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プロトプテルスの夢  作者: 役田 叶
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千変万化

 今日はやけに肌寒い。家の中に居るのに指先の感覚がまるで無い。

「お兄ちゃん、晩ご飯だよ」

 一階から聞こえるのは妹のエニの声だ。

「今行くよ」

 僕の弱々しい声が響いた。力強くも優しさのある彼女の声に比べると、僕の声は錆び付いたギターの弦をチューニングもせずにポロロンと弾いた様な音だった。やけに軋む実家の階段は、僕の気配を家族に知らせるので苦手だ。

「早く座りなさい。スープが冷めるわ」

 母のヒルは毎日せかせかと家事をこなす。

「なんで早く降りてこないんだ。みんな待っているんだぞ」

 父のチョークはいつも口うるさい。国営組織が出版している情報誌を読むのが父の日課で、休みの日は基本的にリビングのソファで情報収集に勤しんでいる。

「キュウ、お前ももう少し社会のことを知ったらどうだ? 国が出している出版物だ。信頼できる情報だぞ。少し読んでみろ」

 父は冗談を言わない。いわば勤勉な人間なのだ。今のセリフも冗談では無く本気で僕に言っている。

「はいはい、そんな話は後にしてご飯にしましょう」

 母は話を遮るのが上手い。そして父はそんな母には何も言えないのだ。一先ず助かったと安堵した。ここ数日急激に気温が下がりこの街はいよいよ冬本番を迎える。この季節になると雪が降る日も珍しくない。

「いただきます」

 家族四人で手を合わせる。しばしの反抗期はあったものの、よっぽどの理由がない限りは家族全員で食卓を囲む。妹が病気で入院するまでは──。


 一年前の冬、その日もこれくらい寒かった。エニが五歳の誕生日を迎える数日前ということもあり、家族全員で誕生日プレゼントを買いに出掛けた。街は賑やかでエニの誕生を街人全員でお祝いしている気分になった。

「パパ、私あれが欲しい!」

 指差した先には、でっぷりとした大きな魚のぬいぐるみが鎮座している。父は思わず吹き出した。

「あれのどこがいいんだい? 魚が好きなんて情報ママからきいていないぞ」

 母も思わず笑った。

「そうよね。エニが魚好きなんて言ったことないわ。魚料理が苦手なくらいですもんね」

 それでもエニは太陽の様な笑顔を振る舞った。

「お兄ちゃんのため!」

 エニは小さな体からは想像もつかない大声を出した。例えるならば、身の丈に合わない大きな管楽器を思いっきり吹いてみた感じだ。父と母は目を丸くした後に優しい表情を見せた。僕も恐らく同じリアクションをしていただろう。

「お兄ちゃんのことが大好きなのね」

 母は純粋な気持ちを持ったエニに全面降伏していた。頭を撫でてもらったエニは弾ける様な笑顔でスキップをした。僕はその日のことを鮮明に覚えている。指先がじんわりと暖かくなる感覚だ。ちなみに僕は動物が好きで、よく妹に動物図鑑や魚図鑑を見せていた。恐らくその影響で魚のぬいぐるみを選んだのだろう。つい自分の好きなものを選びな。と言いたくなったが、喉元まで出た言葉をグッと飲み込んだ。楽しいショッピングは終わり、帰路での出来事だった。大きな魚を抱き抱えたエニは満足そうにノシノシと行進している。時折こっちをみて、はにかんでくれるのがあざとくて可愛い。ちゃんと前を見て歩きな。と言いそうになった瞬間、エニはその場にバタンと倒れ込んだ。最初は、前を見ていなかった不注意でつまずいたのだと思った。しかし数秒経っても起き上がる気配がなく、声すら上がらなかった。こんな表現をする僕はどうかと思うが、ねじ巻き式のおもちゃがピタッとそれまでの動きを止める感覚に似ていた。その数秒はわずか数秒だったに違いないが、体感としては数分にも感じた。僕よりも動揺していたのは両親だった。青ざめるとは名ばかりだと思っていたが、本当に人間は青くなる。血の気が引くという状態に陥る。母は咄嗟に救急隊を呼ぶ段取りを始めた。僕と父はただ呆然と、その光景を見ているだけだった。こういう時は女性の方がしっかりしている。男性の無力さを感じるシーンだった。ここからの記憶は非常に曖昧だが、母や後から来た救急隊員の指示通りに作業をこなしたことだけは覚えている。気がつけば大きな病院の待合室に両親と僕は並んで座っていた。

「まさかエニがこんなことになるなんて……」

 父は泣きながら、両手で目を覆った。

「まだ何も分からないじゃない。お医者さんの話を待ちましょう」

 こういうときに母は強い。流石だなと思う反面、冷静に対処できている母に少し恐怖を覚えた。僕の心臓の鼓動は待合室の先に伸びる廊下まで響きそうなくらい大きくなっていた。


 ──何時間経ったのだろう。寒さと未知の恐怖で震えが止まらない。看護師さんが気をつかって暖房器具を僕達の前に置いてくれた。

「ありがとうございます」

 母の声もさすがに震えていた。顔を見る余裕はなかったが、先ほどまでの強気な母の声では無かった。父は夜勤仕事から来る疲労感と今日のめまぐるしいできごとで、かなり疲弊している様子だった。父は街のインフラに関する仕事をしている。日勤と夜勤が順番に巡る生活を送っている為、目の下のクマはいつも真っ黒だ。時折ため息混じりの鳴き声を出している。これが一家の大黒柱なのかと思うと情けなくなった。僕だって今にも泣き出しそうだし、いつまで待てばいいのかわからない苛立ちを声に出したいくらいだった。それでも三人の辛抱が水の泡にならないように、ズボンと太ももを強く握って歯を食いしばった。

 廊下の奥から結果を知らせる足音が聞こえた。両親のボーッとした顔が一瞬で引き締まった。足音と共に大きなシルエットが近づいてきた。

「はじめまして、担当医のカールです」

 チリチリで栗色の髪の毛の男性に、不信感を抱いてしまったのが正直な感想だった。身長はかなり高く、座っている自分からすると天井に届くんじゃないかと思うくらいだった。

「母のヒルです。エニの容態は大丈夫なんでしょうか。」

 母は立ち上がり聞いた。恐らく全員が一番気になっていた内容だが、僕と父は聞く勇気すら湧かなかった。またしても母に軍配があがる。

「非常に危険な状態です」

 カール医師は母の目を真っ直ぐにみた。母は両手で口元を塞ぎ、声にならない声をあげた。よく見たら今にも涙がこぼれ落ちそうだ。目は真っ赤で涙が落ちないのが不思議なくらいだ。母は下を向いたまま手のひらで顔を隠してしまった。僕も自然と涙が溢れ出した。地獄とはまさにこのことで、『お兄ちゃんのため!』と言っていた天使の声が、全く届かない場所に僕達はいる。天使は何と闘っているのか。考えれば考えるほど、エニの笑顔を思い出して涙が止まらなくなる。

「……ですが、希望はあります。不確かなことは言えませんが私に賭けて下さい」

 カール医師の目には何か信念のようなものを感じた。恐らく医者である以上今までも何十回、何百回と同じような現場に立ち会ってきただろう。同じ言葉をかけて上手くいかなかったこともあるだろう。それでも僕は確かに感じた。薄っぺらい感情だけで語っているのではなく、目の奥に情熱のある人だと。両親もそれを感じ取ったのだろう。

「はい。お願いします」

 父親は立ち上がりそう言った。僕も同じ気持ちで立ち上がった。暫くの間緊張していた為、立ち上がる際の身体の重たさは異常で、目眩と吐き気が同時に襲ってきた。

「妹を、妹を宜しくお願いします!」

 人生でこれほど深く頭を下げたことはなかった。

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