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       雑魚戦闘員<中編>

「クソが……っぞ」

 ほとんど聞き取れないかすれ声でそう毒づく。

 そして、おもむろに何かを取り出した。

 不審者に組み付かれた時ですら変わらなかった彩夏店主の顔が、わずかに強張った。

「っ……!」

 従業員達の変化は、更に顕著だった。

 男が取り出したのは、濁った銀色のナイフだ。果物を切る、ちょっとした程度のものであるらしい。掌に収まりそうな程小さく、薄い。

 ――刃渡り六センチは……多分無いか。

 既に冷静な表情を取り戻した彩夏が、メガネの奥から刃渡りを目算していた。

 所詮は果物ナイフ……と言えど、人やネコを殺傷する分には充分過ぎる凶器だ。

 逆手に持った刃物を垂直に構えている。その直下では、罪の無い黒猫が、喉を鳴らして男の脛に居座っている。

 まさか、こんな直接的な手に出るとは。

 これまで、南郷組は、腐っても直接的に手をあげる真似はしなかった。

 彩夏も従業員達も、一度として屈服しなかった。そのせいで、いよいよ痺れを切らしたのだろうか。

 彩夏は、自分が刺される危険を忘れているのか、大股で踏み出した。

「彩夏さん!?」

 従業員の悲痛な叫びにも、頓着を見せず、

「お客様。恐れ入りますが」

 日頃、従業員達に向けているものと同じ、柔らかで落ち着いた声をかけた。

「ネコちゃんルームへの、刃物の持ち込みはご遠慮下さい」

 まさか、店主は、男の注意を自分へ引き付ける気か。

 従業員は、本当なら自分が飛び込んででも彼女を庇いたかったが……なまじそうすれば、当の彩夏が刺されかねない。ジレンマだ。動くに動けない。

 当の男は、ちらりと彩夏を見たが、

「……だ」

 ボソボソと呟いたと思うと、もう一つの手で、別の何を取り出した。

 それは、リンゴだ。

 丸々ひとつのリンゴを手に取ると、目線の高さに上げる。

 そして、

 逆手に持ったナイフを思いきりリンゴに突き刺した。何度も何度も、親の仇を刺すかのように。

 刃が果肉から抜ける度、果汁の粒が飛び散る。

 従業員達は息を飲んで後ずさり、

 ひすいは、少しだけ迷惑そうに首を巡らせ、

 そして彩夏は、動じた風も無く、男をただ静かに見据えたままだった。

 張り詰めていた細い肩が、ゆっくりと降りた。

 既に、この陰気そうな男から脅威を感じなくなったからだ。

 ――いつもの南郷組のやり方だったか。

 男は単に、自分の持ち物であるリンゴを滅多刺しにしているだけだから、傷害はおろか、器物損壊を訴えられる謂れもない。

 一方で、ぶつぶつ毒づきながら果物を滅多刺しにする姿は、他人の恐怖を煽るには充分な行為でもある。

 そのナイフの切っ先が、いつ自分やネコ達に向けられるか。それは、かの男にしかわからない。一〇〇パーセント刀傷沙汰の心配は無いと知っているのは、ナイフを持つ本人だけだ。

 法に触れず(触れたとしても言い逃れできる逃げ道を用意しつつ)彩夏達や同席した客に恐怖心を植え付けようとする。南郷組ならではの陰湿な手口だった。

 ――さて。

 完全にフラットな心を取り戻した彩夏は、哀れな実験動物を見通すような、冷たく透明な目つきになった。


 ――この男は一つミスを犯している。


 これまで法律の穴を潜り抜けて“こはく”に損害を与えてきた南郷組だったが、ついにボロを出したのかもしれない。そのボロを追求すれば、少なくともこの男を法的に糾弾する事は可能だろう。

それを宣言しようと、彩夏は息を吸って――。

 からん、からんと、入り口のドアが開いた。

 次の来客があったようだ。

 彩夏は、一応、ナイフ男から充分な距離をあけつつ、横目でフロントを見た。

 ……。

「……、……那美ちゃん。お客様の対応をして来て」

 固唾をのんで見守っていた那美が、びくりと肩を震わせた。こんな危ない奴から目を離して接客をしろ、だなんて。

 いや、客の対応をしろという事は、この部屋に通せという事であって……。

「お願い」

 毅然とした、彩夏店主の声。

 そして那美は、遅ればせながら、彩夏の視線を追ってフロントを見た。

「……、……、…………わかりました。普通に、お通ししますよ?」

 かなりの“溜め”を経て、那美が重い口を開いた。

「そうして」

 対する彩夏の答えは、淡白すぎる程だった。

「余計な予防線は張らなくていいから、速やかに通してあげて」

 そうも付け加えた。

 彩夏店主とは、色んな意味で運命共同体と言っても良い那美は、これ以上の疑問を差し挟まず。ただただ、彼女を信じるしかなかった。


 ほどなくして、次の客がネコルームに入ってきた。

 またも、男一人だった。先のナイフ男と同じで、若い。

 綺麗に切り揃えた黒髪に、ふっくらとした輪郭。服装も濃い緑色のパーカーに、ほつれ一つないジーンズ。素朴な外見という意味では、今もリンゴを滅多刺しにしているあの男と差は無い。

 ただ、口許に朝食の食べカスを付けたままだったり、服のあちこちにシミを付けていたり……やや不潔な印象は拭えない。服の色が濃い為に、遠目では目立たないのだが。

 だが少なくとも、ナイフを持つような男よりこちらの方が良心的な顔立ちはしていた。

 そして彼は、何度か“こはく”に来店している。常連とまでは言わなくとも、一見の客でも無かった。

 接客業として、細かな事で邪険にする余地は無い。

「……いらっしゃいませ、望田(もちだ)様」

 従順な侍女のように、彩夏店主は望田というその客を迎え入れた。

 一方の望田は、入室したその瞬間から面差しを凍りつかせた。

「な、な……」

 その真面目そうな目つきは、一心不乱にリンゴを刺す男に釘付けとなっていた。

 そして、

「ぁ……?」

 それまで、ネコに対しても彩夏達に対しても無関心そのものであったナイフ男が、望田を認めるや露骨に睨みを利かせた。

「……ンか文句あんのかよ」

 相変わらずボソボソとした小声だが、腹の底から憎しみを捻り出したかのようなドスを、声音に含ませていた。

 同時に、嫌な気配を感じたのか、ひすいが掌を返したようにナイフ男から離れ、部屋の隅へと逃げ去った。

 その様子に、彩夏店主は若干の安堵を見せた。

「何とか言えよコラ」

 安っぽいチンピラそのものの口上で、ナイフ男は望田に絡み出した。従業員達は、オロオロと成り行きを見守るしか出来ない。

 ただ彩夏だけが、冷然と立っていた。

「な、な……そんな、僕はただ、お客としてきただけ、で」

「客ぅ? オレもそうだっての。金払ってここに居んだよクソが」

「いや、別に、僕は、そんな、ケンカ売るつもりとか、ないし」

 ナイフ男が、ひときわ強く、リンゴを串刺しにした。

「ケンカ売るとかって言葉が出る時点で、何か腹に持ってんじゃねえの? あァ?」

 ナイフの刃を舐めて凄む様は、ほとんど漫画やドラマの登場人物を演じているようですらあった。

「大体さぁ、オレ、お前みたいなきたねー身なりの奴が嫌いなわけ。朝飯はカレーか? あちこちに食いカスつけやがって」

「か、か、関係ないよ!」

 彩夏店主は、二人のやり取りをただ、黙って見守るのみ。

 口を挟む事はないが……どこか、二人の客を観察しているようでもある。

「オレ、綺麗好きなんだよねー。汚いモノを見ると、例外なく消毒したくなっちゃって、さ!」

 今や蜜でベトベトになったリンゴを、男はこれ見よがしに深々と刺し貫く。消毒、というワードの言外に含んでいる意味は、察するまでもないだろう。

「どういう事なんだ店長! 警察呼んでくれよ!」

 水を向けられた彩夏店主は、望田に、冷静そのものの目を向けた。

 メガネの奥から、切れ長だけど鋭すぎもしない、理想的な形の目が向けられた。

 その瞳は、闇そのもののように黒い。

 日本人の目の虹彩はこげ茶色が大半だが……この女店主の瞳は、茶色の色素が少ないのかもしれない。

 それが望田の焦燥を、更にかきたてたのかもしれなかった。

「ナイフ持ってる人にこんな事言われて、ゆっくり居られないよ!」

「恐れ入りますが」

 彩夏が、綺麗にカットされた宝石のような――滑らかで、淀みなく、そして冷たい――声で告げる。

「当店に御不満がありましたら、お引き取り下さい。代金は返却致します」

 そう、ナイフ男に怯える客に対して、言い放ったのだ。

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