やり直しボタン
その日もいつも通りの会社勤めを終え線路脇の帰路をとぼとぼと歩いていた。色々な人が自分の周りを通り過ぎて行く。こちらに注意を向ける人はいない。何でもないいつもの事だ。しかし、最近そんな事に嫌気が差していた。何もない事が気に入らないのだ。趣味なり旅行なりすれば良いと思うかも知れないがこれといって熱中できるものが無いのである。毎日が同じ。量産される日々。まるで自分の日常が自動化されたみたいに決まったセオリーに従って生きていく毎日。朝、早く起きて出勤し会社に着くとそこそこのエネルギーで働く。昼になると昼食を食べ、また作業に戻る。定時を少し過ぎてから帰る。これの繰り返し。人生に目標があればまだ楽しく生きていけるのだろうがそれも無い。思えば自分には何も無いのである。ナニモナイ。その言葉に胸を押さえつけられた気がした。同時に吐きそうになる。
「オェ…」
吐きはしないが吐き気が酷い。しばらく前かがみになっていた。
「こんにちは」
上から声がした。
顔を上げると胡散臭そうな男が立っていた。黒い服にてっぺんの尖った黒い帽子をかぶっており全身黒ずくめである。服はカトリックの神父を思わせる。
「…宗教勧誘は間に合ってます。」
必然的に思い付いた一言だった。
「ハッハッハ、私は宗教勧誘などではありませぬ。」
…何でもいいから離れて欲しい。胡散臭さ全開のヤツがそばに居るだけで迷惑だ。
「貴方様のお名前は何と?」
名前…田中裕介だがここは偽名で良いだろう。
「サトウダイキだ。」
「ホッホッホそうですか。見たところ、貴方つまらなそうですね。」
「ほっとけ、関係ないだろ。」
そう言って男の前から立ち去ろうとした。
「ところで、良い商談があるのですがどうでしょう?聞いてみませんか?」
男は何やら裏の有りそうな事を言った。
胡散臭そうなヤツの商談はいつも裏があると相場が決まっている。
「そんな裏が見え見えの商談誰が受けるってんだ。」
強気に出た。
しかし男は言われ慣れているのか構わず話を続けた。
「裏なんて滅相もない。ただ人生に疲れた方にある提案をさせて頂いている次第でして。」
「提案?」
「そう、提案でございます。こちらに人生をやり直せるボタンがございます。私は人生に疲れた方を見つけるとこのボタン差し上げているのです。」
人生をやり直す?ボタン一つで?
「何を言ってるんだ。ボタン一つで人生やり直せたら誰も苦労しねーよ。勧誘じゃなく詐欺だったか。もうどっちでも良い、俺は帰る。付いてくるなよ。」
そこまで一息で言うと俺は後ろを向いた。
「良いのですか?」
なおも男が後ろから声を掛けてくる。誰が振り向くか。
「では必要になった時この路地にいらして下さい。いつでもお待ちしております田中様…」
こんな胡散臭い話なんて明日には忘れてる。気にするな。俺は自分にそう言い聞かせた。
そういえばあの男、偽名を名乗ったはずなのに俺の名前を呼んでいた気が…
男に確認しようと後ろを見るともうそこに男の姿は無かった。
金曜日
その日もいつも通り仕事を終え駅のホームで電車が来るのを待っていた。電車で移動するのは3駅。そこから15分ほど歩けば家である。
次の電車が来るまで5分ほどあった。
「はぁ。帰ってもやることないな…」
だらだらテレビを観て時間を潰すだけだ。最悪な事に最近では唯一の暇つぶしであるテレビさえ飽きてきたのだ。
電車が来るまで残り3分。ホームで警告がなる。
「ホント、何のために生きてんだろうな俺。」
思わず呟いた。いや、もう口癖になっていたのかも知れない。
電車が来るまで残り1分。電車がホームに入ってくる。
俺…生きてる必要あんのかな…。
ふとそう思った時足が自然と前に動いた。
同時に後から強く引っ張られるのを感じた。
そのまま俺はバランスを崩し尻もちをついた。
電車の先頭車両が目の前を通り過ぎる。
後ろを見ると若い新卒のような会社員が泣きそうな顔でこちらを見ていた。
「す、すみません!あなたがホームから落ちそうになっているように見えたので!」
どうやら俺を引っ張ったのはこいつらしい。
そうか…俺は今飛び降りかけたのか。
俺は立ち上がるとその若い会社員にお礼を言った。
「何もなくて良かったです…具合でも悪いんですか?」
「いや、少し気が抜けていただけだ。気を使わせてすまなかったな。」
その後電車に乗り目的の駅で降りた。
駅から出ると辺りは真っ暗だった。電灯がぽつりぽつりと道に沿って心細く光っているのが見える。
「まるであの時の夜みたいだ。」
思った事がふと口に出ていた。
「おや?どの夜でしょうか?」
後からとぼけたような声が聞こえた。
声を掛けられるまで全く気配を感じなかった。
人生で初めて心臓が止まる思いがした。
「また、あなたですか。心臓止まるかと思いましたよ。」
「ホッホッホ。それは何より。」
何が何よりだ。バカにしてんのか。
「いい加減しつこいですね。警察呼びますよ」
「貴方、駅で飛び降りようとしましたね?」
何故それを…まさかあの若い新卒はこいつだったのか?
「俺を止めた若い新卒…お前か?」
「何をおっしゃいます、こんな老いぼれにあんな若くて凛々しい格好など出来ませぬ」
新卒の事も知ってんのかよ。この爺さんなんだ?千里眼でも持っているのか?
「飛び降りなぞしようとしてないぞ」
「フホホホ。嘘ですなぁ、分かりますぞ。何しろ私は千里眼を持っている身、しかと飛び降りかけたのを見ましたぞ」
千里眼持ってんのかい!いや、信じるのはまだ早い。監視カメラに侵入出来る凄腕のハッカーの可能性だってある。出来たらある意味千里眼ではあるが。
「そんなの信じられるわけ無いだろう。」
「別に千里眼について信用などしなくても良いのです。今重要なのはそこではありませぬ。」
「?」
「貴方が飛び降りようとしたという事はそろそろこれ、必要でしょう?」
そういってスイッチをポケットから取り出した。白い箱に赤いボタンが付いた形で分かりやすい。
「だから、いらねぇって言ってんだろ!」
いい加減しつこすぎるので言葉が荒くなった。
「本当にそうでしょうか。私にはこんな人生閉じてしまいたい、そう思っているように見えるのですが」
「お前が俺の何を知ってるって言うんだ!」
「いえ、私はほとんど貴方の事は知りません。しかし貴方の心が疲れているのは分かります。」
知ったような事を…!人生をやり直す?簡単にそんな事が出来てたまるか!しかし気になるのも事実である。いっその事こいつの口車に乗せられてやってもいい。ボタンを押せばコイツも引くだろう。嘘なら警察に通報すれば良い。
「分かった。そのボタンを押そう」
「ほう。それでこそですぞ。ではこちらをどうぞ」
そう言って男はボタンを差し出してきた。本当にこれがリセットボタンなら自分はどのようにリセットされるのだろう。一度死ぬのだろうか。
様々な考えが頭を巡る。
この世に未練などない。むしろ今の人生に終止符を打ってくれるのなら願ってもない事だ。
そう思ってボタンに手をのばした。
カチッ
軽い音と共にボタンの押される音がした。
「…」
10秒程たっても何も起こらなかった。
「おい、何も起きな…」
その言葉を最後まで言うことは無く、変化は突然現れた。
体が浮くような感覚がしたかと思えば自分が急速に上昇しているのが分かった。下に自分が倒れているのが見える。なるほど、これが魂の状態なのか…そう思った。意識が薄れていくのを感じる。まさかあのボタン、本物だったとはな…人生変わったこともあるもんだ…
私は田中裕介の魂の抜けた肉体の横で笑っていた。他人から見ると不気味な笑顔だろう。
「ふぅ。未来の労働力がまた一人増えて気分がいい。無駄に魂を捨てられては困るのでな。」
歩いている途中に倒れたように田中の体を動かす。
医師が検死したところで心臓発作と判定されるでしょう。
「さて、仕事も終わった事ですし帰りますかなぁ。今日は美味しいビールが飲めそうです。」
男の足取りは軽かった。
とある産婦人科。その分娩室では一人の人間が生まれようとしていた。
ここは…どこだ?俺は魂になって何処かへ向かって行ったはず。
だんだんと意識が戻ってくるにつれ謎の圧迫感を感じる。
突如、強く掴まれる様な痛みを感じた。いてぇ
掴まれたまま引っ張られている感覚に襲われる。しばらくして圧迫感から解放されたと思ったら強い光に照らされた。依然掴まれたままで痛い。痛いっての!
「ぅぅう、ォギャー!」
は?目が開かないので周りが確認できない。どうなってる?声が…言葉が出ない…!
「ギャー、ギャー!」
俺はこんなこと望んでねぇ!
俺?あれ…俺の名前は…?
俺…俺ってなんだ?あれ、思い出せない…思う?
思うってなんだ?
お、も、う?…お、も…
分娩室では赤子がけたましく産声を上げている。
「元気なお子さんが産まれましたよ。どうぞ抱いてあげてください。」
助産師が親へ赤子を渡した。
相変わらず赤子は泣き声を上げていた。
こんにちは、imomoです。読んで頂いてありがとうございます。今回の物語はどうだったでしょうか。内容が伝わってくれると幸いです。今回は変わった話が出来たのかなと思います。変な話好きなので(笑)これからもっと色んな話を書いてみたいと思うのでよろしくお願いします(`・ω・´)ゞ。