正史と偽書
「陰陽師の誕生は飛鳥時代頃、天武天皇が陰陽寮を設置したことによって始まったとされているの。地位が確立して文献に残っているのは主に平安時代。翔君も知っているでしょ。映画とかにもなった安倍晴明が有名ね。因みに、血脈の有無は分からないけど俊君の苗字、弓削を名乗る陰陽師、しかも陰陽頭になった人がいるのよ。弓削是雄。実在の人物で、姓は宿禰、八色の姓の序列三位に改姓されている。もとは連だったから四階級特進。今昔物語に出てくるの。知っていた?」
また脱線している。相変わらず資料の意味は無い。『目を通した』知識の一端である。
「いや。あの・・・知りません。それで、明日、紹介された人に会うんですけど、その人の話の中に『原初の陰陽師』っていうキーワードがあったみたいなんです。天武天皇の時代に陰陽寮として官職が生まれたという事だと思うんですけど、陰陽師自体はそれよりも前からあったのでしょうか。遣隋使と関係しているとか。」
「うん。翔君。ちゃんと勉強しているわね。陰陽道は、平安時代に道教や仏教と中国の周の時代に完成されていた陰陽五行説、それにもともとあった神道が融合して日本独自の様式を完成させていったものなの。日本的特質と思うんだけど、この国は海外からの影響をそのまま受けて従うだけではなく、共存して独自発展させるのが得意みたいね。陰陽道の基となった陰陽五行説という思想は六世紀、継体天皇の時代に百済からもたらされたとされていて、仏教は欽明天皇が即位する前後、西暦538年が有力視されているけど、この頃に百済から伝来したとされている。今と違って情報伝達や特性解析には時間がかかったからほぼ同時期と言っていいと思う。継体天皇の後、安閑天皇は在位五年、宣化天皇は三年そして欽明天皇の即位となるから長く見積もっても三十年間の出来事。文化として根付くには短い期間で多くの思想や文化がこの国に入って来て入り交ざり独自進化を始めた。」
寛美は話を止め、「ここまでは分かる?」と聞いた。
「学校で陰陽師の歴史は流石に習いませんが、時系列に沿って説明してくれているから分かりやすいです。」
正気に戻った聡史にも「大丈夫?」と微笑む。
「欽明天皇の時代に百済から仏像が送られて、物部と蘇我の対立があって敏達天皇の時代になって仏教禁止令が出て、その後の用明天皇は崇仏派だったけれど、たった二年で崩御して崇峻天皇になるけど蘇我馬子に暗殺される。それで、推古天皇の登場となって遣隋使ですよね。」
得意漫勉に聡史は答えた。ドヤ顔で翔を眺める。
「大変よく出来ました。すごいね。聡史君。」
寛美に褒められた聡史は再び昇天した。
「推古天皇が出て来たので、この時代に古代史最大のスーパースターが登場するけど。」
『聖徳太子』二人が声をそろえて言う。
「うんうん。」と二人を称える。
「私は聖徳太子の単独的伝説には懐疑的だけど。今の教科書では厩戸皇子としているのかな。聡史君が言っていた物部、蘇我の対立は尾輿と稲目の時代からその子、物部守屋と蘇我馬子に移っていく。両者の対立は激化して戦となっていった。物部氏は軍事を司る氏族だったから当初は優勢だったけれど童子だった聖徳太子が呪術を用いて物部優勢の戦を逆転させて物部守屋を討って蘇我の時代がやって来る。この出来事は『丁未の乱』と言われているわね。ここで、分かりやすく西暦で追っていくけど、聖徳太子の誕生は574年。用明天皇の子とされている。丁未の乱が587年、推古天皇即位が593年、太子が十九の時に皇太子になっている。宮室は豊浦宮。問題の遣隋使は601年に第一回があったとされるけど、当時の隋からは発展途上国扱いされ国辱的扱いをされたらしく、隋を見習った国政を築く必要を感じた朝廷は603年に冠位十二階を制定して宮室を小墾田宮に遷宮している。翌年の604年に十七条憲法を制定して律令制度の基盤を築いた。第一回遣隋使派遣時の601年に太子は斑鳩宮を造営して605年に移り住んでいる。新制度を築いたにもかかわらず太子は宮室と離れて住んだのね。そして607年、小野妹子を使者として第二回遣隋使を派遣。本格的な隋との交渉が始まった。少し戻して斑鳩宮造営中の602年。百済から観勒という僧侶が来日する。この人が陰陽道や歴、天文学を伝えたとされているの。太子は宮室ではなく斑鳩宮に観勒を招き、選抜された優秀な官僚三十四名を集め当時最新とされる、これらの学問を学ばせた。私は、先に入って来ていた陰陽五行説という思想に、道教や儒教の術的要素を加えた陰陽道が加わったと解釈しているわ。」
寛美は二人の真剣な表情を見て微笑んだ。
「それでは、原初の陰陽師とは、その観勒か、三十四名の官僚と言う事になりますか?」
翔が聞く。
「そうね。でも官僚全員が、皆のイメージするような陰陽道を学んで実践出来たかどうかは定かではないの。各分野のエキスパートを育成していたと思うのが自然ね。取り敢えず、日本史のお時間はここまででいいかな?これから、俊君が調べていた内容について私が勝手に大系立てて、翔君が知りたそうな事だけピックアップして話すね。」
二人は顔を見合わせる。
「今までのって『フリ』ですか?」
聡史が代表して言った。
「うん。正史理解していないとこれから話す『裏』に当たる歴史が嘘っぽく聞こえて違いが分からなくなるでしょ。確認しただけよ。」
何事もなく寛美は言う。
「まず、槍穂岳みたいな山岳地帯の真ん中に人が居住して文化圏を有していたのかという疑問があると思うけど、神社の古文書には、槍穂神社は今から五千年前の縄文時代に今の境内にもある磐座を御神体として祀り、神籬を設けて祭祀を行った事が由来とされている。この磐座を中心に環状集落が形成され今の神社の原型につながって行った。さっきも言った通り縄文時代には人が社会的生活をこんな山奥でも営んでいたという事よ。土器を造り、食べ物を貯蔵して定住していた。君達が実際に行く時、機会があったら見に行くといいんだけれど、神社の本殿裏手に横穴があって、岩塩の採掘場があったとされている『神域』があるらしいのよ。海まで行かなくとも、塩の調達はある程度まかなえたという事。何故かきちんとした調査は行われていないけれど、この槍穂岳には東北や日本海側に見られる大型の竪穴式住居があったみたいで、冬期に集落全体が集まって、共同で土器の作成を行うコミュニティがあったようなの。まあ、横浜にも加賀原遺跡に大型の物が見つかっているから不思議な事ではないけど、標高600メートルの山奥には稀な存在なの。一般的に縄文人の生活はアニミズム、自然崇拝が中心でシャーマンが祭祀を取り仕切っていた。邪馬台国の卑弥呼をイメージすると分かりやすいかな。でも邪馬台国は二から三世紀にあったとされる弥生時代の国家だから、槍穂岳周辺の集落はそれよりも規模は小さく時代も少し前だった。『原始的』と言ったら語弊があるけど、おそらく自然若しくは天との繋がりを意識した精神性のものや天文的なものであったと思う。この信仰が時代を経て『山の神』へと信仰対象が明確化、具現化されて、神道の影響を受け『神社』へと形式化されて行く。当初の信仰の対象は、山に住む彼らが恐れていた獣や自然現象。山火事や落雷、地震は勿論、縄文時代の後期から晩期にかけては急激に気温が下がって世界的な寒冷期が訪れていた不遇の時代があって、気候変動を含んだ自然そのものを『神』として祀っていた。それに、純粋に闇は今よりも深かった筈だから普通に夜は恐怖だったと思う。そういったものを信仰によって自分達の行い、猟場や採取先を決めていた。縄文時代は貧しいながらも平和な時代とされていて、狩猟や採集は不安定だった分、必ず平等に分配されて個人の能力に合わせて社会参加出来る世界を形成していて、他部族間での争いも無かったと思われているの。平野部を中心に弥生文化が浸透してきても、山岳地帯の槍穂岳には文化の波は緩やかにやって来た。そして古墳時代になり、さっき言った、国造が権力を持って統治をしても独自に交流していたようなの。山の民としてね。二人は『サンカ』と言う山地に住む民族がいたのを知っている?差別用語ではなく、今は研究の対象として扱われる人達だけど、丹沢にも山岳移動生活者として、木地師とか川魚猟を営む集団、蛇取り、山岳運送を行う集団がいて山奥に定住する者や山間の移動を続けながら生活する者達がいて、明治になって弾圧されるまで存在していたの。彼らは独自の言語でも会話していたらしくて、秘密の組織で結ばれたネットワークを持っていた。人間としての能力は非常に高かったと私は思うの。書物を残すことは稀で、口伝として語り継がれた民話があったのね。俊君はこの口伝と神社の古文書から共通点を探して、ある出来事と言うか、民話的な物語を見付けたの。」
寛美は話を止め、二人を見た。
集中して聞いている姿を見て「続けるよ」と言った。