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冒険の始まり 歓迎の風 欲望の海

「次は終点『槍穂岳登山口』です。」

アナウンスが車内に流れる。

車内には翔達を含めて十二人の客がいた。

アナウンスを聞いて荷物を持ち直し、身支度をする人が椅子から立ち上がり始めた。

前に座っている親子もバスを降りる準備をしている。

聡史は・・・熟睡していた。右肘で突いて目覚めさせる。

「・・・あ・・・着いた?」

ガラガラ声で聞いて来た。

「左折します。お(つか)まり下さい。」

運転手が伝え少しすると車体が揺れる。

左に旋回してから50メートル程直進すると右側に砂利敷の無料駐車場が見え、既に満車になっていた。

その先に広いバスロータリーがあり降車用のバス停が見える。

バスはゆっくりと減速して静かに停車した。

終点の挨拶を告げるアナウンスが流れる中、降車口が開き乗車券を運転手に提出しながら一人ずつバスを降りる。

翔達も立ち上がり荷物を手にした。

運転手は「ありがとうございました。お気をつけてお楽しみください。」と一人一人に声をかけて送り出していた。

翔達は運転手に礼を言い、最後に降りる。



景観を考慮した茶色の歩道は雨水を吸収して地面に浸透させる構造の舗装で工事されていると県のホームページにあったのを思い出す。

ガードレールは無く見通しは非常に良い。

左側の花壇にはムクゲやタチアオイの花が咲いていて足元にはマリーゴールドが花壇の縁を彩り黄色いラインを描いていた。

登山口は標高400メートル程度のため二人ともベースのTシャツにロングパンツのスタイルだが、200メートル上の神社からはミドル用にマイクロフリースの長袖を着る予定で、リュックの一番上に入っている。

陽は高くなり時折木々の隙間から肌を焦がすような熱線が降り注ぐが、山の冷気が中和しているためか木陰に入ると暑くはない。

翔は当然だが、聡史も単独での登山経験は無い。

服装や安全なルートの選定は同級生でワンダーフォーゲル部の中野祐樹からアドバイスを受け、県が整備を完了した初心者向けのコースを選択している。


バス停から右に大きくカーブする歩道を歩くと朱色の鳥居があり、注連縄が掛けられた鳥居の前に対になった灯籠(とうろう)に灯が燈っている。

寛美が言っていた通り、灯籠の神紋は『上り藤』が描かれていた。

周囲には森が広がり鳥居の柱の間にコンクリート舗装された綺麗な参道がぽっかりと口を開けている。

バス停近くでシャワシャワと鳴く蝉とは別に、森の中からは遠くにヒグラシの鳴き声が木霊し夏山の様相を醸し出している。

鳥居の前を通り過ぎると事前に調べていた売店と公衆トイレが見えた。

トイレの軒下に表示板があり8月4日金曜日8時21分を刻んでいて、一週間分の天気予報と現在の気温、湿度が映し出されている。

天気はいずれも晴れ。気温26℃、湿度62%とあった。

トイレの中は思っていたよりも綺麗に整備され、清潔に保たれていた。

男女別出入口の中間に整備費の募金箱が置かれ『お一人様五十円お願いします。』とあり、二人合わせて百円を聡史が投入した。

売店に入り、聡史がタッチパネルを見つけ登山予定を入力し始めた。

『八月四日入山。神社参道ルートを越えて槍穂岳山頂から簑沢権現山、道志川、山中湖行き。全行程八月七日まで。』

「・・・こんな感じでいいのかな。」

最後に暗証番号と氏名、連絡先、同行者含めて二名と入力すると専用のQRコードが表示されスマホでコードを読み取ると専用アプリが入力された。

アプリに暗証番号を入力してページを閉じる。

続いて『あなたのルートについてのご注意』と表示が変わり、必要な装備と服装、ルート内の利用可能な山小屋やトイレの位置が詳細に出て来た。

暫くすると聡史のスマホに入力確認のメールが来て『入山登録完了』と、最後に出た注意点が表示された。

予定変更はこの専用ページから入れられることになっている。

ページの下の方にGPSによる現在地情報登録のお願いがあり、オンにしておく。

緊急時のオンライン通話番号もあり神奈川県と警察、消防に時間により自動分担されて通報可能になっている。過去にY.PACが投資した槍穂岳を中心にした東丹沢エリアはデジタル通信が可能となり、トランシーバーなどの無線機器の必要は無くなっていた。信じられないほどの安全対策が施されていた。

「これで、行方不明になる人いるのかな?」

聡史がこぼした。

「いるみたいだぜ。」

聡史が入力している間、翔は売店の掲示板を見ていた。

『五月十三日。西ルートへ入山の四十二歳男性が下山確認できていません。』ほかにも三件の行方不明、二件の下山未確認事項がある。『役所の人も大変だな。連絡しなかったのか、偽入力だろうな』と二人で話した。


売店前のテーブルに移り、聡史のスマホに表示された『必要な装備』をチェックする。

装備品はワンゲルの中野から教えて貰い、一緒に購入しに行ったので全て揃っていた。

槍穂岳や縦走予定の山はいずれも標高1000メートルを超える。

横浜を出る時は早朝にもかかわらず25℃を越えていて渋沢に着いた頃には28℃に上がっていたが、山頂は日中で16℃、夜になると10℃付近まで下がる事もあると言われ、服装もアドバイス通り『レイヤリング』の重ね着が出来るようベース、ミドル、アウターの三種類の服をスペアも含めて用意してある。

天気予報から雨具は必要ないと思ったが、アウターのスペアや急に天候が変わる事を考えてリュックに入っている。祐樹のアドバイス通りに咄嗟に出し易いようにリュックのサイドポケットにレインジャケットだけは入れておいた。

靴は店で勧められたトレッキングシューズを二人が被らないように話し合って決めた。

今回は危険なルートは通らないのでヘルメットは購入しなかった。


荷物を整理して立ち上がる。

神社までの参道は階段の登りだけなのでグローブは尻のポケットに差し込んだ。

スマホをリュックのショルダーハーネスに着けたホルダーに収納し、お互いに背中をチェックした。

灯籠の前まで歩き手水舎(てみずや)で手と口を清め、帽子を脱いでから姿勢を正して鳥居の前で深く一礼する。

一陣の風が吹き下ろした。

二人で顔を見合わせていると後から声がした。

「お兄さんたち神様から歓迎されているね。」

振り返ると大きな黒いハットを被り、長袖のシャツに軽装のザックを背負った年配の男性がいた。

「あ、おはようございます。歓迎ってどういうことですか?」

聡史が訊ねる。

「神社に入る時に風が吹くのは歓迎されている兆候って言われているんだよ。もっとも、強すぎる風は拒否の事もあるけどね。ここは初めてかい?」

日焼けした浅黒く皺の深い、人の好さそうな男性だった。

「はい。ここというよりも登山自体が初めてです。」

翔が応えた。

男性は翔を見て息を呑んだ。二人共背が高く見上げながら何事も無かったかのように話し出す。

「初めての登山がここなのかい。ルートは?」

男性が聞き、聡史が登録内容を説明した。

「それなら大丈夫。道から絶対に離れたらいけないよ。絶対にね。」

男性は言うと、一礼して参道に入って行った。熊除けの鈴がカラカラと音を立てている。

「・・・熊除けの鈴。買っていくか。」

聡史が言い、二人揃って売店で購入した。

改めて、鳥居で一礼したが、もう一度風は吹かなかった。

「お辞儀すれば風が吹くって訳じゃないのね。」

聡史が茶化した。



参道は高い木に囲まれて薄暗い。

鳥居をくぐるとバスロータリーとは空気が変わる。

森の奥からはヒグラシの涼しげな声が続いていた。

一番目の鳥居からは両側が石積の擁壁になっていて壁が高い。

コンクリート舗装だと思っていたが、基礎がコンクリートで天然石の石畳が敷き詰められて気持ちの良い道が続いている。

雨水の捌け口としてステンレスのグレーチングがあるが、杖などが入らないように隙間が細いタイプのものが使用されている。

見上げると一直線に伸びた参道の中間と登りきるところに鳥居が見える。

沿道には花壇があり、八月なのに紫陽花が帯を作って咲いていた。

早春には三つ葉ツツジの淡いピンクや紫の花が咲くとネットの情報にはある。

参道は幅が4メートルで、鳥居から8メートル程度のなだらかな石畳のスロープを歩き緩い階段を上る。

二十段上る度に奥行き8メートルの踊り場があるため子供やお年寄りにも優しい。

踊り場は参道よりも幅が広くなっていて灯籠と休憩用のベンチがあり、夜でも参道を歩く分にはライトは必要なさそうである。

そして同じサイズの踊り場は全部で七十か所もあり、その踊り場毎に背の低く整理された梅や桜が植わっていて、根元にアッパーライトがある。

それぞれの花の季節にはライトアップされて見ごたえのある華やかな参道が演出される。

二つ目の踊り場を越えると擁壁が低くなり傾斜の強い山肌が見えて来た。

表面には背の低い笹が生えている。五つ目の踊り場まで上がってくると休憩用のベンチに同じバスにいた中年の夫婦がシンボルツリーの梅の木を囲む花壇の紫陽花を眺めながらお茶を飲んでいた。

梅の花は咲いていなかったが綺麗な緑の実が幾つかついている。

一番目の鳥居から百段上って来たところだった。

目が合い、会釈をして横を通り過ぎる。

情報通りであればあと千三百段を上る事になる。

気合を入れて一気に上り二つ目の鳥居まで来た時には流石に乳酸が溜まり始めていた。

鳥居前の踊り場はさらに広くなっていて小さな男女別のトイレがあり、水道もある。

踊り場と言うよりもちょっとした広場である。

ここには3メートルくらいの高さの枝垂れ桜が植わっていて桜の木の横に小さな祠がありその後ろに苔むした岩があり注連縄(しめなわ)が巻かれている。

祠には『石長比売命(いわながひめのみこと)』とある。

賽銭箱に小銭を差し入れて通常の作法で参拝をする。

休憩用のベンチは四つあり空いているところに二人で座った。

「200メートル登るなんて大したこと無いと思っていたけど意外と厳しいな。考えてみれば東京都庁の展望台まで階段で登るようなもんだからな。」

聡史は水筒のお茶を飲みながら言う。

「腰は大丈夫か?ストレッチもしないで歩き始めたから足パンパンになってきた。」

翔も水筒を開け飲み始めた。

「楓さんのおかげで完治よ。あの後も通ったんだけどさ。楓さんってあそこに住んでるらしいんだけど、急な出張が多いみたいで一昨日やっと会えたんだ。一緒に行った時にご指名していたおじさん覚えているか?あの人の気持ちは凄く良く分かった。体の調子が全く変わるんだよ。もう大丈夫って言われたけど調子悪くなるくらい無理してまた診て貰いたくなるぜ。」

聡史は自分の感情を素直に語っただけだが、翔には理解の斜め上を行っていて思考を止め、呆然(ぼうぜん)と聡史を眺める事しか出来なかった。

「まあいいや。大丈夫ならよかった。じゃあ、お盆終わったらバスケ部入るのか?」

聡史が、本当はバスケをやりたいことは分かっていた。自分も肩の違和感が無くなっていたので、聡史が部活に戻るのであれば自分もやろうとは思っている。

「夏休み中は入らねーよ。お盆開けたら雫さんたちと海行くんだから。」


学校はミッション系で、授業の中にキリスト教の教義を教会の司祭から聞く時間はあるが、入信しなければならない訳ではなく、哲学や道徳の延長のようなものであった。

その代わりに、見知った司祭に心の相談などが出来るメリットは学生にとってありがたく、何か悩みがある時は大学構内の教会に相談に行く生徒は少なくない。

相談を聞いて貰ううちに、自然と洗礼を受け入信する生徒は毎年一定数いる。

ただし、日本人の行事も尊重されていて、正月やお盆などは勿論、社会生活上協調する必要があるものは他の学校と何ら変わりない。

秋に学園祭と同時に近隣の住民や商店街の人達と協力して行う神社の祭りでは、同時に教会のミサもあり独自ではあるがそれぞれの文化として認め合う。

特別に宗教を前面に押し出してはいない。

一般的な日本文化であるお盆を過ごす家庭は当然多く、寺の娘を母に持つ翔や、普通に母親の墓参りに行く聡史の家は、伝統的なお盆を過ごす。


聡史は楓との面会を済ました後、雫の車で送ってもらう途中で後部座席の翔に言った。

「山に登った後、海にも行こうぜ」

顔は『雫を誘え!』とプレッシャーをかけていた。暫く聡史を眺め、仕方なく雫に言う。

「ねーちゃんも行く?」

「どこに?三浦とかは嫌よ。混むし。」

そっけない返事が返る。聡史は再び振り向き『畳み込め』と指令を送って来た。

「静岡の史隆叔父さんに別荘借りれるか相談出来るかなあ。」

わざとらしく棒読みで聞く。

「誰も使っていなければ大丈夫じゃない?電話してみなよ。」

その場で電話したところ『8月後半は誰も使わないからいいよ。』と言われ、槍穂岳の件についても報告した。

叔父は深山や宗麟から連絡があった事を翔に伝え『楓さんがOKなら大丈夫だから楽しんできなさい。』と応援された。更に『お盆に来る時に山での出来事も教えてくれ。』と言われた。

電話を切り叔父との会話を告げる。

「OK!寛美(ロミ)にも聞いてみる。教授が海外だから時間作ってくれると思うよ。麗香(レイ)は渡米しちゃったから。翔。美鈴(みー)ちゃん誘ってみれば?喜ぶよ。」

「ですよね~」

聡史はご満悦で帰宅したのだった。


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