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この幕舎での騒動は、一瞬でエルザの全軍に知れ渡ることになった。
夜中に、皇都から来た大魔術師が騒ぎを起こしている。
兵士たちは慌てて幕舎やテントから出て、ことの次第を確認しようとあたふたと駆け回っている。
当の自分たちは、エルザの野営地から脱出すると暗い森の中をさまよっていた。
逃げてこれたのは、自分とヴェラ、ワイズ、オルガ、ロイの五人だけだ。
「ほかのみんなは大丈夫かな?」
「大丈夫です。剣を抜いたわけでもないし、多少もみ合ったくらいで重い罪には問われません」
そうなのか。そうなのかな……。
ともかく。
「ヴェラ、聞きたいことがあるんだけど」
「はぁはぁ。そんなの逃げきってからにしてください!」
そもそも、なんであそこで助けに入ってきてくれたのか。
あれだけ怖がっていたのに、どうして今も自分と一緒に逃げてくれているのか。
聞きたいことはいろいろあった。
だけど、一つだけ最優先でどうしても知りたいことがある。
「ねぇ、この辺の地理って、ヴェラは知ってる?」
彼女は走りながら首を傾げた。
「はぁはぁ。知ってますけど!?」
「なら、谷とかある?」
「ありますけど、どうするんです?
え、いやですよ。
下が川だったら、飛び込んで逃げるなんてベタなことしませんから!」
「いやいや、そんなことはしない」
「なら?」
「とにかく、そっちに向かいたいんだけどいいかな」
夜中に逃げ始めたのに、もう日が昇り始めたらしい。
森の中にうっすらと朝もやが立ち込めていた。
夜通し走ったので、みんな息を切らしていた。
だが、ヴェラがきちんと導いてくれたおかげか、今、目の前には深い谷がある。
背後からは、『先生』とその弟子たちが追ってきている。
逃げている間中、ずっと背後から気配を感じていた。
加えて騒ぎを聞きつけたラルゴ隊長が、自分の部下を連れて、その後ろからやってきていた。
「何の騒ぎだ! 兵士が逃亡したからと聞いて来てみれば、骨、なんでお前がいる?
それにドレン殿? 宮廷魔術師の筆頭がなぜ、こんな場所にいらっしゃるのです?」
あー。
あれ。
なんだろう。
隊長の話を聞く限りだと、これは『先生』(ドレンでいいのかな?)と一部の人たちの独断の行動のように聞こえる。
皇様が、『災厄器』の力を目の当たりにして、研究利用しようと思ったのなら全軍に命令がいきわたっているはずだもの。
まぁ、極秘の任務の可能性だってあるけど、それは薄そうだ。
なにより、ドレンの顔がもう青ざめている。
ばれちゃったー、って感じであたふたしている。
あたふたしていたが、それでも居住まいを正してさももっともそうな説明を始める。
「ラルゴ殿も見たはず。あの骸骨の持っている『災厄器』を使えば、わが軍の勝利は確定する。
私は、ただ愛国心から彼の持っているあの赤い玉を研究しようとしているだけです」
「それは、皇様もご承知のことですか?」
ぐ、っと言葉を詰まらせる、ドレン。
え、本当に恋とかそんな感じで浮ついたまま、ここのきちゃったのかな。
やっぱり、彼と一部の貴族の独断で自分の赤玉を奪おうとしていたらしい。でも、あの力を使えば、国を乗っ取ることだってできるかもしれない。
そういうことも考えていないとは限らないし、皇様にないしょでそういうことするのって、立場が悪くなっちゃうんじゃ。
隊長はなおも続ける。
「そこの骨を拘束していたという話も聞いています。
話し合ってその『災厄器』とやらを渡してもらうならわかるのですが。
なぜ、骨はあなたから逃げているのです?
そこはどう釈明されるのですか」
うーん。
『先生』は言葉につまったままだった。
言い訳を考えているようにしか見えない。
なんというか、この赤い玉の力に目の色が変わっちゃったんだと思う。
戦場に行って、骨を拘束して、赤い玉を奪い取る。それを研究して、使えるようになったら、あとはもう思うまま。
そんなアホな未来を思い描いちゃったんだろうか。
とても、賢く振舞えとオルガに説教してた人とは思えない、ずさんな計画だった。
いや、それでも宮廷魔術師の筆頭なのか。
そんな人さえ、こんな愚かな行動に走らせるのだから。
この赤い玉は紛れもなく災厄を振り撒く何かなのかもしれなかった。
それでもドレンは、畳みかけるようにしゃべっている。
「これはエルザのためなのだ。これがあれば、戦争も楽に勝てる。そうだ、オルガ! お前の姉の負担だって減る!
戦争になると、敵の戦略や、自国領内の密偵の有無など、占うことが多すぎてろくに睡眠もとれないそうではないか!」
オルガがびくっと肩を震わせた。
彼女の『先生』に対する苦手意識が並みじゃないのが、本当によくわかる。
そんな彼女の肩を、ワイズが叩いて後ろに下がらせた。
ゆがんだ表情でニヤニヤ笑っていた。彼はたいてい、人を馬鹿にしたような意地の悪い笑みを浮かべている。
だが、今の彼の表情は、なんというかもっと醜悪な感じがした。
「本当に賢く振舞われますね、我が『師』よ。
ですが、オルガに何を言わせようとも無理ですね。
彼女にはもう牙が残っていないのですから。
お忘れですか。教育という名目で自分に逆らう子供たちの牙を残らずへし折ってしまったではないですか。
結果、いうことを聞く弟子がたくさんできましたが。
人間はね、歯がないとうまく発音できないのですよ。
本当の意味で『しゃべれる』人間などあなたの周りには残っていない」
隊長はというと、おろおろしていた。
何が起こっているのか、わからないといった感じだ。
彼の立場から見ればそうなのかもしれない。
皇都にいると思っていた、宮廷魔術師筆頭が戦場にいて、骨の赤玉を奪おうとしている。
戦争に勝つためだと言っているが、皇様はこのことを知らないというし、言い訳も苦しい感じがする。
なら、捕縛するのはどっちなのか。
骨のほうか、それとも宮廷魔術師筆頭のほうか。判断がつかないらしい。
なら、自分がここで幕を下すべきなのだろう。
ロイからミザリのメッセージを受け取った時。
あの時、わずかに生れた優しい気持ち。
それが迷いでいっぱいだった心に少しだけ昔の自分を思い出させてくれた。
自分はその場にしゃがむと右手で石をいくつか拾って、『先生』にむかって投げつけた。
「こら、何をする!」
なんて怒ってるけど、小さい石だしそんなに痛くもないだろう。
でも、これでみんな自分のほうを向いた気がする。
突然、人にむかって石を投げつけたのだから、そりゃみんな何事かとこっちを見る、
自分はぐるりと周囲を確認した。うん、全員自分のほうを見てくれている。
さて、今から決着をつけようかな。
自分は左手で眼窩から赤玉をえぐり出した。そして、右腕を大きく腕を振る。
手の中から飛び出したものが、谷底に向かって落ちていく。
「「「ああっ!」」」
誰もが驚きの声を上げた。
唖然とした表情でその様子を眺めていた。
少なくともここにいる全員は赤玉の力を目の当たりにしているからなぁ。
それがどれだけの力を秘めているものか、どんなに大切なものかなんとなくわかっているんだろう。
ドレンなんか、すべてを忘れたように崖のそばまで来て下をのぞき込んでいる。
だけど。
そもそもの発端って何だろう。
エルザが戦争を仕掛けなければいけなかった理由。
自分が一人で戦場をさまよっている理由。
そして、今もこうして味方にすら追われている理由。
『災厄器』とはよく言ったものだ。
全部、この赤玉のせいじゃないか。
そして、その力を自分のものだと勘違いした自分のせいでもある。
だから。
「ごめん!」
がばっと、みんなに頭を下げた。これはけじめだ。
そして、自分にとって新しい始まりでもある。
「自分は、竜を倒してから英雄なんて呼ばれて。
でも、ずっと息苦しい思いをしてたのは、きっと竜ですら殺してしまったことへの罪悪感があったからかもしれない。
それに自分だけが英雄なんて呼ばれるのはずっとおかしいと思っていた。
あれは自分一人でやったことじゃない。ランバートの、みんなの協力があったからできたことだったんだ。
なのに、自分一人だけが英雄扱いされて。
戦争も始まって。
さらに英雄扱いされるようになった。
でも、いざ戦争が始まってみると自分は何も知らなくて、戦場でも一兵卒となんの違いもなかった。
きっと、離れた家族が無事にやってるかどうか不安になったり、貴族や術師の身勝手な理由から不平を覚えたり、いろんなことが積み重なってて。
そこにゲンさんが殺されたのを見て、ついに爆発しちゃったんだと思う。
そんな自分にあの赤玉は反応した。
あとはみんなの知っての通りだよ。
でも、そのあとがいけなかった。その力を自分自身のものだと勘違いしてしまったんだ。
この力があれば、一人でもバルバラを倒せる、戦争を終わらせることができるだなんて。
本当だったら、あんな力はすぐに捨てるべきだったんだ。今したことを、もっと早くすべきだったと思う。
見失っていた、自分自身を。
よく言われるんだ。
君は戦いに向いてない。誰かをやっつけてやろうなんて似合わないって。
ようやく気付いた。いや、思い出したんだ。
竜を倒した力って、なんだったのか。
自分の本当の力って、なんだったか。
それは自分の中にあって、みんなの中にもあるものだった。
けっしてあんな禍々しいものじゃない。もっと強くてやさしい何かだったはずだ。
それをもう一度取り戻したい!
だから、お願いします!
みんな、自分と、もう一度。
一緒に戦ってください!」
誰も何も言わなかった。都合のいいお願いなのかもしれない。
だけど、自分はこうするしかない。もう赤玉の力は捨てた。
そして戦うためにはみんなの協力が必要だった。
思い出したんだ。
自分は皮も筋肉も内臓もない、ただの骨だ。非力な骸骨だ。
でも、あの時は一人じゃなかったはずだ。
戦う力は、もうすでに持っていたんだ。