表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/10

第六章:MOTHER

-1-


「今日は砂肝のワイン煮が売ってたよ。

秋桜好きだろ?」


そういって父は小さなレジ袋を持ち上げて見せた


「わー!嬉しい!いつも売り切れちゃうんだよね?!」



「お父さんはおつまみにいただこうかな。

お母さんは?」


「また今日も取材に出かけちゃったよ。

朝一眼レフ持って一緒に電車乗ったんだけど

お母さんは下りないでそのまま東京方面に…」


「そう。ま、いつもの事だな。

ほんと忙しい人だ。

さ、ご飯にしよう。

お父さん着替えてくるからこれレンジで温めておいてくれる?」


「はーい。」


ご飯とお味噌汁をテーブルに並べ

父が買ってきたワイン煮と

昨夜親戚のおばさんからもらったイワシのマリネとポテトサラダも

器に移して出した。



ちょうどそのころ父が着替えを終え

ダイニングへと降りてきて席に着いた


「さ、いただこうか?」

「はい。」


「いただきます」

「いただきます」


手を合わせながら言った



「学校はどう?慣れてきた?」

「うん!お友達ができたの!!」

「ほぉ、それは良かった」


そういって父は缶ビールをコップに移し

それを一口飲んだ


「夢さんって言ってね、国分地から来てるんですって。

でね!今日お誕生日だからクッキー焼いてプレゼントしたの。」


「クッキー?」


「昨日おばさんのところでクッキー一緒に焼いてね、それを持っていたのよ」


「そう」

言いながらワイン煮を箸でつまんで口に放り込んだ


「おばさん、お料理得意だからいろいろと教わるといいよ。」

「うん!」


おばさんはお父さんの妹にあたる人。

凄く優しくって大好き!!


私のもう一人のお母さん…みたいな感じかな?

もちろん本物のお母さんはいるけど

いつもどこか行っちゃって一緒に過ごした記憶があまりない。

あってもなんだかせわしなくって…。


-2-


「あら、秋桜。いたの?」

その言葉に私の方が驚き

思わず持っていた楽譜を落としそうになった


リビングに入ろうとしたところで

母とドアの前で鉢合わせになったのだ。


「お母さんこそ…取材に行ったと思ってた。」


「もう終わったわよ。いい加減イラストあげないとそれどころじゃないわ!

でもねいい素材が取れたからそれモチーフに描こうと思って」


そういうといれたての珈琲が入ったマグカップを片手で持って

母は二階の自室へと籠ってしまった


絵を描くと言っていたから当分出てこないだろう。

夕飯はお鍋に父の作り置きのカレーがたくさんあるから

それでカレードリアでも作ってもらおうかなと考えながら

アプライトピアノの楽譜立てに楽譜を立てて

早速ピアノの練習を始めた。


今やっているのはツェルニー


先生がとても厳しくて

指使いを一つ間違えただけでも叱責される


だからしっかりやらなくちゃ


目標はお父さんがこの前弾いていたドビュッシーの「月の光」


すっごく綺麗な曲なの!!

一回聴いただけですっかり聞惚れちゃった!!


頑張らなくっちゃ!


と、突如ピアノのメロディとは違う調の曲が

室内に鳴り響いた


固定電話が鳴っているのだ


着信メロディはバッハの「主よ人の望みの喜びを」


ピアノを弾くてを止めて

固定電話を取ろうとしたところで

着信音が途切れた


電話のディスプレイには通話中の表示が


どうやら母が二階で電話を取ったらしい


「えーーっ!?」


突然二階から母の声が響いた


なんだか騒がしい。

どうしたんだろう?


リビングから廊下に出て

聞き耳を立てようとしたとき

母がバタバタと足音を乱暴に立てながら

一階に飛び降りてきた


あまりの勢いに思わず私とぶつかりそうになったところで母が

「邪魔よ!」と言葉を吐いた


「どうしたの?」


「ああ!あとあと!!ちょっと出かけてくるから

あんたはおばさんのところにいなさい。じゃね!!」



そういって母はソファに置いてあった鞄を手にするると

靴を履き勢いよく玄関の外に飛び出していった



バタン!と言って玄関のドアが閉まって

私は家に一人、ポツンと取り残された。


また取材なのかな?



ま、いっか。



-3-


お父さんが死んだ。


それはあまりに突然すぎて私は今でも現実を受け入れられない。


交差点で信号待ちしていたお父さんに

左折してきたトラックが

スピードを落としきれず

そのまま歩道に突っ込んで…



即死だったそうだ…。


あまりに突然すぎる…。



私の大切なお父さん。


お父さん…。



-4-



「ねぇ…秋桜さんのあの髪!」

「うん…なんだかかわいそうだけど、気持ち悪いね」



ストレスで髪が異常に抜け、当時おかっぱだった私の頭は

ぼさぼさになり

悲惨な事になっていた。



通学時は帽子をかぶるので多少ごまかしがきいたが

学校で帽子を脱ぐとすぐに児童たちの注目を集めた


おばさんが、少しでも早く髪が伸びるように、と

ところどころをゴムで結んだから余計に異様な髪型になってしまい

痛々しいどころの話ではなかった。


心配してくれるクラスメイトもいたことはいたが

どちらかというと気持ち悪がられ

私が廊下や教室内を歩くと

みなまるで私をばい菌ように避けてみせた


父を亡くしたショックは大きく、私は

言葉を発することができなくなっていた。


お母さんはお父さんがいなくなった後

今まで以上に取材旅行が増えた。


家に帰ってもだれもいない状態。

夕方日が暮れてもだれも帰ってこない。


誰もいない。


誰もいない状態。



私は一人だった。


頼りにしていたおばさんもその年

肺に腫瘍が見つかり

闘病生活に入ってしまったので

私は

なにもかもすべて自分でやらなければならなくなった。


幸いお金はあった。


母が

自由に使いなさい、と

通帳とカードを置いて行ったので

食料品や必要最低限の物を買うとき

そこから使った。


-5-


「ねぇ、今度横浜に行かない?」


3か月ぶりに帰ってきたかと思うと突然母が私に提案してきた。


「学生時代の友達とこの前偶然都内でばったり!

ぜひ横浜の自宅に遊びにおいでって

言われたんだけど、あんたの顔も見たいっていうのよ。」


小学4年生の冬。

私の髪は長く伸びていた。


学校から帰宅後私は

いつものように台所でお菓子を作っている最中だった。


高知県産のゆずが安く手に入ったので

ゆずのパウンドケーキを。


さみしさを紛らわすために

私は暇さえあればお菓子作りかピアノを弾くという生活を送っていた。


無心になれて嫌な事悲しいことを忘れられる。


焼きあがったパウンドケーキをケーキクーラーに移して

冷ましているときにちょうど母が帰ってきたのだ。


珍しくお土産を持って。


「あら、なにそれ。あんたが作ったの?

ふーん…」

そういいながら自分が買ってきたお土産をテーブルに広げる。


箱の中に白くて丸いお饅頭のようなものが詰まっていた


「かもめの玉子よ。岩手銘菓。

あんたも食べる?」


私は黙ってお茶の用意をした。


紅茶のティーバックをポットに入れようとしたところで

母が声をあげていった

「あ!私珈琲の方がいい」


立ち上がるとキッチンに入ってきて

自分でインスタント珈琲を淹れて

立ったまま一口それを啜った。


「なんかね、高校時代の友達なんだけど

なんと!すごいのよ、かすみっていうんだけど

かすみね、ピアノはプロ級のプロ!!

えーとなんていったかな…

国際的に有名なコンクールの入賞者でもあるのよ!!

あんたピアノ好きでしょ?

かすみに教えてもらったら?」


「…ピアノ…」


その単語を口にして

ちょっと嬉しくなる。


お父さんが亡くなって私はレッスンをやめてしまった。


だから今は独学でちまちまと好きな曲をさらって弾いている。


でもまた習えるのなら…習いたい、かな?


「じゃあ決まり!

明日行きましょう!!」

「え?」

あまりの話の早さに驚いて思わず声を上げた


「何よ?不満?」


母が眉根を寄せたので

私はとんでもない!と頭を左右にぷるぷると振って見せた



「よし、じゃ。明日横浜ね?」


-6-

翌日、

根岸線に乗り込み

横浜市内にあるそのおかあさんのお友達の家に行くことになった。


目的の駅に着くとお母さんは昨晩プリントアウトしたマップの紙とにらめっこしながら

歩き出した。


私は黙って母の斜め後ろについて歩く。


手に持っている小さな紙袋の中には昨日焼いたゆずのパウンドケーキが入っている。


「ええと…この坂を上って…

あ、こっちね…

それから?」


母はぶつぶつと言いながら歩いていく。


駅前を抜け

閑静な住宅街へと入った。


「あった!ここよ!射川!!」

すかさずインターホンのボタンを押す。


上品なコール音が響いて少し間があったあと

「はーい」と女性の声が聞こえてきた


「あ、かすみちゃん?私よ!私!!菜穂よ!!」

「…え?」


プツッ!とインターホンのマイク音が切れた


もしや…

私は嫌な予感がした


母は思い立ったらすぐに行動する人だ。


取材も思いついたその時ふらりと出かけて行ってしまうところがある。


もしかしたら今日、このお友達の家に遊びに行くことを

そのお友達に伝えてないでいきなり来てしまったのではないか。


ポーチの先にある玄関のドアが開いて

中かから女性が出てきた。


長いウェーブの髪をさらりと揺らしながら

目をぱちくりさせながら私たちを見ながら

歩いてくる


「あら…あらあらあら!!

菜穂ちゃんじゃない!?どうしたの!?」


「へへへ…遊びにきちゃった!」


予感的中。


「まぁ…」

そういいながら今度は私の存在に気づき

あら?と小さく呟いて私に微笑んで見せた


「今日は、菜穂ちゃんのお子さんね?」


「秋桜っていうの。ほら、挨拶しなさいよ?」

そういって肘で私の体を小突いたので

私はあわてて挨拶した


「…こんにちは」



「こんなところじゃなんだから

上がって?

ちょっと散らかってるけど…」



「はいはーい」


母は嬉しそうにそのお友達の後ろをついてある行き出したので

私もそのあとに続いた。


「さ、ここで少し待っててくれる?お茶入れてくるわ?」

「お構いなくぅ~」


そういいながらも母はまるで自分の家に帰ってきたときみたいに

案内された部屋になんの躊躇なくどうどうと入っていった。


「さ、秋桜ちゃんも中へどうぞ?」


「…あ…は…い…」


ドアの向こうからまぶしいほどの冬の午後の光がたっぷりに

差し込んでいて思わず目を細める


部屋に入ってすぐに目に入ったのは…


「ピアノ!」


思わず小さく叫んだ



そこには大きなグランドピアノが一台置いてあったのだ。



「だから言ったでしょ?かすみはピアニストなんだってば!

ほら、こっち座りなさいよ!」


ピアノの横にある応接セットのソファに

どっかりと座った母は私にも座るように言った。


私もソファに座ると着ていたコートを脱ぎそれを丁寧に丸めて

膝の上に置いた。


「これ、なにかしら?」

応接テーブルに置いてあったアルバムを勝手にめくる母。


私も覗き込む


すると

小さな子供の写真がたくさん貼ってあった。


が、次の瞬間思わず心臓がドキリとなる。


なぜって…

写真の中に

見覚えのある顔があったからだ。


…山崎司…


忘れもしない。


私が公立の小学校にいたときに

散々私をいじめた…あの山崎司…。


その山崎司が…


バイオリンを構えて弾く姿が写真には収められていて

一瞬え?と驚いた。



あいつ…バイオリンなんて習ってたっけ?

サッカー教室に通っていたのは知っているけれど…


「うちの子たちよ」


そういいながらトレーにティーセットを乗せて

母の友達が入ってきた。


「秋桜ちゃんは今何年生?」

「しょーよん、よ。かすみんところは?」


かすみさんが差し出したティーカップを受け取ると

母はいただきますも言わずに

カップに口を付けた


紅茶の甘い香りがこちらにもふんわりと香ってくる。


「こっちの本をおもちゃにして遊んでいるのが

明人。小学二年生。

それからこのバイオリンをかまえているのが…」


と山崎司の写真を指差して

かすみさんはにこりと微笑んでいった


「竹人よ。小学5年生。だから秋桜ちゃんより一つ上ね。」

「あら、秋桜良かったわね。仲良くしてもらいなさいよ!

で、お子たちは今どこに?」


するとかすみさんは苦笑いしながら言った


「それがね、今二人とも出掛けちゃってて…

ごめんね、秋桜ちゃん」


しかし私は頭を左右に振って

見せた。


山崎司…じゃない…???竹人…???


他人の空似?


言われて再び写真にじっと目を落としてみると

たしかに…

山崎司にしては目が少し優しい気がした。

それにやっぱりあいつはバイオリンって感じじゃないわ。


「前もって言っててくれれば二人とも家にいさせたんだけど…

といっても菜穂ちゃんの性格じゃ無理、か?」


そういいながらかすみさんにこりと微笑むと

向かいのソファに腰を落とし

自分用に用意したティーカップを手にして

紅茶をお上品に一口啜って見せた。


「あ!」

と思わず声をあげると

母とかすみさんが同時にびっくりして

私を見た


「…こ…これ…」


持っていた紙袋をかすみさんに手渡した。


「あら。何かしら?」


「ああ…それね。秋桜が作ったお菓子よ。

パウンドケーキだっけ?」


その言葉に私は小さく頷いて見せた。


「あらあら…お母さんと一緒に作ったの?

楽しそうでいいわね?」


しかしその言葉に私と母の間に一瞬冷たい空気が流れた。


「違うわよ、かすみ。

私、お菓子作りなんて趣味じゃないもの。

秋桜が一人で勝手に作ったのよ。」


「え?あらそうだったの!?

凄いわね。一人でお菓子作れちゃうなんて!!」


あまり人に褒められることがなかったので

ちょっと照れ臭くなって思わず俯いた。


「折角だからみんなでいただきましょうよ。

お皿持ってくるわね?」


そういってかすみさんは席を立ち

パウンドケーキを手にして部屋を出て行った。


「ふーん…

かすみん家、綺麗に手入れされてるわねぇ…」


そういいながらお母さんは立ち上がると

ベートーベンのように両手を後ろで組んで

部屋の中をぐるぐるとゆっくり歩き出した。


私は座ったまま母の姿を目で追う。



「ふーん…この棚の本、全部楽譜なんじゃないの?

さすが…

あら…この置物マイセンね。

このエミールガレ風のランプも素敵だこと。本物かしら?」



母はいろいろな骨董や調度品のブランドにすこし詳しい。

それをモチーフにしたイラストなどを描いて

絵本にのせているくらいだから。


やがて部屋を一周するとグランドピアノの前に来て止まった。


「秋桜、なんか弾いてみなさいよ?」


「え?」


「折角ピアノあるんだし。」


そうは言われても…

勝手に弾いていい物だろうか?


私がどうしようかと迷っている間にも

母は勝手にカバーを開け

鍵盤にかかっていたフェルトカバーをくしゃっと軽く丸めると

ピアノの脇に置いた


「ほら!なにしてるのよ?」


半ば強引に促され仕方がなく

ピアノ椅子に腰を下ろす。


そこでこのピアノがスタンウェイ社の物であることを知る。


スタンウェイのピアノは一度も弾いたことがない。

なんだか急に緊張してきた。


と、

扉が開いて

パウンドケーキが乗ったお皿を手にしたかすみさんが入ってきた。


「あら、秋桜ちゃんピアノ弾けるの?

何か弾いて聞かせて?」


「ほら!かすみもああ言ってるんだし何か弾きなさいよ?」


母はいつも少し強引だ。


そこで私は少し考えた。


この場にふさわしい曲を。


白いレースのカーテンの向こうからは

柔らかな光がきらきらと漏れ

室内を明るく照らしている。


紅茶の甘い香りにパウンドケーキ。


とても穏やかな雰囲気…


この場に合いそうな…なにかそれらしい曲…


私はそっと鍵盤に手を下ろして

ゆっくりとメロディを紡ぎ出した


静かに鳴る左手の伴奏の上からポーン、と響く

右手のメロディ。


穏やかな世界が光の中に包まれた。


カチャと小さな音がしたので

横目で見ると

母が紅茶を飲んでいた。


その横顔は珍しく穏やかで

優しい表情だった。



やがて曲を弾き終わると

ぱちぱちとかすみさんが拍手を贈ってくれた。


「素敵ねぇ!ドビュッシーの“夢”、か…久しぶりに聴いたわ。

それにしてもなんて優しい弾き方をするのかしら?

まるで秋桜ちゃんが弾いた曲が絵画になって心の中に

現れたみたい。」



「何その表現!」

クスッと母は笑って大げさよ!と

スライスされたパウンドケーキを

フォークを使わず手でつまんで一口齧った。


「ピアノ習ってるのね?」


かすみさんの問いに私は首を横に振った。


「今はもうやめちゃったのよ。

主人が亡くなってね。一時はピアノどころじゃなくなっちゃって

というか…秋桜もメンタル弱くてねぇ~

ほんと困っちゃう!」


思わず胸がズキッと痛んだ。


最愛の父の死に胸が痛まない人が一体どこにいるのだろう?


母は悲しくなかったのだろうか?

悲しくはないのだろうか?



「あら、ここまで弾けるのにもったいないわねぇ…」

そういいながらかすみさんはにこりと優しく微笑んで見せた。



そういえば最近誰かの前でピアノを弾く事ってなかったなぁ…。


「ま、かすみみたいなプロ並みの技術があるならまだしも

秋桜なんてお遊びで弾いてるだけだから

これ以上極めたって仕方がないわよ。

1人で適当に弾いていればいいんだわ?」


するとかすみさんは少しびっくりした顔をして

お母さんの方を見た。


そんな言い方しなくても…と、そういいたそうな顔をした。


母は口が少々悪い。

ストレートな物言いが

私は苦手だった。

苦手だったといっても

実母には変わりない。


切っても切り離せない縁が、ここにはある。


「さ、秋桜ちゃんもこちらにいらっしゃい。

お茶をどうぞ?」


かすみさんは上品に微笑むと

お母さんの隣の席に座るように促したので

私はピアノから離れ

そちらに座った。


上品なティーカップ…。

白を基調としたカップにブルー花柄の絵があしらわれていて

紅茶の琥珀色がよく似合った。


「コペンハーゲンでしょ?これ。」


私がカップの模様を見ていると

母がそれに気づいて

かすみさんに尋ねた。


「そうよ。貰い物だけど。」


言いながらかすみさんはカップに口を付けた。


「かすみってこういうの好きなんだ?私も大好き!

いつだったかな?

昔銀座までコペンハーゲンのティーカップ買いに出かけたことがあったんだけど

私が探していた柄がなくてね。

別の輸入食器店行ったらマイセンのブルーオニオンがあって

思い切って買っちゃおうかと思ったけど、

主人に止められたのよ。

一脚3万はさすがにないだろ?っていわれてね。」


「食器も凝りだすとキリがないものね。

私はあまり詳しくなくて…

なんだかんだでいろいろとお付き合いがあって

もらう事が多くて気が付いたら家にあったってことが多いかしら?」


「あらそうなの?かすみの趣味だと思ったのに」


「でも嫌いではないわよ。昔の話だけれどヨーロッパに演奏旅行に行ったときに

花瓶に一目ぼれして買っちゃった事あったわ。」


「もしかして玄関にあったやつ?」

「ええ。」


「“ウィーンの薔薇”ね?」


「詳しいわね!

そうよ。確かにウィーンで買ったけど

良く分かったわね!」


「有名よ!」


母とかすみさんはしばらく食器の話で盛り上がっていた。


少し退屈を感じた私は

黙って

カットしてお皿にのせられたパウンドケーキをフォークで

ちびちびと食べた。


「そういえば菜穂ちゃん、絵本作家さんなんでしょ?」

「うん?まぁね。」


「どんな本描くの?菜穂ちゃんがどんな世界を広げているのか

見てみたいわ。」


「ああ…ええとね、今は絵本より児童向け小説書いてるの。

花をモチーフにしたお話でイラストも私が描いてるのよ?

なんだ…興味あるなら持ってくればよかったかしら?

でも、普通に本屋さんや図書館に並んでるから探してみるといいわよ?」


「まぁそうなの?!さすがね!!」


「それよりかすみはどうなの?ピアニスト生活。

あっちこっち飛び回って忙しいんじゃないの?」


するとかすみさんの笑顔が一瞬沈んだかのように見えたのは

気のせいだっただろうか?



「う…ん。実は今活動休止中なの。」


「えっ?」


突然お母さんが叫んだからびっくりして

持っていたお皿を落としそうになって焦る。



「何?!何!?どういう事?

だってかすみあんなにピアノ上手だったじゃない!

それになんだっけ?ほら!!国際コンクールだかなんだかで入賞してたじゃない?

何があったの?ねぇ!教えてよ!!」


母は上半身を乗り出してかすみさんに迫った。


「子供が二人いるんだけど二人目の子がね、ちょっと病弱で。

未熟児で生まれてしばらくNICUに入ったりして。

暫く入退院繰り返して幼稚園も最後の1年ギリギリ形だけは通ったことになってけど

今もまだ体調不安定で。


でもね、子供ってかわいいわよね。

病弱なことを除けば他の子と変わらないわよ。

お兄ちゃんと遊んでるかと思えば喧嘩もするし本当賑やかで

子供産んでよかったって思えるの。

この幸せがあるのならピアノ、少しの間だけ手放してもいいかな?って。」


「…ああ…そうだったの…」

少し納得したのか

母はソファに寄りかかり

ため息を一つ付いた。



「菜穂ちゃんも秋桜ちゃんがいてよかったわね。

女の子はまたかわいいでしょ?」


すると母は笑いながら頭を振って見せた。


「ぜーんぜん!

だってこの子ちっとも笑わないの!

それにお父さんっ子で私には懐いてくれないし!

私は一人の方が気楽よ。

だから一人で取材旅行に出かけてた方が楽しいかな?

あら…だとしたらかすみとは真逆の生活してるのね、私。」


「菜穂ちゃん…」


そういってかすみさんは少し困った表情を作って

お母さんを見た後、今度は私の顔を静かに見た。



「そんな事…、

秋桜ちゃんお菓子だって作れちゃうしピアノも上手だし…

私は男の子しかいないからわからないけれど

可愛いじゃない。ねぇ?」


そういってかすみさんは私にまた優しく微笑んで見せた。


「そうかしら?」


母は言いながらカップに口をつけて紅茶を一口啜った。


なんだろう…

なんだか…


心が痛い…。


これじゃあまるで、私…。


気が付くと視界が涙色ににじんでいた。


このままじゃ…涙が…零れ落ちてしまう…。


「あ…の…お手洗いお借りしてもいいですか?」


ゆっくりと立ち上がると私は言った。


「ああ…こっちよ?」


そういってかすみさんも立ち上がると

廊下の外に案内してくれた。


「こっちよ?」


そういって案内された扉の前で

私がドアノブに手をかけようとしたところで

かすみさんが軽く肩をたたいて言った。


「お母さん不器用なところがあるからそのまま受け止めっちゃだめよ?」


「?!」


言うとかすみさんはピアノのある部屋へと戻って言ったので

私はドアノブに手をかけ

扉を開けて中に入ると後ろ手でドアを閉めて

そのままドアに寄りかかりながら

座り込んだ、その瞬間涙がポツリ、と零れ落ちた。


服の袖で涙をぬぐい

暫くぼんやりしていた。


ラタンスティックの刺さった芳香剤が置いてあって

そこからかすかにラベンダーの香りがする


何分くらいたっただろう?


どこ、というわけでもなく

視点を定めず、

何かを考えているというわけでもなく

ただただその場にしゃがみ続けていた。


少しすると

玄関のドアが開く音がして

パタパタと足音が近づいてきた


と、


ドアノブがガチャガチャと揺れる。


「あれー、誰か入ってるのぉ~?」


男の子の声がした。


慌てて

立ち上がると

鍵を外し

外に出た。


すると、小さな男の子がきょとんとした顔をして

私を見上げた。


「え…お姉ちゃん、誰?」


身長からして

さっきかすみさんが話していた二番目のお子さんだろう



私が何も言えずに立ち尽くしていると


「あ!そうだ!!トイレトイレ!!」


そういって私と入れ替わりにトイレに入るとそのまま乱暴にドアを閉めて

鍵のかかる音がした。


このままここに立ち尽くしていても仕方がない。

私はピアノのある部屋へと戻った。


するとかすみさんは私の顔を見て

はっとした表情を作って見せた。


それにつられて母も私の顔を見る


「あら、秋桜目が真っ赤じゃない。どうしたの?」


泣いてた、とは言えない。


「…目にゴミが入ってこすってたの…」


そういいながら目をこすってまだ違和感があるようなしぐさを見せた。


が、

かすみさんは気づいていたようだ。



「ねぇ、秋桜ちゃん、おばさんと連弾してみない?」


かすみさんは自分の事を“おばさん”と言ったが

まだ“おねえさん”でも通用するんじゃないかと思うほど

綺麗だと思う。


するとすかさず母が笑って言った。


「アハハ!!おばさん、だなんて。

そうね!そうね!!もう私たちおばさんの部類よねぇ~?」


なんだろう…なんだか

母の物言いにイラっとしている自分がいた。



しかし構わずかすみさんは立ち上がると

たくさんある本棚の一つから楽譜を一冊取り出してきた。


「グノーのアヴェ・マリアって知ってる?」


あ!その曲!!お父さんが昔弾いてた曲だ!!


嬉しくなって思い切り頷いてみせる。


「良かったわ。

じゃあ…秋桜ちゃんメロディ弾いてくれる?

おばさんが伴奏弾くからね?」


ピアノ椅子に座るように促されたので

静かに腰を下ろす。

かすみさんはその隣に立って

中腰になり鍵盤を軽く鳴らした。


「じゃあ…おばさんがここの段を一度弾くから二度目になったら

メロディに入ってね?」

そういって楽譜を指差したので

私は小さく頷いて見せた。


かすみさんが伴奏を弾き始めたので

私は心の中で拍子を数えた


そして、


メロディを伴奏の上に重ねる


アヴェ・マリア…


マリア様…


お父さんが言っていた。

マリア様はいつも私たちを見守っていてくださっている、と。


だったら…

今きっと天国にいるお父さんも

マリア様のように

私を、

私たちを、

見守ってくれているのだろうか?


私が今、ピアノでお父さんが好きだった

アヴェ・マリアを弾いているのを天国で

見てくれているのだろうか?


徐々にピアノからフォルテ…


そしてゆっくりとかすみさんの伴奏で

音楽はフェードアウトする…


曲が終わりそっと鍵盤から手を離した。



「ふーん…まぁまぁね?」

最初に言葉を発したのはお母さんだった。


「どう?秋桜ちゃん。連弾は初めて?」


「いや。主人とむかーしちっちゃいころなんか発表会で

弾いてたわよ?あまりメジャーじゃない曲だったと思う。

私はクラシックにあまり詳しくないからよくわからないけど」


と、カチャリと音を立てて

部屋のドアが開いた


「…おかあさん?」

さっきの男の子が顔を出した


「あら、明人。帰ってきたの?早かったわね?」


「う…ん。みんな神社に探検に行っちゃった。

僕は駄目なんだって」


「なんで?」


「ぜーぜーうるさいから帰れって言われたから帰ってきた。

あとトイレ行きたくなっちゃったからちょうどいいやって思って」


「そう…あ、紹介するわね。息子の明人よ。

明人、皆さんにご挨拶して?こちらお母さんの高校時代の

クラスメイトの天妙寺菜穂さんとそのお嬢さんの秋桜ちゃんよ?」


「今日は」



するとお母さんはにこりと笑顔を作っていった

「今日は。かすみ、男の子もいいわね。私も男の子欲しかったな」


なんだろ、その言い方。


なんだかもやっとした。


「おかーさん、お腹空いたぁ~。何かおやつ食べたい!」


そういいながら明人君はテーブルの上にあったパウンドケーキに目を落とした。


「それならこれ、いただきなさい。秋桜ちゃんの手作りよ。

パウンドケーキの中に入っているのはゆずかしら?」


聞かれて私は小さく頷いた。


明人君はかすみさんの隣のソファに座ると

早速パウンドケーキをフォークで切り分けて食べだした。


ちょっと緊張してる私。


「ね?おいしいでしょ?」

かすみさんだ。


「うん!あまくてまったりしてておいしい!」

明人君はあどけない笑顔を作って見せた。


「あ、ほら明人!口の端にケーキがくっついてるわよ?」


そういって明人君の口についていたケーキの欠片でとると

かすみさんはそれを自分の口の中に放り込んだ。


「おにーちゃん、何時頃に帰ってくるのぉ?」

「3時には終わるって時間割に書いてあったから4時までには帰ってくるでしょ?」


そういって飾り棚の上にあったアンティーク調の置時計に目をやった。


時刻は14時半を回るころだ。


「時間割?学校?うちはとっくに冬休みよ?」

お母さんだ。


「ううん。塾に行ってるの。冬期講習。」


「あら、お受験?」


「ええ。本人が行きたいっていうから。どうなるかはわからないけどね」

「うちは小学校途中から私立行かせたの。

公立に悪ガキがいてね?

主人が環境を変えたいって。

私的は悪ガキだろうがなんだろうがもっと人に揉まれて育って

欲しかったのよねぇ。

だからこの子ほんと、いつの間にか箱入りになっちゃって

ちょっとしたことですぐくじけちゃって…

主人が死んだときも髪がボロボロ抜けて…

笑っちゃうわよねー」


そういってハハハと笑ったお母さんをかすみさんはびっくりした表情で

見ていた。


私はというと

早く帰りたい気分になっていた。

思わずスカートの裾をぎゅっと握って見せる。


「なんで笑っちゃうの?」

明人君だ。


突然ポン、と話しの中に入ってきて

不思議そうに小首をかしげて見せた。


「お父さんしんじゃったのにどうして笑っちゃうの?

僕だったら笑わないよ。逆に泣いちゃう。」


するとお母さんはそうねーと言いながら

突然私の頭をなでて見せた。


「いまは何ともないけど当時はほんと、落ち武者みたいだったのよ?

折角いじめから逃げるために転校したのに

転校先の学校でもハゲ!って言われてたみたいだしね。

明人君、落ち武者ってわかる?お・ち・む・しゃ!」


するとかすみさんは表情を曇らせちらりと私を見た後

明人君の肩をそっとたたいた。


「アキ、秋桜ちゃんに新しく買ったゲームやってもらったら?

面白いんでしょ?」


「え?あ、うん!

おねーちゃん、おいでよ!!

いっしょにゲームしよ?」


そういいながら小さな手を差し伸べた


私はちょっとびっくりしながらも

この場を離れられるのならと

たちあがり

部屋を出ていく明人君の後に続いた。


まっすぐに廊下を進むと

正面にドアがあって明人君はその部屋に入っていった。

私も続こうとしたところで

ふと右側をみると

二階に続く階段があって

踊り場のところに綺麗なステンドグラスの窓があって

思わず目を止めた。

薔薇模様のステンドグラスだ。


綺麗…


「おねーちゃん!こっちこっち!」


私が付いてこない事に気づいた明人君が

部屋の中から手招きして見せたので

慌てて室内に入った。


入ってみるとリビングダイニングの部屋だった。


広さは10畳以上はあるだろうか?


リビングの方には大きなソファセットがあって

壁に掛けられた大きな薄型テレビが存在感を放つ


そのテレビの前で明人君はゲーム機を引っ張り出していることろだった。


と、ソファテーブルの上にパンフレットが数枚置かれているのに目が行く。


そっと膝お降りテーブルの脇に座ると

パンフレットを一枚手にした。


『満点星学園』


“森の中の学び舎でのびのびと学園生活を”


とある。


ぱらりとページをめくった。


するとそこには笑顔で向き合う学生たちの写真が。


制服は上下真っ白なブレザーで

その中に黄緑色のシャツやブルーのシャツを着ている学生。


「それね、お兄ちゃんが目指してる学校の一つだよ。

まんてんぼしって書いて“どうだん”って読むんだ。

湘南御三家の一つだよ。

制服が真っ白だから通称シラサギっていうの。知らない?」


そういわれてパンフレットをひっくり返し一番後ろのページを見ると

学校の住所が金倉市となっていた


転校を考えた2年生の時、

父がどうしてもミッション系の女子校がいいと言っていたので

共学はノーマーク。

でも…“どうだん”…どこかで聞いたことがあったような…。


「ええとね、制服のイメージカラーがそれぞれあってね、

ほら、ここ!」


そういって明人君は私が持っていたパンフレットを取り上げると

ぱらぱらとめくってそのページを示した


「幼稚舎は蕾色のエンジ、初等科は桜色、中等部は若葉色、

高等部は海の色、で、大学が宇宙色なんだってー。

おねーちゃんも中学は満天星にすれば?お兄ちゃんと会えるよ?

僕もね、もう少し学年上がったら塾通ってお兄ちゃんと同じ満天星目指すんだ!

そしたらお兄ちゃんと一緒に電車乗って学校いけるもん!……ゴホッ!!」


突然明人君が蒸せたように激しい咳をしだした。


「…だいじょう…ぶ?」


恐る恐る背中に手を当てるとそっとさすってあげた。


一気に喋ったからだろうか?

お水持ってきてあげた方がいいかしら?


とキッチンの方に目をやると

明人君が急に私に抱き付いてきたのでびっくりした


とても苦しそうで

私にしがみつきながら激しく咳をする明人君


と…



ゴホッ!!


「!!」


私の真っ白なブラウスに…

真っ赤な…血…が……!!



-7-


「菜穂ちゃん、ちょっと秋桜ちゃんに冷たすぎるわ。

もうちょっと優しくしてあげないと…」


「あらぁ…別に冷たくなんてしてないわよ。

あの子が私に懐いてないから。

だったら私からもへこへこ媚びる必要もないかしらなんて、ね。」


そういって菜穂は紅茶を一口啜った。


「でも…」


「主人が死んでから余計に…なんていうの?

私に対して距離を置くようになったような気がするのよね、あの子。

私も私で仕事が忙しくてあちこち駆け回ってるから

あまり会う事もないし。

とりあえず生活費は渡してるから

大丈夫でしょ。

家事とかもやってくれてるみたいだし。

そういうところは女の子でよかったかしらなんて思うわね。」


「ええ?ほったらかしなの?」


「ほったらかしなんて…放任主義と言ってほしいわ。」


「……食事も一人で食べてるの?秋桜ちゃん…」


「そうよ。近所に親戚の叔母がいたんだけど

今体調不良で入院中だから、最近はずっとそうね。

でもどうせテレビでも観ながら食べてるんだろうから

さみしいとかってないんじゃないの?」



「………」



「ほらほら、かすみ!そんな怖い顔しないでよ!

逆にかすみはあまやかしすぎなのよ。

男の子なんだからほっとけばいいの。」



「菜穂ちゃん、取材旅行がどうのってこの前会ったとき言ってたけど

旅行って何日ぐらい行ってるの?」


「何日?ううん。何か月、って感じよ。

そんな数日じゃ帰ってこれないわ。」


「海外にでも行ってるの?」


「ううん。国内メイン。海外もたまに行くけどね。

だけど日本の自然に触れてると本当心が和むっていうか…

ついこの前までは岩手の遠野に行ってきたのよ。

なんだかんだで長居しちゃったわね…3か月くらいいたのかな?」


「さっ…!三か月!?

三か月も家を空けていたって事?」


「?そうよ?」

何もおかしいことはないじゃないと言わんばかり

菜穂は微笑む


「秋桜ちゃんずっと家に一人って事?

だってまだ小学4年生じゃないの…近くに他に親戚とか頼れる人いないの?」


「うーん…そうね。いないわね。一番近くて

主人の実家が北金倉にあるぐらいかな。

でも主人が死んでから一度も行ってないし私

のけ者にされてるから行きたくはないわね!」


「そんな…

あ!じゃあ…これはどう?

週一でウチにピアノ弾きに来るのどう?

毎日通うのは大変でしょうけど週1くらいだったらお互いに

通えるんじゃないかしら?

河崎でしょ?」


「ああ、そうそう。その話!

その話をしに来たのよ!!

かすみさぁ、秋桜のピアノ見てやってくれない?

さっきも一緒に弾いて分かったと思うけど

へったくそでしょ?

かすみが見てくれたらきっともっと上手になって

音大ぐらいは出れると思うのよね。

そしたらピアノの先生ぐらいにはなれるんじゃないかしら?」


「まぁ、下手なんかじゃないわよ!

秋桜ちゃんとても才能があると思うわ」


「アハハ、お世辞はいいよ。

あの子、なんの取りえもないからさ、一つぐらいね、と思ってさ。」


「いいわよ。で、秋桜ちゃんはなんて?」


「いいんじゃないの?ピアノ好きだって言ってたし。」



「……あら?」


「ん?どした?」

菜穂はティーカップを手に取りカップに残っていた紅茶をすべて啜って飲んだ。


「今…秋桜ちゃんの声がしたような?」


「え?そう?」


「ちょっと見てくるわね?」


そういってかすみは立ち上がると

部屋を出て行った。


-8-



「おかーさん!!

おかーさん!!」


私は必至で叫んだ。


このまま明人君を置いてお母さんがいる部屋に行くのにはためらいがあったからだ。


けれどいくら呼んでも母が来る気配はない。


明人君はそのまま倒れ込んで苦しそうにしている。

私はただただ泣き叫びながら

明人君の背中をさすっていた。


「あら!どうしたの!?」


暫くしてやっと

かすみさんが異変に気付いてリビングに来てくれた。


「あ…あの!!

血が!!

明人君、血を吐いて倒れちゃって…私どうしたらいいのか…」


涙声で言葉がもつれる。

うまく喋れない…


するとかすみさんはあわてず落ち着いた表情で

私の肩にそっと白い手で触れて言った


「大丈夫よ。ごめんね、心配かけて。よくあることなの。」


さらりとかすみさんの長くウェーブした髪が揺れ

ふわりと、優しい花の香りが漂ってきた。


その香りにすこしだけ心が癒される。


かすみさんはテレビの下の棚から何か小さなプラスチックの塊を取り出すと

それを明人君の口に当てて言った。


「アキ、落ち着いて。吸入器自分で吸える?」


すると明人君は倒れながらもコクンと頷き

かすみさんから吸入器を受け取るとそれを操作して口に吸いこんで見せた。


「…はぁ!!苦しかった…!」


そういいながら明人君は体を起こして見せたので私はちょっと驚いた。

だって今まであんなに苦しそうにしてて

本当…死んでしまうのではとさえ思っていたのに

吸入器?を吸ったとたん何事もなかったかのように話せるようになるなんて…


「咳のし過ぎで喉が切れちゃってそこからの出血なの…あら?

あらあら…!」


かすみさんは私のブラウスの血に気が付いて目を大きくして見せた。


「大したことないわよ、そんなの!」

そういってお母さんがリビングの中に入ってきた。



「でもせっかくのかわいいブラウスが台無しだわ…」

「平気!平気!コート着ちゃえばわからないから!

それよりさぁ、かすみ。ここから金倉って近いんでしょ?」


「え?…ええ…まぁ…遠くはないけど…でも電車を乗り換えないと…」


「私ちょっと金倉に取材に行ってくるわ!

この時期だと花咲いてないだろうけど、そんな寂しい雰囲気の金倉も

いいかな、なんてね!

こんなこともあろうかと一眼レフもちゃーんと持ってきたのよ?

じゃね?」


そういってお母さんは鼻歌を歌いながら

私たちの返事を待たずそのままリビングを出て行ってしまった。


思わずあっけにとられていたかすみさんだったが

次の瞬間はっとして私の背中をポンと軽くたたいた。


「秋桜ちゃん!お母さん行っちゃうわよ?追いかけないと?」


しかし私は頭を左右に振って見せた。


「え?…でも…」

かすみさんが困った表情を作ったので私は言った。


「…いつも…こんな感じなんです…

私も帰ります。

お邪魔しました…」

「え?一人で変えるの?

でも…」


「Suica持ってるので一人で帰れます。」

そういって立ち上がると

1人、ピアノのあった部屋にコートを取りに行った。


後からパタパタとスリッパの音を鳴らしてかすみさんが部屋に入ってきた。


「ねぇ、秋桜ちゃん!」


そういってかすみさんはひざを折り私の両手をキュッと握って見せた。


かすみさんと目線の高さが合う。


かすみさんの瞳の色は茶色できらきらと光りが中で揺れていた。


「ピアノ私が教えるから習ってみない?

あのね…おばさんお節介かもしれないけれど

秋桜ちゃんの事とても心配なの。

秋桜ちゃんのお母さんはすごく…なんていうか…こう

お仕事忙しそうでしょ?

親戚の方も具合が悪くて秋桜ちゃんの面倒見れないみたいだし…


私でよければ力になりたいの…


どうかしら…?」



かすみさんの瞳が一層きらきらと輝いて

その中に無表情な私の姿がうつりこんでいた。


「…でも…ご迷惑じゃありませんか?」


すると握られた手にさらに圧がかかる。


「そんな事ないよ。」


そう即答してかすみさんはにこりとまた優しく微笑んで見せた。


なんだろう…

なんだか…また…泣きそう…


さっきとは違う…


悲しい涙ではない、と思う。


じゃあ…なぜ私は今視界を潤ませ

また泣こうとしているのだろう…



「一緒にピアノ弾きましょ?

弾きたい曲持ってらっしゃい?ね?」


と、

ふわり…


かすみさんのうしろの窓から

日の光が差し込んできて

まるでかすみさんの後光のように

光輝いた。


かすみさんが、眩しい。



「………はい」

私がコクリと頷くと

ポロリと、涙が一粒、目から零れ落ちた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ