原初の陰陽師
「時代は飛鳥。蘇我入鹿が討たれた頃。正史では645年の乙巳の変に該当するけれど、古文書には乙巳の変についての記述はない。これは、事件の舞台となった当時の宮中、飛鳥板蓋宮とは距離もあるから必要な事では無かったのかもしれないけど、他の事は詳細に書かれている。入鹿についてと思われる内容は別に書かれているんだけどこれを話し始めると止まらなくなるし、個人的には凄く興味ある文献ではあるけど、ここでは物語に必要な情報についてだけ言うね。」
寛美はソファーに浅く座り背筋を伸ばしたまま二人を見る。
翔と聡史は目線を寛美に合わせるように前屈みになって静かに聞いていた。
「古文書を纏めたのは都から流れて来た『光雲』という名の小礼。冠位十二階の六番目の位、遣隋使派遣時の小野妹子が大礼だったからかなりの高官よ。光雲は子供の頃、十歳の時に、最初の遣隋使で隋に派遣され、仏教や陰陽五行説、道教や儒教を学び、小野妹子の第二回遣隋使派遣の際に帰国して、聖徳太子の時に話した三十四人の官僚に教える立場の人間になっていた。丁度、君達と同じ十七歳の頃の事になるわね。この光雲が蘇我善徳の側近の書生で・・・善徳は入鹿の別名とされているの。その入鹿が暗殺されてから東国に落ち延びて、巳葺山の麓にある山の民の小屋を直した庵に住んでいた。山の民達は光雲を受け入れたみたいね。この時の経緯についても興味深い内容が書き記されているけど、考古学的には偽書扱いで、物語から離れてしまうから今回は割愛するね。物語は、光雲が巳葺山に流れ着いてから半年くらい経ったある日、槍穂神社を中心とした山村に一柱の大きな山狗が徘徊するようになり、村人が恐れて祭祀を行った結果、『生贄』を捧げ鎮めようという事になった。古文書には山狗は精霊とされているから数え方は神様と同様に柱とされているみたいなの。古来、山狗は明治時代まではニホンオオカミを指す名称だけれど、この山狗は妖怪の『送り狗』や、神格のある『オオカミ様』と言われる山の精霊の事だと思う。映画の『もののけ姫』みたいな感じね。山の民から話を聞いた光雲は村に向かう。神社の離れ社に祭壇を設けて生贄を捧げる準備をしている村人に光雲が事情を聞き、自分が生贄になろうと提案をする。村長は自分の娘を捧げる事に決まったと言い提案を退ける。これがね、聞いて驚くわよ。生贄の娘の名前は『雫』なの。どうやらこの雫さんも綺麗な人だったみたいね。雫を一目見た光雲は村長の言葉は尊重しつつ、雫と一緒に生贄になろうと言う。祭壇が整い、祭祀者が祝詞をあげ、山狗を神社へ招き入れる儀式を行い二人は白装束に着替えて夜を待った。村人が帰り、戸を固く閉ざして静まり返った中。松明に照らされた参道を、呻き声を鳴り響かせた山狗が姿を現した。光雲は雫の前に座り直し山狗と対話を試みる。山狗は雌で怪我を負っていいて腹を膨らませていた。自分の庵で傷を癒し、子を産む手伝いをしようと話すと山狗は承諾し、光雲と共に巳葺山へ向かって槍穂岳から下りて行った。一部始終を見ていた雫は、朝になり様子を見に来た父親に事の顛末を話すと、村をあげての祭りとなった。これが今でも続く槍穂神社の節前に行われている、『大神祭』の起源とされている。一方、庵に戻った光雲と山狗は身の回りの世話をしてくれていた山の民と産屋を造り傷の手当をしていた。精霊の手当は薬草の類は効かず光雲が霊力を使って治療をしていたと、サンカ口伝にある。
先に結論を言うと、翔君が聞きたい『原初の陰陽師』はこの光雲みたいな人を指すんじゃないかな。古文書は光雲が書いているので彼の手柄的な内容は書かれていないけれど口伝や、光雲の後、彼から文字を覚えた村人や神職の人々の代になって神話的、超人的な人物として書かれているの。修験道の開祖、役行者みたいにね。そうして光雲の庵で養生するうちに、雫さんも出入りするようになる。ロマンスの予感がするわね。いよいよ臨月を迎えた満月の夜。三柱の精霊を産み落とし、母狗は代わりに消滅してしまう。この三柱の精霊に名を付けて従わせる事にした。」
静かに聞いていた翔が反応する。
「寛美さん。その精霊の名前は分かりますか?その精霊は光雲に宿ったという事ですか?」
合致した瞬間だった。
『隆一君には、最強の守護精霊が宿っていた。遠い昔、神崎の名が生まれる遥か昔に、ある原初の陰陽師によって名付けられた三柱の精霊の一柱。それは彼の家系に繋がる宿縁。』
翔の全身に電流が走った。立ち上がり、テーブルに両手をついて前屈みになり寛美に叫んでいた。
聡史も立ち上がり、隣の翔を座らせて落ち着かせる。
寛美は動ぜず、二人を静かに見ていた。
「ごめんね。名前についての記述はないの。古文書にも口伝集にも無い。俊君が躍起になって調べて最初の二柱には月に係る名称、最後の一柱には音に係る名前らしい。という事が分かったみたい。翔君が言う、宿るというのは何?」
翔は躊躇したが、深山から聞いた楓の話しについてのみ、掻い摘んで説明した。
寛美は黙って聞いていたが秋月楓の名を聞くと納得した表情をして話す。
「その秋月楓先生にすごく興味あるな。私も正式に会ってお話し聞きたいわ。民俗学を専攻している雫と気が合いそうね。でも、古文書ではこの後の物語は悲劇で、光雲は都からの討伐軍に村を襲われ、村を守るために投降して処刑されてしまうの。精霊がその後どうなったかは分からない。口伝も同様にこの後については『語るべからず』とされていて秘密とされている。ただね、雫さんは光雲の子を身籠っていて、山の民に守られて足柄峠を越えて箱根から伊豆へ落ち延びたらしいのね。俊君の調査よ。」
話しを聞いて翔は暫く考えていたが聡史に促されて口を開いた。
「槍穂岳の歴史、民話は分かりました。明日、秋月先生に詳細が分かるか聞いてみます。先に寛美さんに相談して良かったです。あと、槍穂岳周辺の山の神信仰について教えて貰えますか?」
翔の言葉に寛美は落ち着いて応える。
「うん。槍穂神社の起こりは今説明した通り、この磐座を中心に周辺の山々に山岳移動者である山の民が道を開拓して要所に山の神の祠を建てた。祠を建てる基準は、おそらく直感みたいなものだったと思う。ある研究では、彼らには現代人に失われた感覚があるとされている。ネイティブアメリカンやアボリジニの一部の人に見られるようなシャーマニズムが生きていたのかもしれないわね。彼らが大木の根本や大きな岩場、峠道に平場を造営して祠を建てた。この祠に後世になって形式化された鳥居や御神体を祀り『神域』とした。この小さな神社を定住者である村人や旅人との交流の場にして、物々交換の場にしていたと考えられている。山の民は山岳地帯の随所に秘密の道を造っていて、今では失われた山道に山の神を祀った祠があると思われている。現在登山道とされている道は、修験者が山の民に教えられて開拓したものを整備して歩きやすくしているみたいね。でも、そこから横道に逸れると誰にも知られていない古道に出会えるのかも。だから、翔君の知りたい『山の神』は山地の至る所にいる可能性はあるわね。丹沢の山の神は女性の姿をしていると言われていて、白い服を着て沢伝いに歩いてくる陽気な女性を目撃して、暫く見ていると不意に消えたとかSNS界隈で都市伝説としてあるみたいね。他には巳葺山には大蛇伝説があって、山の神の化身とか言われている。あとは天狗と狒狒ね。山の神と言えば、神道の形式が整ってからの槍穂神社の御祭神は、木花開耶姫命、彦火瓊瓊杵尊と大山祇神の三柱の神様を槍穂の大神としてお祀りしている。山梨の北口本宮冨士浅間神社と同じ神様よ。大山祇神と木花開耶姫命は親子の山の神様、彦火瓊瓊杵尊は開耶姫の旦那様で、天照大御神の孫とされる神様。古事記で書かれているわね。この夫婦の子孫に神武天皇があって、今上天皇にまで続いている。ただね、公表されてはいないけど神社の奥宮に祀られている神様は別の神様みたいなの。浅間神社と同じ神様を主祭神としてお祀りしているのに神紋は桜の紋ではなく、上り藤の紋が使われている。繋がりは分からないけど奈良の石上神宮と同じ神紋なの。神様に関することは多分雫の方が詳しいと思うから、明日車の中で聞いてみるといいと思うな。あの子、運転中は早く話せるから。」
寛美は壁の時計を見た。18時22分。まだ外は明るい。5時間近くもここにいた。
「君達。お腹空かない?閉館の時間過ぎちゃった。ご飯食べに行こうか。」
「はい。是非。ところで、寛美さんも明日ご一緒しませんか?」
聡史が有頂天で返事して明日の秋月楓との面会に誘った。
「やめておくわ。雫が行くんでしょ?彼女が聞きたい事もあると思うし、初対面の先生に大勢で押しかけるのは失礼よ。君達が会ってみて、いい人だったら改めて紹介してね。」
寛美は優しく言うと翔を見詰めて微笑んだ。
1階に降りると入館窓口は既に閉まっていた。
風除室の守衛に寛美が三人分の入館許可証を返し、外に出るとまだ明るい空の下に海から心地よい風が吹いて来た。考古学部の校舎へ歩き水橋研究室に戻って寛美の私物を取りに行く。
学会発表の準備をしている学生と女性の教官がいて、寛美が帰るのを神に見捨てられた信者のような目で見ていた。