ったからあと40分位で行けると思うけど、大丈夫?』
山道を歩きながら藪を漕ぐ音が聞こえるが、楓は普通に話す。息一つ乱れていない。
「・・・大丈夫?じゃないですよ!大きな蛇って私・・・あ、青大将くらいのを想像してましたけど、なんですかあれ。30メートルはありましたよ!何食べたらあんなに大きな身体になるんですか。登山者に被害とか起きないんですか?」
佐々木があたふたして話す。
須藤と風丘は顔を合わせて笑っている。
『あら、もう出て来たの?翔君と話してた?その感じじゃ、もう行っちゃったみたいね。ふふふ。皆ずぶ濡れ?クク・・・翔君と換われる?』
楓の要望に翔を呼びスマホを渡す。
「はい・・・はい・・・分かりました。」と言い、佐々木にスマホを返す。
『もう大丈夫よ。あと少しで着くから頑張ってね~』と言って楓は通話を終えた。
佐々木は翔に、楓との会話を聞く。
「理解しなくてもいいから、あの大蛇が言った事を覚えておくように。何て言われたかはまだ誰にも話さない事。皆を守ってねって言われました。」
「お前が皆を守れって・・・楓さんが言ったのか・・・っていうか話ししてたの?大蛇と。」
聡史が聞く。聡史はもはや不思議な事は何も感じず、ただ目の前に起こった事実を受け止めている。
「ああ、そう言っていた。話したっていうか大蛇は、頭の中に一方的になんか難しい言い方で古語かな・・・日本語だった。」
大蛇が消えて行った西の坂を向いて翔が応える。
「楓さんが言ったんなら宜しく頼むぞ。」
宗麟が言い翔の肩を叩く。
「はあ・・・」伯父に対して生返事をしてもう一度西の斜面に目を向ける。
「蛇の最大種って現存のアミメニシキヘビやオオアナコンダでも6メートルくらいで古代最大種の蛇って言われているティタノボアは暁新世の蛇で、南米で化石が発見されているんだけど、それでも12メートルくらいだって推測されている。今の大蛇は少なく見ても倍はあったよな。それに、あの蛇アルビノじゃないぜ。眼球が青だった・・・青い色素の・・・」
「はいはい。お前のオタ話しは、今はいいから楓さんから言われた事を忘れるなよ。大体な、あれは要するにあっちの世界のもんだろ。もうさ、なんか常識ってやつが崩壊しているけど実際に見たし昨日の猿もだけど楓さんが言ってた事は何かの例え話じゃなかったって理解はして来た。それに現存する蛇が雨降らしながらやって来るのかよ。」
翔が話を続けようとするところを聡史が遮る。二人の掛け合いを見て宗麟達も笑い出し緊張が途切れ乾き始めた岩の上にそれぞれ座り始める。
「あの、監理官。自分には何が起きていたのか理解出来ないんですが。あの大蛇は何なんですか?生き物・・・ですよね。」
佐々木の隣の岩に座り、笑い損ねた佐藤と片岡が聞いて来た。当然の質問である。
「私も大蛇については分からないわ。ただね、私の管轄である特殊事例対策本部は、こういった事例を多く取り扱っている部署なのよ。秦野署でも一課の刑事の中には私と面識ある人もいるのよ。科学捜査が行き詰まるとバトンタッチする仕組みになっているからね。まあ、今のは特殊中の特殊だけど。所轄のように、普通に働いている警察官で詳しく知っている人はほんの一握りの人間よ。警察学校でも教えられていないでしょ。だけど、特に秘密組織な訳ではないの。警察庁のホームページには部署の記載があるし報道される事はまず無いんだけど国会でも予算枠の審議は一応やっているのよ。大体ね、あんなの報告書に書けないでしょ。見た事無い上司に書いた調書持って行っても病院を紹介されて無理やり有給取らせられちゃうからね。代わりに私達が処理するの。昔やってたドラマのXファイルみたいな感じよ。」
所轄の二人は上官ぶらない佐々木に人間としての魅力を感じる。
小屋から藤盛が出てきて何か叫んでいるが皆で無視していた。