ブナの森
動き続けているため肌寒さは感じないが、吸い込む空気は明らかに冷気を帯びて来た。
心なしか階段の角度も緩くなり始め、視界が開けて来た。
階段が終わり坂道に変わる。崖から離れ森林を抜ける緩い山道に入った。
徐々に道が広くなり幅2メートル程になると、両側に木の杭が等間隔で打ち込まれロープで仕切られる。腐葉土と天然の地層が露出する道は曲がりくねりながら自然林を避けて続いていき、周囲はブナの原生林に変わる。
昨今言われている林床の減少は見られず笹が覆っていた。
道が広くなりベンチがある平場が見え、先行のハイカーが休憩していた。
挨拶をして、改めて岩場でのアドバイスにお礼を告げる。
この先の注意点を教えてもらい翔達は登り続ける。
緩い斜面はあと300メートルでこの後また崖を登るらしい。
「300メートルって目の前の筈だけど森の中って方向感覚も狂うんだな。道が出来てるから歩けるけどさ。」
聡史が言い、翔も同意する。ブナの原生林に入らないようにロープで区切られた山道が整備されているため不安なく進んで行く。
憧れのブナ林を見て翔が話しかけた。
「ブナやナラのブナ科の木はキノコ類の菌根を作るし、神社までの参道にも椎の木があったから菌類とかシイタケの採取は出来たんだろう。栗の木や栃の木もあったし、クヌギなんかもあったからドングリが取れて土器に保存されていたんだろうな。槍穂岳周辺の集落で縄文時代から植生が変わっていなければ生活するには何とかなっていたのかもしれない。意外と古代の東日本は広葉樹林が多かったってどこかで読んだ気がするし。あと、寛美さんから聞いた話だけど稲作って、古代は自生していた稲があったらいいんだ。石器時代に野生の稲を撒いて畑で収穫していた形跡が見つかって来たんだって。他の穀物と混作して選別していったらしいよ。時代が下って縄文時代には稲作は確実にあったとされているんだって。弥生時代に入って本格的な水田が出来て収穫量が格段に上がったけど、寛美さんが言っていた通り縄文時代は文化的に高度な文明社会があったんじゃないかな。戻ったらいろいろ教えて欲しくなって来たよ。」
感動して、高揚した翔が話していると聡史が立ち止まり『止まれ』と手で合図した。
気持ちよく話をしていた翔は少しむっとして聡史を見る。
聡史は振り返り真剣な顔で囁く。
「翔!馬がいる。いや。牛か?」
前方に崖の地肌が見えて来た左側の森の中。大きな黒い四つ足の動物がいる。
「二ホンカモシカだ。一頭だけだな。思っていたより大きい。画像なんかでは首回りが白くて褐色だけど艶々(つやつや)の真っ黒い個体だ。なんか神様みたいな風格だな。」
翔は踊り出したくなる位の感動を覚えた。自分でもこんな感情がある事に始めて気付いている。
「ずーっとこっち見てるぞ。向かってくるのかも。死んだふりするか?」
聡史は真面目に言っている。
「死んだふりって・・・今時熊相手にもしないぞ。ニホンカモシカは好奇心が強くて人を怖がらないんだ。だから昔はすぐに捕まって乱獲されたりして今は特別天然記念物に指定されている。丹沢にもいるんだな。たださ、驚かさない様に動かないって言うのは正解。折角だからゆっくり見守ろうぜ。あとさ、さっきの話の続きになるけど穀物や木の実が採取出来て野生動物の狩猟や川魚猟が成立すれば縄文時代からここ丹沢は独立したコミュニティを持つ事は出来ていたって言うのは説得力あるよな。因みにニホンカモシカを弥生時代には食べていた事も分かっているらしいぜ。寛美さんが言ってた。」
珍しく興奮しながら話す翔を冷めた目で見てから聡史が言う。
「お前なあ、そのあたりの知識は多分雫さんも持ってるぞ。なんでお前は運よく一緒に暮らしている雫さんには聞かないで寛美さんから知識を得ようとするんだよ。今始まった事じゃないけど、この前の寛美さん講座聞いてて確信したんだがお前の理論の立て方寛美さんそっくりだもんな。もはや信者だ。」
言われた翔はぼんやりと聡史の顔を見て、自分の話し方を改めて考えてみるが特に嫌な感じはなく「まあな。」とだけ曖昧に応え、「いつも言うが、雫は姉だ。一緒に生活するのは当たり前だろ・・・運よくってなんだよ。」と付け加える。
二人が会話している間もニホンカモシカは潤った大きく黒い瞳で話を聞いているかのように眺めている。
それからも暫くお互いを見詰め合っていたが、ニホンカモシカは不意に前足を上げ、体を捻ると杜の奥へ走り、崖の上へ駆け上がって行った。
『あっ』翔は名残惜しそうに目で追ったが黒い影は力強く崖の上に消えて行く。
足を進めると、これから登る崖にニホンカモシカが駆け上がって言った事に気付く。
立て看板には迂回する右の山道と崖路が描かれていて最後の崖はかなり急になるらしい。
案内には迂回路は60分。崖路は40分が目安とある。
現在時刻は12時48分。迂回路を通っても予定の時刻に行ける。
「頑張ったな。時間修正出来てるぜ。ここまで来たらこのまま行くか。でも20分しか変わらないなら迂回するか?」
聡史が言うのを、案内図を見ていた翔が応える。
「そうだな。そもそも俺たち初心者だし。さっきみたいな鎖場は楽しかったけど安全に行きたいし。ここまでの事にも俺は凄く感動している。まさか見れるとは思ってもいなかったニホンカモシカを追いたい気持ちはあるけど人間が登って追いつく訳無いし、追いかけるのは良くないからな。他にも出来れば見たいなって思っていたものがほとんど見れた。もうご馳走様って感じだ。」
二人が同意したので迂回路を歩くことにする。
迂回路は崖を左に見ながらブナ林を歩く坂道になっていた。
人が踏みしめた道が一筋あり、崖が崩落しているところも何か所かある。
坂の勾配がきつくなってきた辺りから木組みの階段が現れた。
「今までに比べると緩い階段だな。これこそがハイキングだよな。さっきまで時間合わせるために必死だったけど本来こういう登山する予定だったから正常運転になるな。」
聡史が言い、翔が被せ気味に応えた。
「いやいや、十分楽しかったぜ。最高な気分だ。もう今帰っても土産話相当あるぜ。」
聡史でさえ、いつもクールな翔のハイテンションは見た覚えがなく、誘ったことを嬉しく思って振り返りハイタッチする。
空は明るくブナやミズナラの鮮やかな緑の葉が透けて見え、空間を緑色の光がカーテンの様に風に揺れて降り注いでいる。
ゆっくりと散策しながら進んでいると蝉が鳴いている事に気付く。
登山口からBGMの様に山中に鳴り響いていたので特に気にしていなかったが、人工音が一切なくなり鳥の囀りが途絶えた瞬間に際立って聞こえて来たのだった。
ヒグラシと思っていたが違う鳴き声が間に入り、聡史がキョロキョロ周りを見るがどこから聞こえるのかが分からない。
翔が様子を見て口を開く。
「多分エゾハルゼミだと思うよ。当たり前だけど俺も実際に聞くのは初めてだ。境内の辺りまではヒグラシが鳴いていたけど標高が高くなるにつれて鳴き方が変わっていたんだよ。山に入れなかった分、貪るように知識を吸収していたんだけどやっぱり実体験は何よりも楽しいな。ブナを見た時エゾハルゼミも期待したんだ。姿は見えないけど鳴き声が聞けただけ十分だ。また来ればいい。」
翔が楽しそうに話す姿を見て聡史は満足げに前を向いて足を運んだ。
左に大きく曲がると水が落ちる音がする。崖の中腹から突然水が噴き出していた。
4メートルほどの高さから勢いよく落ちる水が滝になり流れ落ちた水が沢になっている。
歩く先に丸太を組んだだけの橋があり沢を跨いでいた。
「地下水があそこから出てるのか。そういえばこの山の生活水ってほとんど地下水を利用してるらしいな。水質も良いらしい。寛美さんの話しじゃないけど大昔から十分に生活できる環境だったんだろうな。」
聡史が感心して話し、沢の水を汲みに橋を降りてカップを取り出した。翔も後に続く。
「ひゃー冷てぇー。飲んでも大丈夫だよな。」
言うのが早いか口に含んでいる。
翔もカップを出した。聡史は既に「うめえ、うめえ」と言いながら二杯目をいっている。
「確かに旨いな。山に降った雨が地層の隙間から吐出して沢を造っているんだろうな。参道には無かったけどタクシーや自家用車で登っていく道路の脇に川があったみただから聡史の言う様に独立した生活圏が縄文時代から形成されていたっていう寛美さんの話が良く分かるよ。神社と鳥居前町の間にも水路が有って水量の豊富な堀になっていたしな。あの水の行き先が谷の川なのかもしれない。そういえばその川で天然のヤマメとかも釣れるらしいし、話しに出て来た山の民が海まで降りなくても川漁猟が出来たんだな。今では神社の鳥居前町の組合か何かで養殖もしているみたいな記事読んだ覚えあるぞ。露店の旗にも川魚の串焼きみたいなのあったもんな。まだ開いていなかったけど。」
滝の水が岩肌を削りマイナスイオンを発生させ心地よい空間を提供した。翔も二杯目を汲もうとした時、石の間に動くものを見つけ手を伸ばす。
「沢蟹がいた。」
甲羅が茶褐色で赤い脚の蟹を聡史に見せる。
「蟹なんて高校にも出るだろ。珍しくないよ。」
聡史は三杯目に手を出している。
「あれは磯ガニだ。海の蟹。まあ、沢蟹も伯父さんとこ行けば食べる程採れるから珍しくないけどさ。姿揚げにすると旨いんだぜ。」
沢蟹を放し、アルコールティッシュで指を消毒してからカップで掬って水を飲んだ。
「あれ?翔って潔癖症だっけ?」
翔を見て聡史が言う。
「沢蟹は感染症の中間宿主とも言われていて加熱しないで食べると危険なんだよ。掴んだ手で水汲んで飲もうと思ったから念の為だよ。途中で俺が腹壊したらお前が困るだろ。」
翔が言って笑顔を見せてから残りの水を飲む。
暫しの間休憩してリュックを背負うとトンボが飛んできた。
濃い茶色の羽に瑠璃色の腹の細いトンボが沢の岩に止まる。
「ミヤマカワトンボだな。」
聡史が手柄を横取りしたように言った。
「お、聡史。学があるじゃないか。」
翔が感心する。
「親父の実家が群馬の農家でさ、敷地内に小さな川が流れているんだが、夏休みに遊びに行くと朝夕の涼しい時に大群で飛んでくるんだ。小さな時、母さんと網で採ったことあったんだよ。」
トンボを見ながら聡史が呟いた。
「そうか・・・」
翔が言いその後二人は無言で歩き出した。
森が深くなり道が狭まって木々の間に木組みの階段が現れて来た。
分かれ道の案内看板にあった最後の崖に向かう階段のようで、滑落防止に木の杭が打たれ、ロープが張られている。
二人は顔を見合わせ、今まで通り聡史を先頭に登り始める。
迂回路を選んだとはいえ、もとは修験者が切り拓いた道である。登り始めた頃の急な階段が復活していた。
「これを登り切れば奥宮だろ?インターバルとったから一気に行くぜ。」
聡史が言うのを「そうだな」と翔が応えた。
登り初めに比べると格段に体重移動が上手くなっている事に気付く。
「これって、ちょっとした体幹トレーニングだな。」
聡史が言うのを翔が訂正する。
「真面目に登山している人達に謝れ!本来は体幹トレーニングしてから登るんだよ。」
「はは、愚か者め。楓さんの所でリハビリしている時に散々トレーニングしてるんだよ。あそこ、結構若い女の先生何人かいて、登山するって言ったらいろいろな器具出してくれて楽しく筋肉作りしてたのさ。それにあの坂道毎日上り下りしていたしよ。お前こそトレーニングしたのかよ。」
聡史がドヤ顔で振り返り、文字通り翔を見下した。
「あれ、気付かなかったか?登山許可が出てから寛美さんにお願いして大学のサッカー部のトレーニング施設使わせて貰ってたんだよ。」
「はあ?なんで寛美さんにお願いするとサッカー部の施設使えるようになるんだよ・・・ん、そうか旗柳先輩と森村先輩か・・・ていうか高校の施設使えよ。」
旗柳と森村は青嵐学院大学4年生で、高校3年の時インターハイと全国高等学校サッカー選手権の二冠を制するという開校以来初の、メジャー競技全国制覇するという前代未聞の記録を出してしまったチームの主力選手であり、旗柳は寛美の、森村が麗香の彼氏であった。
大学でも活躍を期待されていたが、高校は勿論、大学も決して強豪校ではなく部員も学業中心の生活をするため勝敗よりもゲームの作戦の立て方や、人体工学のデーターをとる事がメインになっている。
そもそも二人頼みのチームであった為、その後は目立った成績を上げていない。
高校で優勝した時プロリーグからの誘いもあったが青嵐出身者でプロスポーツを目指す生徒は今までにも無く、本人達も進むつもりは無かったので具体的な話にはならなかった。
更にトレーニング設備には各分野の科学的指導者がいて、理学部や工学部、医学部に薬学部による研究室のバックアップがある。
「旗柳先輩もだけど森村先輩も面倒見てくれたよ。麗香さん渡米中だから時間あるって。お前は寛美さんと麗香さんの両彼氏に会いたくないだろうから誘わなかったのさ。それに高校の筋トレルームに出入りすると慎也に見付かるだろ。バスケ部来いよってうるさいからさ。」
「あの人たちって4年生だろ。就活しないのか?」
言いながら登り始める。
「二人とも院生に決まったらしいよ。それにうちの大学出ると希望すればY.PACに高確率で入社出来るから成績悪くなければ就活いらないみたいだぜ。」
Y.PACとは横浜に本社のある総合商社でありYokohama.Pacific Advanced Company の略称で呼ばれている。
翔の父親が働いていた地元企業であり、聡史の父親も現在所属している。
青嵐学院大学との共同研究やスポンサー企業の筆頭であり、卒業生のほとんどが優先的に就職出来る。
また、ある程度の役職に上がると『青嵐会』と言う歴代の卒業生が組織する会があり、附属校の生徒で優秀度によって学費免除の奨学金を受ける事が出来る制度を運営している。
雫や翔は母子家庭という家庭環境と成績優秀者であるため全額免除の対象となりこの恩恵を享受している。
聡史も父子家庭で成績は翔程ではないが優秀なため学費の半額を免除され、他にも毎年の総合成績により数十人が何らかの恩恵を受けられる。
寛美や麗香、美鈴も対象に含まれるが世帯収入が基準値以上にあり、家庭環境も問題ないため辞退していて『青嵐会』の奨学金は支給されていない。
奨学金を給付された生徒は基本的にY.PACへの就職を求められるが絶対条件ではないため本人の自由は確保されているものの、ほとんどの生徒は恩返しとして入社し各分野で活躍し、後輩への支援に回るよう努力する傾向が高かった。
「成績優秀な美人女子大生の彼氏はイケメンで超優秀ってか?まあ俺は雫さん一筋だからな。翔よ。お義兄さまと呼んでよいぞ。」
聡史が言うが翔は完全に無視する。
足元の笹が深くなり始め階段がさらに急になる。二人は無言で登り続け、吸った空気を上手く吐けなくなり自然と顎が上がる。額の汗が眼に入り景色が歪み始めた。
翔が聡史に声を掛ける。
「少し足止めよう!」
聡史は従った。手の届く所にある木を掴み肩で息をしながら中腰で休んだ。
暫くは動けなかったが汗が引き始めると呼吸が落ち着いてくる。
視界が戻ると周囲の音が耳に入って来た。
人が話す声が聞こえ、上を向くと崖の終わりが見えた。
「お、もう少しだったのか。翔、大丈夫か?あと10メートルも登れば到着するぞ。」
「ああ、体力に自信あってもまだ一日目なのにペース上げ過ぎたかも。」
二人とも同時に腕時計を見る13時23分。
沢で休憩したにもかかわらず崖路ルートの目安よりも早い。
「ちょっと頑張り過ぎたな。もうひと頑張りだから行くか。上でゆっくりしようぜ。」
聡史が言い、階段を登り始める。
翔も歩き出そうとした時、左の耳に耳鳴りがした。
一瞬だったがかなり大きく感じたので耳を押さえる。高度による気圧の変化かと思い耳抜きをすると違和感はなくなった。
聡史が声を掛けるが『耳鳴りしただけ』と言って手を振り歩き出した。
奥宮の到着地にはコンクリートで保護された五段の階段とアルミの手摺が整備されていて、そこまで登ると奥宮の全景が眼に入って来た。