小さな孤独にウィンクを―大樹の龍と少女の物語―
「おい、私の背中から降りろ。人間の子ども」
「いやだ。ここはすべすべして気持ちいい」
「……いい加減にしないと、食ってしまうぞ」
「ドラゴンは人の肉を好まない。本で読んだ」
「ほう、博識だな。だが、食えないわけではない」
「ふむ、たしかに」
「……納得してくれたところで、いい加減、降りてくれないか」
「いやだ」
「……」
頑として私の背から離れようとしない人間の少女に、私は何百年振りか、途方に暮れていた。
私はドラゴンである。
中でも上位種のケツァルコアトルと呼ばれる種族だ。
その巨躯と深緑の鱗から、〈大樹の龍〉と称されることもある。
私の姿を見て、恐れおののかない者などそうはいない。
しかし、この人間の少女は例外だったようだ。
ドラゴンである私と意思疎通を成せている時点で、少女が只者ではないと分かる。
世界広しと言えど、ドラゴンと言葉を交わせる人間などごく僅かだろう。
だが、叡智を備えた賢者がそうであるように、魔力の源であるマナを備えている様子でもなく、私と会話できることを除けば、至って普通の少女である。
「そもそも、お前は私が怖くないのか?」
「怖くない。だって、普通にわたしと喋ってくれる」
「普通に喋ってくれる? 何だそれは。人間の方が普通に話しやすいだろう」
「ううん。皆、わたしのことを嘘つきって言う。相手にしてくれない」
「なぜ」
「人間じゃない生き物と話せるから」
「……なるほどな」
私は前世が人間だった。
そのため、人間に対して中途半端な理解力がある。
人間の群れというのは迫害がつきものだ。
動物や魔物と話ができる、などと言う者が内部にいれば、皆変人扱いして除け者にするだろう。
「……今からでも遅くない。他の生き物と会話はできない、と言って、話せない振りをしろ」
「だめ。隠しごとをしたり、嘘をついたら、神様に嫌われて地獄に落ちる。お母さんが言ってた」
「何だそれは。宗教か」
「しゅうきょう? 何それ?」
「人間が神に祈ったりすることだ」
「あなたは祈らないの?」
「ああ。私はドラゴンだからな」
「ふうん」
少女は不思議そうに私を見上げた。
私はため息をつくと、虚空に目をこらした。
ここはとある森の中。
目の前には美しい泉があった。
ぽっかりと穴が開いたような泉に、朝露に濡れた木々の間から陽が差している。
最近、私はよくこの場所に来る。
理由はただひとつ。
ここは極楽鳥が現れる格好の狩り場なのだ。
極楽鳥とは大気を流れるマナの気流の狭間に現れる、希少な鳥だ。
身体の中に豊富なマナを蓄え、十匹も食せば、私が数百年分活動するだけのマナを摂取することができる。
しかし、普段はマナの気流に紛れており、現世に姿を現わすのは気流を渡る、わずかな間だけだ。
私はいくつものマナの気流が重なり合うこの場所を見つけ、ここ数日ですでに三匹の極楽鳥を捕らえている。
今もこうして虚空に目をこらし、極楽鳥の出現を待ち受けているのだ。
しかし、そんな時にこの少女が現れた。
どうせすぐに逃げ去るだろうと思って放っておいたのだが、あろうことか、この少女は私の背によじ登ってきたのだ。
しかもそれだけでは飽き足らず、私と言葉を交わし、反抗的な態度すら見せている。
殺してしまってもよかったのだが、悲しきかな、前世が人間だったせいか、私はこの少女に同情してしまっているのだ。
少女は見るからに薄汚れた服を着ていて、みすぼらしい。
手脚には痣があり、お世辞にも境遇が良いとは言えそうにない子どもだ。
それに会話をしてしまっては、尚更、命を奪うのがためらわれる。
殺すには時期を逸してしまった。
もっと早くにやっておくべきだったか、と後悔していると、少女があっと声をあげた。
「大変。もう日があんなに高く昇ってる。早く釣鐘草を摘んで帰らないとお母さんに叱られる」
驚くほどあっけなく、少女は私の背から降りると、釣鐘草が生えている場所へ走って行った。
少女は小さな手で一本一本、時間をかけて釣鐘草を摘み取っていった。
「あなたのお母さんはどこにいるの?」
しかし、私との会話を止める気は無いようだ。
答える義理も無いが、答えぬ理由もない。
私はため息をつきながら、奇妙な少女との会話につきあうことにした。
「さあな。ドラゴンは子育てをしない。ゆえに見たことも、会ったこともない。会ったとしても、お互いに親子だとは分からんだろうな」
「……それは寂しいこと?」
「……どういう意味だ。別に寂しくも何とも無いが」
「ふうん。おかしな生き物」
「人間もおかしな生き物だろう。家族や群れを形成しなければ生きていけない、煩わしい生き物だ」
「……それはそうかも」
そう言って、少女は摘み取る手を止め、しばらく押し黙った。
やっと静かになったか、と私が安堵したのもつかの間、少女は再び口を開く。
「ねえ、ドラゴンは時間を止めたりはできないの? 釣鐘草を摘み取るまで、ちょっと時間を止めてもらいたい」
「何だそれは。できるわけないだろう。そんなに母親に叱られるのが嫌なのか」
「叱られるのは良いけど、おじさんはわたしのこと、ぶつから……」
「おじさんとは誰だ。父親とは違うのか」
「おじさんはおじさん。お父さんはもう死んじゃった」
今度は私の方が押し黙った。
人間だった頃の感覚なのか、身内の不幸を聞かされて、少々気まずい思いがする。
しかも、複雑な家族構成の一端を聞かされ、余計な詮索をしてしまったと後悔した。
私は再びため息をつくと、翼に微量の魔力をこめた。
そうして少女の目の前に生えた釣鐘草に向けて真空波を放った。
適度な範囲の釣鐘草を根こそぎ刈り取る。
少し刈りすぎてしまったような気もするが、これだけあれば十分だろう。
少女は呆気にとられたように、立ち尽くしていた。
「……これ、もらっても良いの?」
「構わん。早く籠に詰めろ」
「……ありがとう」
少女は急いで釣鐘草を籠に詰めた。
詰め終わると、少女は元来た道を小走りに駆けていく。
しかし、途中で足を止めると、こちらを振り返って言った。
「釣鐘草、使う?」
「なぜそんなことを聞く?」
「だって、あなたの目、怪我してる」
私の潰れた左目を指さして、少女は言った。
私の左目は光を失っている。
目の形こそ保っているが、眼球は白く濁り、使い物にならない。
釣鐘草はマナの濃度が濃い、森の奥に生えている貴重な薬草だ。
あらゆる傷を治し、痛みを和らげる効果があるといわれる。
私は目を細めた。
そういえば、人間は気まぐれに他者を思いやる生き物だったな。
懐かしさを覚えながら、私は言った。
「これは生まれつきだ。気にするな」
「……そう」
少女は籠の中身を見つめ、しばし黙った。
その後、顔を上げて言った。
「そういえば、名前は?」
「私か? 私は……ケツァルコアトルというドラゴンだ」
「ケチャ……噛みそうな名前。それがあなたの名前?」
「いや。名前では無く、種族だ」
「種族? それじゃ、名前は無いの?」
「無い。我々は別の手段で個を認識する。人間のように、名前など必要ない」
「でも、わたしは人間。あなたのこと、何と呼べばいいの?」
「呼んでもらう必要は無い」
「あなたには必要なくても、わたしには必要」
少し考え込んだように少女は俯くと、ぱっと顔をあげた。
「それじゃあ、私が名前をつけてあげる」
「おい、勝手に……」
「あなたの名前は……ノッポ。……ノッポよ! 良い名前でしょ?」
「何だそれは。格好悪いぞ。」
「ひどい。わたしのお父さんの名前なのに」
「何」
再び気まずくなり、私は押し黙る。
少女はじっと私を見つめてくる。
期待に満ちたまなざしだ。
私は諦めたように言った。
「もういい。好きに呼べ」
「うん! じゃあね、今日はありがとう。ノッポ!」
少女は初めて笑顔を見せると、木立の間へ駆け足で消えていった。
私は目を細め、その後ろ姿を見送った。
できれば二度と来ないでくれ、と祈りながら。
しかし次の日も少女は現れた。
次の、そのまた次の日も、少女は現れた。
そして私は少女のとりとめのない好奇心に付き合わされた。
「ノッポはどこからやって来たの?」
「ノッポは何歳まで生きるの?」
「ノッポはいつまでここにいるの?」
内心ため息をつきながら、私は少女に返答しつつ、狩りをする日々が続いた。
しかしあくる日、少女がいつもの時間に現れなかった。
今日は静かに狩りができる、と思った。
一方で、少女のことがひどく気にかかった。
そのせいで、狩りに集中することができない。
極楽鳥の出現は一瞬だ。
マナの気流の狭間を見定めるのにも、相当の集中力が必要となってくる。
「……」
私はしびれを切らすと、いつも少女がやって来る方向に歩を進めた。
少し進むと淀んだ魔力の気配を感じた。
同時に霧のようなものが立ちこめ、たちまち視界が遮られる。
人影のようなものがそこかしこに現れ、甘い匂いも立ちこめてくる。
……幻惑魔法か。
獲物を惑わし、誘い込んだところを狩りとる。
そんな魔物がよく使う魔法だ。
私は深く息を吸い込む。
そして、大きく咆哮した。
――〈龍の咆哮〉。
敵意を持った生き物を脅かす強力な威嚇である。
また、危害を加えんとする魔法を退ける解除魔法でもある
たちまち霧が晴れ、幻惑が消えていく。
ガサガサと周囲で気味の悪い足音が聞こえた。
ここらに縄張りを持つツチグモたちだろう。
私の咆哮に恐れ、群れをなして逃げているらしい。
「ギュアアアア!!!」
その中、ひときわ大きなクモが、果敢にも一匹で襲いかかってきた。
親玉のクモなのだろう。
自らの巣を守るために、命を張っているのだ。
私が縄張りを持たずにふらふらと生きているせいだろうか。
その心意気には頭が下がる。
私はクモの一噛みを肩に受け、立ち止まった。
ツチグモの牙から放たれる毒は強力だ。
だが、牙が皮膚を貫けなければ、毒も無意味に等しい。
しかし、仮に私が皮膚を貫かれ、毒を喰らったとしても、無意味であることに変わりはない。
何故なら、ドラゴンの体液にはもとより、強力な解毒作用があるのだから。
私はクモを引き裂いた。
躊躇うことなく、爪を振るう。
クモの叫びが森の中へこだまする。
助太刀に来るものはいない。
痙攣するクモの死体を一瞥してから、私は再び歩き始めた。
しばらくして、巣の中心へ到達する。
そこで私は大きくため息をついた。
張り巡らされたクモの糸には大小様々な生き物が捕われている。
その中に気を失った少女がいた。
「……んん……」
泉の傍ら。
しばらくして、少女は目を覚ました。
「……あれ? ……ノッポ……?」
「……起きたか。お前は死にかけたのだぞ。覚えているか?」
「……たしか、霧の中で、わたし……」
少女は身を起こして、言った。
「……何で?」
「それはこっちのセリフだ」
私は何故か苛立ちながら、少女に言った。
「ここはただの森ではない。マナの気流が折り重なり、応じて魔力が沈殿しやすい場所だ。その分魔物も凶悪で、危険になる。分かっているのか?」
「大丈夫。動物たちに聞いて、できるだけ安全な道を通ってくるから」
「違う。そういう事では無い。いくら安全な道を通るからといって、ここが危険な場所であることに変わりないのだ。今日のようなことは十分、起こり得る」
私は威嚇するように唸った。
「そこまでして、何故、毎日ここへ来るのだ」
少女は少し俯き、答えた。
「……釣鐘草がたくさん必要なの。痛みがとれるから」
「痛みをとる? お前の怪我のか?」
「わたしも使うけど……お母さんに必要……もうすぐ、赤ちゃんが生まれるから」
「何」
私は黙ってしまう。
少女の身の上を考えれば、母と〈おじさん〉の子なのだろう。
その赤子が少女にとって、どんな意味を持つのか。
あまり考えたくは無い。
私は首を振って、続けた。
「それにしてもだ。何度もここに来るのは、賢い判断とは言えない。死ぬのかもしれんのだぞ? 怖くないのか?」
「死んでもいい。怖くない」
「何」
「今のお母さんに、私は邪魔だから」
少女は淀みなく答えた。
私は察してしまう。
この少女はただでさえ、家庭に居場所がない。
そして赤子の誕生によって、完全に行き場を無くてしまうのだ。
ふと、先ほどの少女の言葉が脳裏に蘇った。
「何で?」
あの問いかけは
「何で助けたの?」
という意味だったのかもしれない。
私はしばらく黙ったまま、少女を見つめた。
少女はわずかに眉をひそめている。
「……何か、口のまわりがべとべとする」
「……ああ。それは私の唾液だ」
「……え!?」
「ツチグモの毒は強力だからな。仕方なかった」
「……あ。解毒作用……でも、何でくち……?」
「博識だな。ついでに覚えておけ。ドラゴンの体液の持つ解毒作用は、粘膜に触れさせることで、より効果的に発揮する。即効性もある」
「……そう。ありがとう」
少女は頭を下げて言った。
しかし、その言葉は命が助かったことに対する感謝というよりも、私の厚意に対しての感謝なのだろう。
私はため息をつき、言った。
「お前は、もう少し生きることに貪欲になるべきだ」
「何で」
「……それは」
私は言葉に詰まる。
少女は不思議そうに私を見る。
私は言葉を探した。
「たとえば、お前の祈る神は、死ぬことを勧めているのか? 懸命に生きることが大事だと、そんなことを言ってはいないのか」
「……誰かのために生きて、死んでいけば、神様が天国に連れて行ってくれる。お母さんが言っていた」
私は再びため息をつく。
少女は敬虔なのでは無い。
神にではなく、母に対して従順なのだ。
母のためなら、自らの不幸や死をも厭わない。
いや、自らの不幸や死を肯定するために、ひたすら母を想うしかないのか。
いずれにしろ、少女の考えを曲げさせるのは、不可能に近いだろう。
こうなってしまってはもう、好きなようにさせるしかない。
しかし、私は何故か、諦めきれないでいた。
「……私は、少し人間の事情に詳しい。お前とは境遇が少し違うが、同じように自ら死を望み、死んでいった人間の話を聞かせてやろう」
私が話し始めると、少女はじっと耳を傾けた。
これはとある人間の少年の話だ。
狭い集団生活の中で生き、そして死んでいった少年のな。
少年は生まれつき片目が見えなかった。
片目に黒い瞳は無く、白く濁っていた。
それ以外は普通の少年だった。
しかし、些細なことであっても、人間にとって不足があることは致命的だ。
集団生活の中で、少年は人と違っている、劣っている、ということで虐げられた。
同年代の者からはもちろん、周囲の大人からも。
集団で無視。嘲笑、陰口、罵倒。それから暴力。
自然と、少年は口数が少なくなった。
お前くらいのころには、誰とも、一言も喋らない日もあったそうだ。
心安まるのは、一人で絵を描いている時ぐらいだった。
「その子に、家族はいなかったの?」
……いた。
だが、少年の家族も、少年を腫れ物扱いしていた。
父も母も、家財を、血筋を誇り、何事においても完璧を求めた。
当然、子どもにもそれを求めた。
少年には弟がいたが、弟の方は何の障害もなく、すくすくと育っていた。
両親はあからさまに弟をひいきし、少年は孤独を強めていった。
弟も兄を蔑み、言葉を交わすことさえ厭った。
両親も、弟も、少年が周囲から虐げられていた事実を知っていたが、見て見ぬ振りをしていた。
さも虐げられて当然かのような、そんな態度をとっていた。
「……その子には、話をできる相手がいなかったの?」
ああ、ほとんどな。
しかし、少年にもたった一人だけ、心を開いて話せる相手がいた。
無性に誰かに話を聞いてもらいたいとき。
誰かの話に、静かに耳を傾けていたいとき。
少年は街外れの土手に行った。
そこに、話し相手はいたのだ。
「どて?」
……そうだな、わかりやすく言えば、この泉よりも大きな、水の流れがある河のそば。
河を見渡せる、丘のような場所のことだ。
河辺には水草が生え、夕暮れ時は本当に綺麗だった。
赤い夕日が水面に反射して、水草も光り輝いて見えた。
よくあの場所に絵を描きに行ったものだ。
そこにホームレス……つまり、家を持たない人間がいたのだ。
歳老いた人間だった。
着ている服はぼろで、歯も抜け落ち、髭も生やし放題。
体臭も、お世辞にも良い匂いとは言えなかった。
怪人のような見た目で、ドワーフなどと呼ばれていた。
ドワーフから初めて話しかけられたとき、少年も怯えて逃げ出したぐらいだ。
「……でも、仲良くなった」
ああ、そうだ。
きっかけは……最悪だったな。
少年は同い年の人間や、年上の人間達に連れられ、土手で殴られていたんだ。
理由もなく、ただの憂さ晴らしのために。
そのとき、少年は持っていたバッグを奪われてしまった。
中には大切にしていたスケッチブック、つまり絵を描いた紙が入っていた。
普段から少年はそのスケッチブックだけは奪われまいとしていたのだが、その日は運が悪かった。
虐めていた人間達はバッグからスケッチブックを取りだし、少年の目の前で破り捨てようとした。
だがその時、ドワーフが彼らに躍りかかった。
ドワーフがスケッチブックを奪い取ると、人間達の怒りの矛先はドワーフへ移った。
人間達はひたすらドワーフを殴り、蹴り続けた。
しかし、ドワーフはうつ伏せのまま、頑としてスケッチブックを離さなかった。
やがて興味を無くした人間達がその場を離れると、傷だらけのドワーフは少年にスケッチブックを返してやった。
それから少年はドワーフを恐れることはなくなった。
少しずつ、話もするようになった。
ある日、少年は自分の片目が見えないことをドワーフに打ち明けた。
そのせいで、周囲から虐げられていることも。
おそらく少年が話す前から、ドワーフはそのことに感づいていたと思う。
しかし、そんな少年に対して、ドワーフは片目をつぶって見せ、こう言ったのだ。
片目が見えないのがどうした。
こうして笑えば、皆、一緒だろう。
と。
少年は嬉しくなった。
ドワーフになら、何でも話せると思った。
それだけじゃない。
ドワーフは少年の描く絵も褒めてくれた。
最初に声をかけたときも、ドワーフは少年の絵を見たかったらしい。
熱心に、土手の絵を描く少年のことが気になったのだろう。
ドワーフは土手の景色が好きだった。
そして、少年の描く土手も好きだった。
少年は生まれて初めて、心から話せる相手に巡り会えた。
土手とドワーフの存在が、少年にとって生きるよすがとなった。
「……その子の気持ち……ちょっと、分かる」
それから長いこと、少年は土手に通いつめた。
もっぱらドワーフと話し、ドワーフに絵を描いて見せるためだった。
ドワーフは少年に絵を見せてもらうお返しに、色んな話をしてくれた。
ドワーフは話が上手かった。
少年の知らないはるか大昔の話や、遠い異国の話、時にはドワーフが考えたお伽話もしてくれた。
ただ、自分の過去については、何も語らなかったな。
……もしかしたら、語ってくれた話のすべてが、ドワーフの過去の一部だったのかもしれない。
しかし、そんな日々もあっけなく終わりが来た。
土手が無くなることになったのだ。
大規模なゴルフ場が建てられるらしい。
土手に仮家を建てて住んでいたドワーフは立ち退きを命じられた。
それを聞いた少年は怒りに身をやつした。
なぜ、ドワーフが立ち退かなければならないのだと。
なぜ、心ない周囲の人間たちのために、自分たちの土手がなくならなければならないのだと。
行き場のない怒りをドワーフにぶつけるだけぶつけると、最後に少年は大声を上げて泣いた。
少年はどうしようもないことなのだと、心のどこかで思っていたのだ。
人よりも何か足りない人間は、いつかは、足りている人間からの搾取に甘んじなければならないと。
少年を襲ったのは、無力感だった。
しかし、その感情は生まれてから何度も味わっていたはずだった。
何故かその日だけは、少年の心に深い傷を負わせたのだ。
少年は分からなかった。
普段であれば諦め、心を麻痺させて、通り過ぎていくはずの感情が、なぜ、こんなにも悔しくて、悲しいのか、分からなかったのだ。
別れの日、ドワーフは泣きはらした少年に言葉をかけた。
しかし、それがどんな言葉だったか、もう覚えていない。
何とか思い出そうとしたこともあるが、結局未だに思い出せない。
ただ、どうしようもなく悔しくて、悲しくて、仕方なかった。
悲しいことに、その感情ばかりが記憶に残っている。
それから三ヶ月ぐらい経って、少年は街中でぼろ切れのように倒れ、息絶えているドワーフを見かけた。
土手も開発が進み、美しかった草地もなくなった。
あれほど好きだった絵も描けなくなった。
生きるよすがを失った少年は、河に身を投げ、自ら命を絶った。
身を投げた場所は、ドワーフと過ごした土手の河だった。
大好きだった、夕暮れ時の時間だった。
そこには少年の生きたすべてがあった。
死後、少年は幸か不幸か、自ら望む世界への転生が許されることになる。
だから、私は望んだのだ。
一人でも生きていける世界を。
他者に揺るがされることのない強さを。
そして、気がつくと、私は……。
ハッとして私は目を見張った。
つい、夢中で話し込んでしまったようだ。
いつしか、傍らの少女は私の足に頭をもたれかけさせ、寝息を立てている。
ひとつ息を吐いた。
……随分昔のことを、思い出してしまった。
胸の奥底が、何かに締め付けられるような、奇妙な感覚に身をやつしながら、私は頭を振った。
私は少女を抱え、ゆっくりと釣鐘草の草地に横たえた。
そして、普段は閉じている翼を広げた。
同時に体内に溜めたマナを反芻する。
ドラゴンは普段、魔嚢という器官にマナを溜め込んでいる。
蓄えられたマナを反芻することで全身にマナを供給し、身体強化と魔力行使を行う。
反芻する際、ごく稀に周囲にマナの光玉が溢れ出すことがある。
多量のマナを反芻する時に起き易く、俗に〈龍の涙〉と呼ばれる現象だ。
私の〈涙〉は緑色の光玉だ。
周囲が深緑の輝きで満ち、身体にマナが馴染んでいく。
極楽鳥を摂取したおかげか、マナはたっぷりと蓄えられている。
マナを十分に行き渡らせると、私は少女の周囲に高度な障壁魔法を施した。
また魔物に連れ去られては敵わん。
そして少女を起こさぬよう、最小限に羽音を抑えつつ、ゆっくりと上空へ舞い上がった。
当然だが、そこかしこに魔物の気配を感じる。
それらの質と数を吟味しつつ、私は身構えた。
運動がてら、周囲の魔物を掃除しておくか。
少女がいつここに来ても、襲われるようなことがないように。
程なくして、少女に弟ができたらしい。
母と〈おじさん〉の子だ。
それでも、少女は懲りもせず釣鐘草を摘みに着た。
話し相手が欲しいのだろうが、何故、私なのか。
ある日、私は問うた。
すると少女は答えた。
「ノッポが一番、話を聞いてくれるから」
人間並みか、それ以上の知能を備えている魔族は、数少ない。
ドラゴンであっても、高位種でなければ、高い知能は備えていない。
少女にとって、対等に話せる相手は私ぐらいしかいないのだろう。
仕方なく、私は少女の喋り相手として付き合うことにした。
少女は少しずつ、自分の話や、村の話をするようになった。
病で死んでしまった父や、今の家族のこと。
村の慣習や考え方、人々の暮らし、人間関係。
動植物たちとどんな会話をしているか、など興味深い内容だった。
少女は身の回りのことをよく観察していた。
そして私は少女の話にじっと耳を傾けた。
人間だった頃の懐かしさや、真新しさゆえに、聞き入ることも少なくなかった。
しかし、そんな日々もあっけなく終わりを告げるものだ。
かつて、私がドワーフと過ごしたときのように。
その日、少女はいつもより早く、泉に現れた。
少女は表情の変化に乏しい。
しかし、何故かその日の表情は普段と違ってみえた。
毎日、少女は籠をぶら下げながら、小走りで駆けてきた。
しかし、今日は籠を持っていない。
小走りでもない。
ゆっくりと歩いてやってくる。
少女は私の隣まで来ると、その場に座った。
そうして何度となく見てきた泉を、じっと見つめていた。
私は余程こちらから声をかけてしまおうかと思ったが、止めた。
毎日の会話は例外なく、少女から始まっていた。
そのことは破ってはいけない掟のように思えたのだ。
しばらくして、少女はようやく口を開いた。
「ノッポ。前にも話したけど、村で作物がとれなくなっている。それで、村の作物がたくさんとれるよう、神様にお祈りするために、生け贄をすることが決まった。生け贄は明日の朝、〈神託の崖〉から落ちる。その生け贄に、わたしが選ばれた」
その告白は、あまりに唐突だった。
〈神託の崖〉とは少女の村のそばにある底知れぬ崖だ。
暗い崖の底には神の住まう世界に通じる穴が開いていると信じられている。
以前、少女から教えてもらっていた。
村の作物がとれないことも聞かされていたが、まさか、少女が人柱になるとは。
いつ、決まったことなのだろうか。
昨日まで、少女におかしな様子は無かった。
だとすれば、今朝、突然聞かされたのだろうか。
よく見ると、少女の着ているものはいつもより生地が薄く、寝間着のようだ。
髪もぼさぼさで、目覚めてすぐ、ここへ来たことが分かる。
私は少し間を置いてから、短く答えた。
「そうか」
私たちはしばらく黙ったまま、泉を見つめていた。
私はもう極楽鳥を待ってはいなかった。
極楽鳥たちも身の危険に感づいたらしく、ここ最近ではめっきり現れなくなった。
それでも私は、いまだにこの場所で狩りを続けている。
私は目を細めて、言った。
「お前は、村の人間が憎くないのか?」
「分からない。でも、きっと誰も悪くない」
その一言は私の胸に重く響いた。
少女の言葉からは、憎しみは全く感じられなかった。
あるのは、空虚さだけだった。
そうして私は思い出す。
似た感情を、私はよく知っていると。
私は静かに少女に尋ねた。
「それで、お前はどうする」
少女もまた静かに答えた。
「死ぬ」
私は目を閉じ、言った。
「そうか」
一拍置いてから、私は意を決して問うた。
「……このまま、私と一緒に行くか?」
少女は黙った。
しかし、ややあって、首を振った。
「駄目。わたしが生け贄になることは、村の皆で決めた。わたしがいなくなれば、今度はお母さんが皆からいじめられる」
だろうな。
私はため息をついた。
「母はお前が生け贄になることに賛成しているのか」
「分からない。けど、お母さんは今、わたしよりも、弟とおじさんの方が好き。夜中に、お母さんがおじさんにそう言っていたって。家のネズミが教えてくれた」
少女は淡々と語った。
「前はたぶん、お母さんはわたしのことが好きだった。お父さんがいたころは優しくて、わたしの話もちゃんと聞いてくれた」
だが、今はどうなんだ。
私は出かかった言葉を押しとどめた。
そうして黙ったまま、少女とともに泉を見つめた。
それから長いこと、私たちは泉を眺めていた。
今朝の泉は格段に美しかった。
幾重も差し込む朝陽の光芒。
それらが水面にキラキラと反射し、宝石のように輝いている。
いつしか、ここは狩りをするための場所ではなくなっていた。
美しい景色を眺め、ただ時が過ぎるのを待つ場所。
少女にとってはどうだろうか。
この場所は、今でも釣鐘草を摘むためだけの場所なのだろうか。
そんなことを考えていると、少女は立ち上がって言った。
「今日でお別れ。ノッポ」
少女は胸元から首飾りをとり出した。
首飾りには人間の大人の掌大はある、無骨な石がぶら下がっている。
私は目を見開いて、それを見た。
――〈魔煌石〉。
それは大気中のマナが凝縮し、結晶化してできた貴重な鉱石だった。
マナが沈殿し、堆積する場所にしか生成されない。
それも何百、何千年もの時をかけて作り上げられる奇跡の鉱石だ。
この鉱石を魔力で錬磨すれば、極楽鳥50匹分はくだらないマナを採取できるだろう。
少女はそれを私に差し出した。
「これはお父さんが死ぬ前に、わたしにくれたお守り。この泉で拾ったもの。皆は変だっていうけど、中の穴を覗くと、キラキラして、綺麗。ノッポにあげる。ドラゴンは光るものが好き。本で読んだ」
……何だ、その知識は。
ドラゴンにそんな鳥のような習性は無い。
少女の読んだ本にも、間違ったことが書かれているらしい。
しかし、私はそれについては何も言わず、指先でその首飾りを受けとった。
つり下がった鉱石を陽の光に当て、片目で凝視する。
暗い石の内部で緑の光がチカチカと輝き、まるで夜空の星のようだ。
私は石から目を離して、少女を見下ろした。
少女はわずかに微笑んでいる。
私もつられて微笑む。
それから私は、少女の背をつまむと、私の目の高さまで引き上げた。
「あ」
と少女が声を上げる。
私は再び、少女の頭に首飾りをかけてやった。
「これは、お前の父の形見だろう。そう簡単に他人にやるものではない。最期まで身につけておけ。お前を庇ってくれる、大切なお守りだ」
少女は驚いたように、私を見た。
「お前はまだ、父も、母も、好きなのだろう?」
少女の目が少し揺れ動いたように見えた。
しかし、それも一瞬のことで、すぐに首飾りをぎゅっと掴んで言った。
「それじゃ、代わりに」
そして少女は私の鼻先にキスをした。
それはとても短いキスだった。
思わず指先から少女を落としてしまったが、すかさず尻尾で受け止める。
少女は目を白黒させていたが、尻尾を撫でて笑った。
「やっぱり、すべすべしてて気持ちいい」
そうして少女は私の身体から離れると、元来た道を走り出した。
私は咄嗟に声をかけた。
「そういえば、お前の名前は」
少女は立ち止まった。
そして、少し間をおいてから、こちらを振り向いた。
「……リテ。……やっと聞いてくれた」
そう言って少女は。
……いや、リテは微かに笑った。
しかし、リテの瞳には、涙が浮かんでいるように見えた。
リテは急いで背を向けると、木立の間を走っていってしまった。
私は呆然と、リテの後ろ姿を見送っていた。
その日、わたしが目を覚ますと、おじさんも小さな弟もいなかった。
不思議に思っていると、お母さんがわたしに言った。
おまえは明日、生け贄になるんだと。
神託の崖から落ちて、村のために神様にお願いしに行くんだと。
最後の一日は、お母さんとふたりだけで過ごすよう、長老さんから言われていたらしい。
だから、おじさんも小さな弟もいなかったのだ。
でも、わたしはその話を聞くと、すぐに家を飛び出してしまった。
生け贄になることが怖かったのだろうか。
それとも、お母さんと別れることが悲しかったのだろうか。
たぶん、どちらでもない。
何故だか分からないけれど、わたしは逃げ出したくてたまらなかったのだ。
そして、いつの間にかわたしはノッポのところにきていた。
ノッポのそばにいると、不思議と心が落ち着いた。
逃げ出したい気持ちも少しずつ薄れていった。
ノッポは私に言ってくれた。
「私と一緒に来るか」
その言葉で、わたしは気づいた。
ノッポのことは大好きだけれど、お母さんを困らせるようなことはできない。
わたしは結局、お父さんとお母さんのことを放ってはおけないのだ。
家に帰ると、お母さんは黙って家に入れてくれた。
最後の夜。
お母さんとどんなふうにして過ごして、どんなことを話したのか、よく覚えていない。
お母さんはいつも通りあまり笑わなくて、わたしと話すときもぎこちなかった。
胸がちくちくと痛んで、息苦しかった。
ただ、それだけだった。
お父さんがいなくなってから、お母さんは変わってしまった。
いつも悲しそうにしていて、わたしが話しかけても笑わなくて。
わたしは何故か、胸の奥が重いもので一杯になった。
わたしじゃ、お母さんを笑わせられないことが辛かった。
でも、おじさんと会ってから、お母さんは少しずつ笑うようになった。
おじさんはお母さんのために、村の男たちと一緒に狩りに出てくれた。
おかげで、みんなで分ける肉の取り分が多くもらえた。
おじさんはお母さんのことが好きだった。
お母さんはおじさんのことを好きになった。
でもおじさんはわたしのことを気味悪がった。
そうして、お母さんはわたしのことを好きじゃ無くなっていった。
おじさんのことを困らせるから。
お父さんのことを思い出すから。
そして、弟が生まれたとき。
わたしはお母さんのために、何度もお湯を持って行った。
釣鐘草に浸した水もたくさん使った。
そうして産婆さんがようやく、小さな弟を抱え上げたとき。
お母さんはとても嬉しそうな顔をした。
額に汗を滲ませて、笑っていた。
その笑顔を見たとき、わたしは思い出したのだ。
ちょっと前まで私に向けられていた笑顔を。
お母さんはあの笑顔を取り戻したのだ。
わたしの役目は、もう終わったのだ。
そのときからわたしの胸の奥にあった重いものが消え、ちくちくとした痛みだけが残ったのだ。
そしてわたしは〈神託の崖〉から落ちる。
見たこともないような、綺麗な赤い服を着て。
村の皆に見守られながら、わたしは落ちるのだ。
皆のために。
わたしのことを信じてくれなかった皆のために。
わたしは本当のことを言っていたのに。
今さらながら、色んなことが悔しく思えた。
私は、本当は知っているのだ。
村の作物がとれない理由を。
村の鳥たちや魚たち、植物たちが何度も教えてくれた。
村長さんの息子が川の水に油を流しているのだ。
よくわからない、鉛でできた何かをつくるために、油を使うらしい。
それを川に流しているせいで、魚や植物が苦しんでいる。
わたしは皆にそれを言ったけど、皆はわたしを信じなかった。
それどころか、わたしのことをぶってきた。
村長さんの息子さんのことを悪く言うと、ひどいぞ。
そんなことを言われながら。
結局、皆は信じてくれなかった。
信じてもらえないまま、わたしは死ぬのだ。
何となく、悲しい気持ちがした。
でも、お母さんのことを思えば、大丈夫だ。
わたしにそうしてくれたように、お母さんは弟に笑いかけ、幸せでいられる。
わたしさえ、いなくなれば。
少し、胸の奥がちくちくした。
でも、それでも。
わたしは、大丈夫だ。
お父さんにもらった首飾りを、隠し持っているのだから。
これで、わたしはきっと、天国に行ける。
誰かのことを、大切に思いながら死んでいけば、天国に行けると。
お母さんが言っていた。
大好きなお母さんが言っていた。
お母さんのことだって、まだ……。
――もう、好きじゃないかもしれない。
こみ上げてきた涙を隠すように、わたしは首を振った。
これでは天国に行けない。
わたしは大好きなドラゴンのことを思い出した。
最後まで、わたしの話を聞いてくれた、美しいドラゴンのことを思い出した。
あの緑色の、大きな姿だけが、生きる理由だった。
別れ際に、ノッポが自分の名前を聞いてくれた。
そのことが嬉しかった。
これでノッポは、私のことをずっと、覚えていてくれる。
何故か、そんな気がしたのだ。
それだけで救われる気がした。
もう届かないけれど、最後にわたしは心の中で、ドラゴンの言葉を唱えた。
ありがとう。ノッポ。
さようなら。
そうして、わたしは落ちたのだ。
どこまでも深くて、暗い、闇の底へ。
冷たい感触。
それは、懐かしい肌。
すべすべして、気持ちいい。
色んな思いが押し寄せる。
初めてその姿を見たときのこと。
綺麗だと思ったこと。
初めてその背中に触れたときのこと。
素敵だと思ったこと。
いつもの低い声が、頭の中に響いた。
「おい、リテ。平気か」
わたしは目を開けた。
緑色の鱗が目に入った。
わたしはノッポの背中に乗っていた。
暗闇の中で、緑色の光があたりを照らしていた。
最初、ここは天国なのだ、と思った。
ノッポがお父さんの代わりに、わたしを迎えに来てくれたのだろうか。
それともお父さんがノッポの姿で迎えに来てくれたのだろうか。
そんなことを思いながら、わたしは空を見上げた。
上を見ると、日の光が一本の線のようになっている。
どうやらここは、まだ崖の底らしい。
「わたし、生きてる……?」
「ああ。私にはそう見えるが」
ノッポの言葉に、わたしはぼんやりとしながら答えた。
「……何で?」
すると、ノッポはいつになく得意げに言った。
「知らないのか、ドラゴンは光り物に目が無いのだ。だから、そいつを頂きに来た」
わたしはハッとして、服の中の首飾りを握りしめた。
納得がいかずに、わたしは言った。
「何で助けたの。わたしは死ななきゃいけないのに」
「なぜ、死ななければならない」
「村の皆のために、神様にお願いするために」
「お前は村の皆が好きか?」
ノッポの質問に、わたしは戸惑った。
最後までわたしの話を信じてくれなかった村の皆。
ひとりひとりの顔を思い浮かべて、わたしは言った。
「ううん」
「そうか。では、神とやらを信じているか?」
ノッポの質問に、またわたしは戸惑った。
お母さんは神様を信じていた。
だからわたしも一緒に信じてようとしていた。
けど、最後まで信じ切ることができなかった。
そもそも、神様のことを好きになれなかったのだ。
神様が本当に居るなら、誰よりも優しかったお父さんが、あんな風に死んでしまう必要は無かったはずだ。
最後、肺の病に苦しみながら死んでいったお父さんを思い浮かべ、わたしは言った。
「……ううん」
「そうか。ならば、お前が死ぬことで、本当に作物がとれると信じているか?」
わたしは村の動物たち、植物たちのことを思い出した。
そして、村長さんの息子のことを思い浮かべ、力強く言った。
「ううん」
「では、お前が死ぬ理由はどこにも無い」
ノッポの言葉に、わたしはすっと心が軽くなるような気がした。
でも、川の油のことを思い出し、急いで言い足した。
「ノッポ、村の作物がとれないのは、村長さんの息子さんが、川に油を……」
「安心しろ。昨晩、ドラ息子には私がちょっとした魔法をかけておいた」
「え……魔法?」
「ああ。こないだのクモの幻影魔法を応用して、二度と鉛や油に触れることが無いよう、こらしめてやった」
突然、頭の中に景色が流れ込んできた。
そこは村長さんの家だった。
その一室で、太った男の人が霧に包まれて、嗚咽をもらしている。
村長さんの息子だ。
霧の中では、鉛でできた異形の怪物がその胸ぐらをつかんでいる。
さらに油でできたスライムが口や鼻、穴という穴に入り込りこみ、おぞましい声で繰り返している。
『もう二度と、川に油を流すな』
村長さんの息子は何度も頷きながら、呻き、苦悶の表情を浮かべていた。
何とも怖ろしい光景に目を背けてしまいたくなる。
しかし、そこで景色は途絶えた。
わたしはハッとしてノッポを見下ろした。
ノッポの魔法だったのだろうか。
ノッポはちらりとこちらを見て、言った。
「ドラ息子が約束を破り、川に油を流すようなことをすれば、再び同じ魔法でもがき苦しむことになる。これで少しは村の田畑や、動植物たちが快復するといいがな」
「……うん」
わたしはホッとして、ノッポの言葉に頷いた。
同時に、何故か心細くなるような気がした。
これから、私はどうすればいいのだろう。
もう村に戻ることもできないのだ。
襲ってきた不安に、思わず服の上から首飾りを握った。
すると、ノッポの声がした。
「それで、お前はその石をどうする気だ?」
わたしは目を大きくする。
そして前にノッポが言ってくれた言葉を思い出し、首飾りをぎゅっと握りしめた。
「だめ。これはお父さんの形見。誰にもあげない」
「そうか、それは残念だな」
ノッポはわざとらしい言い方で続けた。
「……ならば、交換条件といこう」
「……どういうこと?」
ノッポの声はどこか楽し気だった。
「その石の代わりに、私はお前の望むものを何でもくれてやろう」
わたしは目を丸くして、ノッポを見た。
そして思わず、ムキになって答えた。
「それでもあげない。絶対にあげない」
ノッポは鼻を鳴らして言った。
「ふん、そう言っていられるのも今のうちだ。すぐにそんな石などいらなくなるぞ」
「どういうこと?」
「お前が見たことも無いような美しい場所や、お前が食べたことの無いような美味いご馳走、そのほかにもお前が望めば、何でもくれてやる。山でも、国でも、地位、名声、権力、金……」
わたしは何だか可笑しくなって、ふっと笑ってしまう。
「そんなにいらない」
「何」
ノッポの驚いた声は、とてもわざとらしかった。
それもまた可笑しかった。
「まあ、一生渡す気が無いならそれでもいい。人の一生など、たかだか百年足らずだ。お前の死を見届けてから、石を頂くとしよう」
それからノッポは少し首を曲げて、わたしを見た。
そして白く濁っている方の片目をつむってみせた。
私は心の奥にあたたかいものが広がっていく感じがした。
似ていると思った。
昔、お父さんやお母さんが、私に優しくしてくれたときに感じた、あの気持ちと。
お母さんのことを思うと少し胸が痛んだが、それでも会いたいとは思わなかった。
お母さんは今の家族と生きていくのだ。
そして、わたしも、新しくできた家族と。
わたしは笑って、ノッポの背中にしがみついた。
そのまま、わたしはずっと笑っていた。
このまま、ずっと笑っていたいと思った。
数奇な運命で巡り会った人間の少女、リテ。
彼女を背に乗せながら、私は力強く翼を動かした。
私の行動が、どうリテに伝わったのか。
それは分からない。
ドラゴンの魔力をもってしても、人の心までは覗けない。
しかし、リテが笑ったこと。
そして、私の背にしがみついている腕の力強さ。
今のわたしには、それだけで十分だ。
何故私がこんな行動をしたのか。
理由は単純だ。
もしも、あのとき。
私があの河へ身を投げたとき。
ドワーフがまだ生きていて、それを見ていたとしたら。
きっとドワーフもこうしただろうと。
そう思ったのだ。
まるで人間だな。
気まぐれで思いやるような行動をとる。
やがて崖の狭間を抜けると、大きな空へ出た。
朝焼けがこの世界を黄金色に包んでいる。
空を切る風の心地よさを感じながら、私は両目を閉じた。
今更ながら、ドワーフがくれた、最期の言葉を思い出す。
泣きはらした私に、彼はこう言ったのだ。
どんなに嫌なことがあっても、片目をつむって見せろ。
そうすりゃ、お前は大丈夫。俺もお前も、きっと大丈夫だ。
それでも駄目そうなときは、両目をつむれ。
そして、思い出せ。この土手の景色を。
ああ、思い出せるよ、ドワーフ。
私たちはまだ、大丈夫そうだ。