エチオピア ETHIOPIA
医局に戻った水江の指示で各種検査技師が呼ばれ、神崎翔に関する必要な検査とその順序についての協議が行われた。先約、救急患者等もあるため優先順位を取り決めて行うが、最短で三日後には検査が終了し、一週間以内で報告書が纏められる見込みとなった。各技師が協力的に尽力してくれることに感謝し、水江は病室に戻った。
新しいシーツに変えられ、ベッドに寝かされた翔に看護師が点滴を処置し、体温等の検査結果を書き込んでいた。
「ありがとう。ご苦労様。」
看護師を労い、翔の容体を確認すると寝返りを打って横向きに眠っている。掛け布団を直し腕の点滴をチェックした。
個室の余暇コーナーに皆を呼び、椅子に腰かけて検査の予定を報告する。
楓から促されてシャワーを浴びに行っていた弥生が宗麟と同じ作務衣に着替えて戻って来た。この小一時間で見違えるように血色が良く、肌の艶が戻ってきていた。
「お待たせしました。」
声も生き生きとしている。
深山が弥生の席をつくり宗麟の隣に座らせた。隆一の事は引きずりつつも母としての安心が彼女を生き返らせた。
改めて水江から検査予定を聞くと、立ち上がって、誰にと言わず深々と頭を下げた。
「あの、すみません。私、眠っていたみたいなのですが、何があったのでしょうか?」
当然の質問であった。聞いていた水江が「あ!」と言って立ち上がった。
「撮影しておくんだった~楓さん!もう一度やって~」
手を合わせて楓に懇願する。
「撮影は不許可ですよ。」
新井が冗談っぽく言った。深山も新井の笑い顔はあまり見た事がなかったので嬉しくなって笑い出した。史隆も笑う。
終始黙っていた宗麟が、大学生の頃の話なのですが、と前置きをして語り出した。
「私は寺の生まれで、将来は僧侶として父の後を継ぎ、住職になる為の修業をしてきました。あれは、大学三年生の夏、各国の宗教指導者から直にご指導を頂くための旅行でエチオピアに滞在していました・・・」
エチオピアの南部にある高山地帯のとある寺院を紹介され現地のガイドと向かった。
標高2000メートルを超える高原は雨季に入っていたのだが当日は晴れていた。
赤道に近い筈だが気温は20℃程度しかなく夜には10℃を下回わるのだが、陽射しは強く長袖のシャツにサングラスをかけてガイドのジープに乗って現地へ進んで行った。
滞在していたホテルから麓の村までは比較的平坦な土地なのであるが、その寺院は長年の降雨による浸食を受けて渓谷を形成している断崖状の山で、主な成分が石灰岩の山頂に築かれていた。
前日の電話では歓迎されていたが、当日麓まで車で行くと寺院への階段の入口で門番の僧侶に「日を改めなさい。」と突き返されてしまった。学生であり今日を逃すと来る事が叶わないと伝えると司祭に許可を貰えるか聞いて来ると言ってくれた。
戻ってきた僧侶が「ガイドはここで待て。英俊だけ許可が出たからついて来い。」と言い英俊を手招いて階段を登り始めた。慌てて急な階段を登って行くとその僧侶から英語は分るかと言われ「大丈夫です。」と答えると、英語で語り出した。
「突然な事だが儀式を行わなければならなくなった。本来は外部者の見学は厳禁だが、ケペデレ司祭からの紹介だから特別に許可が出た。」と言い、ウォデファ司祭から三つの条件が出されたと言った。
一つ目は自分から決して離れず儀式の支障になる事はしない事。
二つ目は決して口を開かず声を出さない事。これは欠伸や、くしゃみもいけない。
三つ目は記録を残さず、見たことは心に留めるか忘れてしまい他言をしない事。
この三つの条件を厳守するように言われた。
子供の頃から運動は得意で、大学でも陸上部に属し体力には自信があったが、息が上がり脚に力が入らなくなってきていた。肺が酸素を必要として吸った空気を上手く吐けない。山を削っただけの階段は踏み外せば手摺もなく滑落してしまう。既に何百段登ったかも分らないくらいのところだったが、前を行く僧侶は二往復目なのに力強く登っている。振り返り「もう少しだ。」と言われ、意識朦朧となり眩暈がし始めた中奮起して彼について行く。
登りきると寺院の前はテラスのようになっていて地元の人々が集まっていた。
寺院は原始宗教の形式ではあるがキリスト教と融合して教会として使用していると前もって説明を受けていた。
周囲を見渡すと建物は全て地山である石灰岩を切り出して造られている事が分る。
登ってきた階段の反対側は切り立った崖になっていて木を縛っただけの手摺があった。
震える膝を抑え、息を整えていると門番の僧侶が声を掛けてきた。
非常に背の高い健康的な褐色の肌で手足が長く引き締まった身体をして法衣を纏った青年は、助祭の『ジジェ』と初めて名乗った。
高地で急な登りだったため英俊は声を出す事が出来ないでいたが、ジジェが現地では貴重な水を持って来てくれた。
「これは聖水だからまず清める。それからゆっくり口に含んで一気に飲め」と言われ、ジジェがコップの水に自分の十字架を浸し、英俊の額に十字を切る。
清めを終えるとコップを渡され、言われた通りに水を飲むと動悸は収まり落ち着いた。
英俊の様子を確認したジジェは「条件は覚えているな。ここからは条件に従え。」と忠告する。「はい。」と返事をすると彼は微笑んで英俊の肩を叩く。
改めてジジェを見上げる。青い空を背にした彼は無駄な肉が一切なく、張りのある褐色の肌に力強い眼光を放っていた。
口を閉じて微笑む姿は穢れを一切受け付けず、魂からの清涼な風を感じさせている。
ほぼ同年齢と思われるこの若い助祭に将来自分が目指すべき僧侶像を見出していた。
立ち上がりジジェの後を付いて教会に入ると、狭い廊下を通り礼拝堂に入った。
幾つも開いている窓の様な穴は換気の為であり、月間の降水量が200ミリメートルを超える雨の侵入を防ぐ構造の為に自然光があまり入らないが、堂内は数多くの蝋燭の灯で満たされていた。
壁も柱もすべて石灰岩が剥き出し研磨され輝いている。
こんな高地でどれほどの労力をかけて造り込んだのか見当もつかなかった。
人間の内にある『信仰』の力を示した実に荘厳な造りである。
正面にはイエスキリストの像があり祭壇が築かれている。
ふと、祭壇の下に目をやると今の翔ぐらいの少年が後ろ手に縛られ床に座らされているのが見えた。
「ハッ」と息を飲むのをジジェの左手が覆う。
右手の人差し指を横に振り、真剣な顔で英俊を凝視する。
首を縦に振り合掌して謝意を表わすとジジェは応え、手を放した。
大きな鐘の音がして、何語なのか聞きなれない言語で『経』のようなものを唱える法衣の集団が現われる。
列の二番目を歩く、高い帽子を被り大きな聖書を手にしている方が紹介されていたウォデファ司祭であろうと直感する。
英俊はこれから始まる儀式とは『悪魔祓い』なのだと理解した。
法衣を纏った司祭達は祭壇下の少年を囲い聖書を開いて『経文』を読み始める。
現地の言語とラテン語かヘブライ語で唱えていて、英俊には理解出来ない。
まるで歌っているようにさえ聞こえた。少年はへらへらと笑っていたが、聖水をかけられると、もがき苦しんで何かを叫んでいる。
『まるで映画のようだな』現実離れした光景を目にしていた。
再び経文が唱えられウォデファ司祭が何かを命じると、少年は縛られていた縄を引きちぎり司祭に向かって行った。
咄嗟に周りの人達が取り押さえようとするが少年の力は強く、皆弾き飛ばされてしまう。
隣にいたジジェが入ろうとした瞬間。
司祭が少年の頭に十字を切って叫ぶと少年は大人しくなった。
へなへなと座り込む少年を囲み、再び法衣の集団が経文を唱え始める。
さらに聖水がかけられ、経文を唱える声が大きくなる。
床に胡坐をかき、頭を前後に振っていた少年は俯いたまま動かなくなった。
最後に大きな声で経文を唱え、十字を切った司祭達は『印』のようなものを結んで儀式を終了させた。
英俊はキリスト教にも密教のような印が存在するのかと感心した。
司祭達が囲みを解くと少年の母親らしき女性が駆け寄り、抱き寄せて泣いていた。
母親は司祭に感謝を捧げ、少年を抱いて礼拝堂を出る。
テラスまで司祭達も見送りに出て来る。
母親は少年を抱いたまま振り返ると、司祭に何かを叫ぶ。
ニヤリと邪悪な笑みを見せ、木の柵を倒して切り立った崖から抱いていた少年もろとも飛び降りてしまった。
周囲は騒然としている。英俊には聞き取れないが、非難をする様な声も聞こえてくる。
ウォデファ司祭は十字を切り、天を仰いで何かを唱えていた。
乾いた風が吹き砂塵を巻き上げる。
太陽はまだ上空にあるが世界を黄土色に変えて行った。
宗麟の話はここで止まる。
「私は今、三つ目の条件を破ってしまったのですが、先ほど目にした光景は二十年近く前になる実体験を思い起こさせ、翔と弥生が、その時の少年と母親に重なって見えたのです。エチオピア以外にも幾つかの国をまわり奇跡と呼ばれる光景を見る機会がありました。しかし、最も衝撃的な体験はエチオピアでした。あのときの母親の顔は思い出したくもない。まさに邪悪な笑い顔だった。」
宗麟は言葉を切り、出されていたお茶をすすって続きを話す。
「しかし、秋月先生の儀式といいますか、先ほどの施術はエチオピアでの儀式とは全く違い、何というか余裕を感じて、特に呪文や祈祷をするでもなく場を収めてしまった。そして母親の弥生も憑りつかれていない。それどころかこのように元気になっている。」
言い終わると俯いたまま動かなくなった宗麟に楓が言う。
「翔君に悪いものは憑いていませんよ。和尚さんの見た悪魔祓いの儀式とは関係ありません。身体の中でぐるぐるしていた意識を元の場所に戻しただけの事です。ちちんぷいぷいってね・・・あれ?テクマクマヤコンかな・・・パプリカ・・・それに私、司祭様や神父様じゃありませんよ。鍼灸師です。国家試験合格証見ます?」
楓が言って鞄から資格証を出す。
一同は『やれやれこの人は・・・』と思いながら脱力してしまう。
「ん?」と首を傾げる楓を尻目に弥生が口を開いた。
「あの・・・私が眠っている間に何か、大変な事があったっていう事ですか?」
二度目の質問をして、きょろきょろ周りを見た。
「私には神仏の奇跡にしか見えなかった。深山さんの傷や、弥生の事も含めて。」
宗麟は静かに、自分に確認するように話した。
「裕子さんや深山君が説明した方が分りやすいと思うけど~筋道作って翔君の医療行為の報告書作るんでしょ?お役人が納得出来る風に書いて貰わないと遠山のおじいちゃんがうちに愚痴こぼしに来て面倒だしね。」
楓は苦い顔をして水江に言った。
「副院長もお立場があって・・・というか楓さんのところに行っているんですか?それ、絶対に楓さんに会う口実ですよ。副院長楓さんのファンですから。」
水江がにこやかに話し、深山を見てから弥生に向き直し説明を始める。
「お母さんは看護師でもあるので、今までの治療過程はご理解出来ているとして今日の事柄をご説明します。」
水江は弥生が眠ってからの事をありのまま説明した。