魂に刻まれた傷跡と世界の傍観者
聡史も落ち着き、三人とも顔を見合わせてから楓の様子を見る。
「皆落ち着いたみたいね。それじゃ~ご質問を受け付けますよ。」
首を傾げ涼しげな微笑みをする。泣いていた聡史は同じように首を傾げてにやけてた。
「さとし・・・気持ち悪い・・・お前の回復力はプラナリア並みだな。」
翔が言いながら昨日の寛美との会話を思い出した。
「先生。昨日知り合いの人から、槍穂神社の古文書とサンカの口伝書について『光雲という高官が精霊に名前を付けて従わせた』と聞きました。深山さんからも、先生が同じ事を言ったと聞きました。そしてそれが父に関係しているとも。あと、最強の守護精霊ってどういう事でしょうか?」
「あら。随分と核心から入るわね。もう光雲の名前が分かったの?凄い知り合いがいるのね。だけど初対面の女性に対して質問攻めするとか翔君。もてないよ~」
楓が悪戯な笑顔を見せるが目は雫に向いている。
「雫さん。翔君の登る山はあなたが時折見るビジョンとは異なるものよ。それはあなたの魂に刻まれてしまった傷跡のようなものなの。取り去ることも出来なくはないけど、大切な傷だから受け入れてね。全てはそこから始まっているから。」
翔も聡史も何の話しか理解していない。
雫は楓をぼんやり見つめて楓の瞳に吸い込まれる感覚を覚えた。
雫が翔に山に入る事を拒絶していたのは、父の死因に関する事だけではなかった。
小さな頃から夢で、次第に白昼夢のように覚醒している時にさえ頭の中に明確に、色彩も鮮やかに見え、まるで体感しているかのようにフラッシュバックすることがある。
藪の深い鬱蒼とした森の中。
乳呑み児一人を抱きかかえ三人の従者に囲まれて急ぎ足で土臭い細道を歩く。道に飛び出している枝が体に突き刺さり、傷だらけになりながらも歩き続ける。
日は暮れて視界が閉ざされても尚、従者は足を止めようとはしない。
気も遠くなるほどの時間を歩く。
やがて左側の崖から波の音が聞こえる頃、遠くで猿の吠える声がした。
吠え声は数を増して段々と近付いて来る。
従者は更に足を速め崖を登り、やがて山深い小さな集落の一軒の家に辿り着いた。
家は藁葺の大きな屋根に低い入口のある『竪穴式住居』のような形で家の周りに棘の付いた木の柵があり堀を廻らしていた。
木戸を叩くと家の者が出てきて中へ招き入れてくれる。
低い梯子を下りると家の中は意外に広く、戸を開けてくれた子供が一人と世話人のような年寄りが二人いて、竈の近くに家の主人がいた。
従者と共に中に入り、家の主人に竈へ招かれる。
藁の敷かれた寝床の上で抱いていた子供に乳を飲ませてからぐったりとして倒れ込む。
大抵はそこで正気に戻った。
このとても長い一瞬の時間を何度も何度も同じ情景を体感していた。
この事を目の前の秋月楓は知っている。
もう一度楓を見て確信する。
夢には続きがあった。
竈の前で倒れたときに毛皮を掛け優しく介抱してくれたこの家の女主・・・
楓は左手の人差し指を口に当てウインクして雫を見ていた。
「あ・・・はい。」力なく雫は応えた。
「さてと、光雲という原初の陰陽師は歴史の正式な書物からは完全に抹殺されているけど実在の人物よ。豪族の物部一門に属する人間。遣隋使で大陸に留学したのが十歳。才能の塊で隋での文化は吸い取る様に吸収したとされているの。あまりの能力に儒教や道教の師、高僧から直に教義を受け空海さんや、最澄さんよりも先に密教を身に着けていた。帰ってくると蘇我総本家に就いて斑鳩宮で書生の教官になる。歴史の教科書にある『乙巳の変』っていう事にしておこうか。蘇我入鹿が暗殺されると、最重要側近だった光雲は急襲に会い、東国に逃げ延びる。ここからは聞いているみたいね。その光雲が名付けた精霊の一柱が隆一君に宿っていた、私が言う『最強の精霊』よ。」
右手の人差し指と中指だけあげて微笑む。
「ちょっと待ってください。物部の一族の人が、蘇我の側近になるんですか?」
聡史が疑問を口にした。
「そうよ。君たちが習っている歴史は『古事記』や『日本書記』でしょ。真実とは異なる部分もあるのよ。物部と蘇我の問題はともかく、普通の学者さんは拒絶する古文書の内容を高校生に話すなんて。昨日君たちに教えたっていう知り合いさんとは気が合いそう。私も会ってお話がしたいな。」
「その人も会いたいと言っていました。よろしければご紹介します。それで先生。その精霊と自分にどんな関係があるのですか?」
「それはね。自然に君の記憶が戻ると解決する筈なのよ。多分安全だから、槍穂岳に登って山の神達や精霊に触れる事で何かを思い出すかもしれないわ。あと、私の事は楓でいいからね。」
楓は普通に答える。神や精霊を完全に肯定した会話に翔は慣れてしまっていた。
「はい。楓さん。これからもよろしくお願いします。」
聡史が元気に返事をした。
「他に聞きたい事はある?」
聡史に笑いかけながら楓が聞いたが、呆気に捕らわれる程全て答えられてしまった為、次の言葉が出ない。
「あの楓・・・さん。楓さんはどんな人、失礼ですけど、あの・・・」
雫が口を開いた。翔達も一番聞きたい事がこれだと気が付いた。
「ふふふ。さあてね。君達も、もう気付いている頃だと思うけど。普通の人が常識や現実と勘違いしているこの世界にはもっと多様な生態系や自然現象、精神世界が至る所に、到る数あるのよ。何が正しくて間違っているかは、その立場によって変わってしまう。私はこの世界の傍観者。そんなところかしらね。」
「あの・・・それでなんですけれど。その光雲が名付けた精霊と父とはどのように関係していたんですか?深山さんの話しでは『神崎の家系に繋がる宿縁』と楓さんが言っていたと聞いています。」
翔が素直に聞く。
「あれ?ここまで聞いて来て気が付かなかった?あなたたち神崎の家系はその光雲の直系の子孫よ。光雲が母狗から取り上げた精霊は光雲の家系の誰かに宿ったり、守護精霊として近くにいて守っているの。その代の誰に宿るかは引継ぎや精霊自らが誰を主人として認めるかで現れない空白の時もあるけどね。その時代の必要性とかにもよるのよ。」
いとも簡単に謎が解けてしまった。
寛美の話を聞いた時、頭を過ぎった一つの解答ではあったが、荒唐無稽で受け入れられるものではなかったし、親戚の誰も家系の起源は語らない。
静岡の本家は旧家で、敷地内に蔵や大きな納屋もあり、所有の果樹園や茶畑がある山が幾つも有るが、武士であった事さえないと言われている。
子供が入る事を禁じられている蔵が一つあり、その中に歴史書の様な物が仕舞われているらしいと、まだ小学生の時に従兄の哲也に言われた事はあった。
豪農の家柄で決して貧しくは無く、曾祖父の代に戦争によって被災した子供達や家を失った人達を数多く向かい入れた記録が市役所にも保管されていると叔父の史隆から聞いたことはあった。
そもそも光雲という飛鳥時代の高官が神崎の始祖と言われても容易には信じられない。
この秋月楓が言わない限り・・・。
「それでは、最強の精霊は僕に宿っているという事でしょうか?」
翔は真剣に言い、雫と聡史も楓に向く。
「さあね。」
また首を傾げ魅力的な優しい微笑みを三人に投げかけ、その後は誰も口を開かなくなってしまった。
様子を見て、楓が立ち上がり翔と聡史の治療をすると言い、皆も立ち上がる。
楓に招かれ三人は診察室に入った。
先ず、翔が診察台に座り服の上から背中を触られる。
両肩に楓が触れると、肩甲骨が開き体内で何かが蠢く感覚があった。
その何かが体中を巡り、また肩に戻ると違和感は全く無くなる。
「うん。元気になってるわね。感覚分かった?」
楓に聞かれ、ありのままを答えた。
「大きな危険を感じたら、頭に浮かんだその子の名前を呼ぶのよ。助けてくれるから。」
『楓さんは誰かに教わってやっているのではないから、表現方法が独特なんです。』
深山の話しに出て来た叔父の史隆が宗麟に話したという内容を思い出し、そういう比喩的な事だと理解した。
代わって聡史が俯せになり腕を上げて力を抜くように言われた。
言われるままの姿勢を造り、身を任せる。
楓が両足を持ち、踵を合わせて開閉する。聡史の大きな足を事も無げに楓の小さな手が動いて行く。左足の踝の下に親指を差し込むと聡史の右腕が浮かんだ。
暫くの間その状態が続き右腕が下がると楓は指を離し、『曲線』『中瀆』『腰愈』と動き『命門』を押さえ「ほい!」と言って指を離した。
「えい!」と言って、聡史の左足を両手で持ちあげる。
聡史は海老反りのような姿勢、プロレスのハーフボストンクラブをかけられている状態になった。
「どう?」と言われた聡史は「あ、気持ちいいです。痛みや硬さの様な違和感なくなりました。指先の痺れも無いです。」と言った。
さらに右足も同様にしたが何の痛みも感じなかった。
仰向けになり前屈をすると信じられないくらい腰が伸びる。
「あとは癖になっている腰をかばう歩き方を意識して直していけば筋肉が着き直すよ。心配なら鍼や電気治療でほぐしながらリハビリ療法で矯正すれば完璧。またバスケットボール出来るようになるよ。今後の君次第。」
「本当ですか。出来ますか?バスケ。」
また聡史の目から涙がこぼれている。
「翔君も同じ頃には違和感が完全に無くなると思うよ。二人で頑張ってね。」
窓の外、オリーブの木にメジロの群れがやって来て枝にとまり、羽を休めて囀っていた。