母の愛
奥の診察室の扉が開き、バタバタと足音が聞こえ、男の大きな声がしてきた。
「いやー楽になった。やっぱり楓ちゃんに診てもらわないと良くならないな。」
「あのね~水島さんの根本治療は終わっているから。あとは普通に鍼と電気治療で緊張している部分をほぐせば大丈夫なんだから大げさに言わないの。それと、代謝を良くするためにお水飲んでね。うちは指名制度無いから我儘言わないの~お大事にね。」
白衣を着た楓が対応しながら水島の後ろを歩く。水島が受付窓口に行き、斎藤に料金を支払って「またよろしくね。」と言って出て行った。
水島を見送って玄関まで行き鍵を掛けてから窓口まで戻ると斎藤に「お疲れ様。あとは大丈夫よ。」と言って楓は待合室にやって来た。
「お待たせ。ごめんね。」
白衣を脱いで、左腕に掛け髪を直しながら言う。
三人が立ち上がり頭を下げた。改めて顔を見合わす。楓は三人を見上げている。
「改めて自己紹介するね。秋月楓です。翔君。大きくなったね。隆一君に似て来たな。あなたが雫さんね。会えて嬉しい。仲村聡史君・・・そうか、君とも会えてよかった。」
楓は言うと座るように促し、自分も座る。
待合室は玄関の土間と続きになっていて床がタイル敷になっている。
南側に大きな窓があり、楓に会う前にいた庭が見えた。
「あの、お忙しいところ、お時間頂きましてありがとうございます。一昨日、深山さんから先生をご紹介頂きまして、伯父の宗麟からもお会いするよう申し付かりました。本日はよろしくお願い致します。」
翔は畏まって挨拶したが、違和感が拭えない。
「ふふ、こういう体質だから気にしないでね。早速、今日のお題に移ろうか。」
言うと少し前屈みになり、テーブルに置いた両手の指を組んで翔を凝視する。翔は楓の瞳から離れられなくなって硬直するが、不意に左の肩甲骨が浮き上がる感覚を覚えた。
「うん。いい感じになって来たね。寝ていて左肩が浮くような感覚で目が覚める事ある?今みたいに。こんなに時間かかるとは思っていなかったけど、居心地が良かったみたいね。隆一君よりも相性よさそう。もう山に入っても大丈夫よ。」
翔は聞こうと思っていた事をほぼ答えられてしまったので閉口してしまった。
楓は続いて雫を見る。雫は背筋を伸ばして座り直した。
「雫さん。今日までよく頑張ったね。翔君やお母さんを支えて大変だったね。あなたにとって今の友達は一生の宝物よ。これからは翔君があなたの支えになる番に入ったから、もう自分のために生きていいからね。」
楓に言われ、雫の目に涙が溢れてきている。
両手を強く握り、奥歯を噛み締め下を向いて息を殺した。
楓が立ち上がり横に来て頭を撫でると雫は抱きついて声を出して泣き出した。
雫が落ち着くのを待って楓が元の席に移って聡史に言う。
「聡史君には一度会いたいとは思っていたの。お母さんの事は本当にお気の毒だったわ。でも、あなたをとても愛していて、いつもあなたを見守っている。今もね。うん。君は強い子だからこれからも二人をお願いね。後で腰直してあげるからバスケットボール。またやれるよ。」
言われた聡史は目を見開いたまま動けない。
楓とは皆初対面であり、当然母親の事も腰の件も翔が話している筈は無い。何が起こっているのか分からず、理解不能になっていた。
隣に座っていた翔が肩を揺すって正気に戻す。
「俺の身の上話って翔達にしか言っていないんだ。お前先生に話したか?」
「いや。でも、先生のネットワークはCIAより凄そうだから。」
言って二人は楓を見る。
楓は二人の会話を静かに見ていたが、微笑み、聡史を見て話し出した。
「君が小学校五年生の時かな。夏休みで行った家族旅行の後、お母さんの体に異変が起こった。お父さんが当時勤めていた会社の紹介で金沢区の横浜市立森山総合病院に入院する事になり、様々な検査をしたけれど原因が分からないまま昏睡状態になってしまう。
数か月後になって症例の報告を発見した横浜市の市民生活安全課が動いて青嵐学院大学附属病院に移送しようとしたんだけれど間に合わなかった。当時はまだ特殊症例に関する横のネットワークが未完成だったのと、総合病院のプライドみたいなものが邪魔をして情報を掴むのが遅れてしまったの。移送出来ないとなって私が呼ばれたときには手遅れだった。死亡診断書を作成する間、面会させて貰って彼女の希望を聞いて叶えたの。君を守っていたいってね。だから君には大きな加護があるのよ。君が誰かのため、人として正しい行いをする時、必ずお母さんが傍にいて守ってくれているの。事故の時みたいにね。」
楓の言葉を聞いて聡史の目からも大粒の涙がこぼれてくる。いつも明るい聡史が両手で顔を覆い嗚咽を漏らす姿を翔は黙って見ていた。
二年前。聡史が中学三年の夏。
バスケットボール神奈川県大会は、ベスト8で終了したが、学校としても近年では最も良い成績を収め、充実した中学生生活を送っていた。
引退試合としての地区対抗試合も勝利して有終の美を飾る。
学業も二学期の成績に影響はされるが、概ね高等部への進学基準は満たされていた。
引退後も後輩の練習指導の傍ら、高等部からの勧誘も既にあり、高校に行ってもバスケを続けるつもりでいた。
夏休みも終盤を迎えたある日、顔を出す程度の部活参加後、翔とは駅前で別れて自宅へ向かった。
当時、聡史の家の周辺は土地の開発工事があり、通常よりも交通量は増えていた。坂の上で工事の土砂運搬用トラックが住宅の角を曲がり下り坂に入って加速し始めていた。
聡史は歩きながらその光景を見ていたが、運転手の目線が前方にない事に気が付き、道の脇へ動く。
トラックが公園の横を通り過ぎようとしたところで突然、目の前の公園から小さな女の子が走り出して来た。
聡史は咄嗟に女の子を抱きかかえた瞬間、右わき腹に途轍もない衝撃を受けて体が宙に浮いた。
瞬時に体を捻り自分が下になる。アスファルトに激突すると思った瞬間、ふわりと体が浮く感覚を覚えた。大きなブレーキ音と体が路面に激突する衝撃が同時にする。腰から落ち激痛が全身を走った。そのまま坂を滑り降りたが、聡史は自分が下になる様に足を踏ん張り続ける。電柱にぶつかりやっと止まった。
抱きかかえられた女の子はショックで身動き出来なかったが、追いかけて来た母親の姿を見て泣き出した。
公園や近所の住宅から事故の音を聞いて大勢の人達が集まって来る。聡史は動けず、呼吸が上手く出来ないでいるところ救急車のサイレンの音が遠くに聞こえた。
混沌とする意識の中、ストレッチャーに乗せられて病院へ搬送されたが、検査の結果、全身打撲で背中に広い擦り傷はあるものの骨折などはなく、奇跡的に一緒に運ばれた女の子には怪我も異常も無かった。
警察が来て状況を聞かれた時には意識もはっきりして事故直前の事は話せ、事情聴取が終わると、女の子と母親がお礼に来たが、「大丈夫ですよ。怪我無くって良かったです。」と明るく振る舞った。
警察の話によると衝突したところから12メートルも飛ばされ、さらに7メートルもの距離を、女の子を抱えたままアスファルトの上を滑っていたらしい。
生きている事が奇跡と呼べた。
連絡を聞いた父親が病院に駆けつけ、入院の手続きや学校への連絡をする頃には、全身の痛みが強くなってきて起き上がることは出来なくなっていた。
次の日、明け方になってようやく微睡む事は出来たが痛みでほとんど寝ていない。
朝の診察で再度打った痛み止めが効き、体を起こすくらいは出来るようになった頃、連絡を聞いた翔や部活の仲間達も見舞いに来て事情を聞き、ヒーロー扱いをされたが、背中の傷と腰の痛みや足の痺れは抜けず、退院の日までの数日間は左足を引きずりながらの生活をしていた。
退院時に父親が手続きをしている間、病院のエントランスホールのソファーで待っていると、助けた親子が聡史を見つけて駆け寄って来た。母親は大きな包みを手渡し、何度も何度も頭を下げて感謝を告げるので聡史は恐縮しながら「誰でもあの場では同じ事をした筈ですから・・・」と言い、女の子に何事もなく良かったと話していた。
聡史の父親が戻って来るとまた頭を下げたが、父親は女の子の頭を撫で、微笑みかけると「無事で何より。聡史が人の役に立てて良かったですよ。」と母親に言い「お母さんの言う事をよく聞いて健やかにね。それと、お母さんを大切にね。」と女の子に優しく声をかけた。
病院を出ると、翔とバスケ部の真崎慎也がいて父親に挨拶してから三人で帰った。