プロローグ「希望」
哀愁の漂う夕日が誰もいない教室を照らし、烏の群れが一日の終わりを告げる。
薄暗くなった校舎の裏には、雨が降ったわけでもなく全身が濡れた黒髪の少女と、それを囲む数人の男女の姿があった。
「何だって?はっきり喋れよ」
「……もうやめて」
「え?全然聞こえないんだけど」
俯いたまま震える少女の言葉には耳も貸さず、数人の男女は嘲笑いながら順番に水の入ったバケツを少女に浴びせる。少女は抵抗することもできず、ただ心の中で延々と一つの言葉を繰り返した。
――——殺したい。殺したい。
これが少女に芽生えた初めての殺意であった。そして少女はゆっくりと顔を上げ、目の前にいた少年を赤く濁った瞳で静かに睨んだ。
「何だその目は? てめえ、誰に対して睨んでんだよ!」
「うぐっ……」
少女が見せた反抗的な表情に怒りを覚えた少年は、声を荒げて少女の下腹部に容赦のない蹴りを入れた。華奢な体型であった少女にとって少年の一蹴りは重たく感じ、激しい痛みに少女はその場に膝をつく。
————殺したい。でも、殺せない。
少女はお腹を抱えて踞りながらも、校舎からこちらを覗く何者かの視線を感じた。
————私達以外の生徒は皆、一時間前に集団下校したはず。この視線は教師の誰かに違いない。
少女は絶望を感じた。なぜなら、少女にとって教師は“期待してはいけない”存在だったから。
少女はこれまでに何度も苛めを受けていた。苛めを受けてる最中、少女は教師と目が合った。教師は少女のほうへゆっくりと近づき、そして––––––––少女の横を通り過ぎた。
希望に裏切られた少女はそれ以降、教師に期待する事をやめた。
————希望を持つから絶望を味わう。希望を持つのは、もうやめよう。
「いつまで痛がってんだよ糞女! ほら、俺に謝れよ」
まだ怒りの抑まらない少年は踞る少女の髪を引っぱり、強引に顔を上げさせる。
希望を失くした少女は何を期待するわけでもなく、ふと視線を感じた校舎に目を向けた。
「……えっ」
そこにいたのは教師ではなく、大きく字の書かれた半紙を持つ一人の少年。
下手な字で“希望”と書かれたその半紙は、絶望に満ちた少女に再び希望を持たせた。
「ありがとう……」
薄れゆく意識の中で小さく微笑むと、少女はそのまま意識を失った。
汚れ一つない真っ白な部屋。壁には小さな窓とアナログ式の丸い時計、部屋の真ん中には白いベッドが一つ。そして、その上で点滴を打つ黒髪の少女。目を覚ました少女はこの場所が病院だとすぐに分かった。
————私はどれくらいの時間、意識を失っていたのだろうか。
窓から差し込む光と壁にかけられた時計の針を確認し、少女はこの部屋に一晩中いたことを理解した。
そして少女は点滴の刺さった左手を確認すると同時に、枕元に置かれた一枚の紙に気付く。その紙は折り畳まれており、少女は右手を使って少しずつその紙を広げた。
「今度は私が、あなたを助けてあげる————九条君」
広げられた紙に書かれていたのは見覚えのある二文字の漢字。
それを見た少女は感情を抑えきれず、一人ベッドで涙を流した。