70
戦いが終わって、まず、頭に浮かんだのはゲンさんのことだった。
自分の目の前で。
槍で胸を貫かれたゲンさん。
夕日に染まる戦場に背を向けて。
すぐに踵を返すと、エルザ軍の野営地に向かう。
胸なんか貫かれたら、場合によっては即死だ。だけど、運よく助かることだってないわけではない。
半ば祈るような気持ちで急いで戻る。
しかし、自分を待ち受けていたのは弓に矢をつがえた味方の姿だった。
野営地の入り口にさしかかった自分に、何十人ものエルザ兵たちが弓の弦を引き絞っていた。
最初はわけがわからなかった。
敵でも近くにいるのかと、後ろを振り返ってみたりもした。
もちろん、背後には誰もいない。敵の兵士も、大型の野獣もいたりしない。
本当はわかっていたんだ。
兵士たちが矢を放とうとしているのが、自分だと。
だけど、信じたくなかった。
今まで食事の準備でもしていたのか。
そこかしこで火がおこされ、その上に鍋がかかっているのがここからでも見える。
だけど、食事の準備も途中でみんな逃げ出したようだった。
なにか、恐ろしいものから逃れるように。
ここにいるのは、数十人のエルザ兵と自分だけだ。
ほかには誰もいない。
ただ、ずっと向こうから、ざわざわしている音だけが聞こえてくる。
「止まれ」
その弓兵たちの隊長は震える声で言った。
自分は首をかしげながら、さらに一歩進む。
すると、目の前の兵士の一人が矢を放った。自分の足元の地面に突き刺さる。
「……」
視線を足元の矢から、それを放った兵士たちに向ける。
彼らは口の中で、小さく「ヒッ」と悲鳴を漏らして、でも、その場にとどまった。
彼らが何を見て、どうして敵意を向けてくるかは、なんとなくわかっていた。
だけど……、自分は彼らの味方だ。
どうこうするつもりもないし、これからだって守っていきたいと思っているんだ。
よく話せば、きっとわかってもらえると思う。
自分は、とにかくゲンさんに会いたいだけなんだ。
きっと、生きてるよね? ゲンさん。
もう一歩踏み出す。
「止まれと言ったぞ!」
もう一度、制止の声。そして、耐えきれなくなったのか、命令もないのに弓兵たちは矢を放った。
数本の矢が放たれた。空気を裂く音。
ほとんど外れたけど、一本だけ自分の鎧に刺さった。
胸の部分。よく見ると、先ほどの戦闘で自分の鎧には何十本も矢が刺さっていた。
なるほど。こんなに鎧に矢が刺さってたら怖いよね。
自分は、それを一本一本抜いて、抜けないものはへし折ってどうにか体裁を整える。
「これでいい?」
だけど、それは逆効果だったみたい。
彼らは顔色を失って、ただ、唖然と自分を見ていた。
そのうち、騒ぎを聞きつけたのか。オルガとワイズが顔を見せた。
ああ、よかった。
これで誤解が解けると思った。
みんなが話してくれれば、きっとこの人たちも勘違いだったってわかってくれるはずだ。
「オルガ!」
声をかけると、彼女は小さく体を震わせて後ずさりした。
「え?」
思ってもない反応に、戸惑う。
「ワイズ!」
彼もまた名前を呼ばれて自分のほうを見たが、口元をゆがめて目をそらした。
なんだ、これ。
みんなどうしちゃったんだよ。
なんで、答えてくれないんだろう。
自分は戦って帰ってきただけだ。
今の自分にはここしか帰る場所がないんだよ。
なのに、弓を向けられて。
まるで、どこかに行け、と言われているようじゃないか。
おかしい。
自分は味方だよ。
今日だって、一緒に戦ってたじゃない。
「そうだ、隊長を呼んでよ! 名前なんだっけ? そう、ラルゴ! そういう名前の人!」
誰かが隊長を呼んできてくれるかと思ったけど、誰もその場から動かなかった。
彼らはただじっと自分を見つめ、そのわずかな動きにも、過敏に反応した。
一歩、今度は後ずさった。
それだけでその場にいる人間が全員、ぴくっと反応する。
まるで、おびえているみたいに。違う、おびえているのか。
「…………」
自分は、何も言わずに彼らに背を向けた。
平原のずっと向こうに小高い丘が見えたので、そこに向かって歩いていく。
ひょっとしたら、背中を向けたとたん攻撃されるかもしれないと思った。
けど、それならそれでもいいと思った。
小高い丘の上からは、エルザ軍の野営の明かりがよく見えた。
たき火を炊いて、その日の疲れをいやしている。
遠くに見えるいくつもの明かりを見ながら、自分は手ごろな木に背中をあずけてそれをただ眺めていた。
自分は、いきなり輝きだした赤玉につられて、あれをやった。
使い方すらわかっていなかった。
でも、この右目の玉が力を示した時、確かに意識はあって、そしてそれを自分の意志で振るった。
言い訳なんてできないし、するつもりもない。
褒められるとは思っていなかった。だけど、あんなに脅えられるとも思っていなかったのだ。
甘かった。怖がるのは敵だけではなかったんだ。
だけど、ほかにやりようなんてなかった。
いや、自分のことはどうでもいい。
それより。
「ゲンさん、大丈夫かな……」
彼のことで頭がいっぱいだった。どう見ても致命傷だったと思う。
でも、心のどこかで、生きてるんじゃないかという希望もうっすらと持っている。
たまたま、刺されたところがよければ生きてる可能性だってあるじゃないか。
「知りたいですか?」
声がした、ような気がした。けど、幻聴だろうと思って振り向かなかった。
「知りたいですか?」
あ。
今度ははっきりと聞こえた。
慌てて振り向くとそこにはヴェラがいる。
薄汚れたマントを羽織った小柄な影は、恐れるように、だいぶ離れたところから話しかけてきた。
「ヴェラ、教えてくれ。ゲンさんは無事なんだよね?」
自分に初めて仕事を教えてくれた人だ。
できの悪い自分を見守ってくれていたし、必要ともしてくれた。
あんまり口がうまくなくて。
でも、けっこういいアドバイスをいつもくれるんだ。
肋骨がぽろりと落ちるほど、背中を強くたたくのは勘弁してほしいけど。
豪快にわらったあの顔をまた見たい。
だけど、いつまで経ってもヴェラは、首を縦に振ってくれなかった。
全身から力が抜ける感じがする。
もっと早く腐食竜の力を使えていればこんなことにならなかった。
使い方がわからなかった、なんて言い訳だ。
なんとなくそういう力がありそうなことはわかっていたはずなのに。
だけど、調べようともしなかった。ただ持っていただけだった。
いや、きっと今みたいになることが分かっていたんだ。
こんな姿をしていて、おまけに一瞬で何かを腐らせるような力を持っていたらそれこそ本当に化け物だ。
もう、誰も近寄ってこない。
そして、その通りになった。
だけど、それでもいい。この力を使ってエルザを勝たせることができれば。
ただ、すべてが終わった後、エミリとミザリに会うことだけが怖い。
そういえば。
「ヴェラ、なぜここに?」
みんな自分から離れていった。オルガやワイズも。きっとロイも同じような反応をする気がした。
でも、ヴェラはなぜかここにいる。その理由がわからない。
ゲンさんのことについて聞いたのは、自分からだ。
なら、彼女の用件はなんだろう。
「私は、あなたの補佐なので」
震える声でそう言った。相変わらず、彼女は声が届くぎりぎりの距離にいる。
そこから近寄っては来ない。
まるで猫みたいだ。ちょっとでも近寄ればさっと逃げてしまう気がした。
それが怖くてとても自分からは近寄れなかった。
「バルバラ軍はどうなったの?」
あのあと、撤退したバルバラを自分は追撃することはなかった。
相手が背中を見せて撤退する時が、敵の数を大きく減らすチャンスだと誰かが言っていた気がする。
だけど、エルザも逃げたバルバラを追わなかった。いや、追えなかったのかもしれない。
ヴェラの声は緊張していた。
まるで、自分を刺激しないように言葉を選んでいるようでもあった。
そんな風に思われている自分がただ悲しかった。だけど、しょうがない。
「バルバラは……撤退しました。
モラルブレイクです。
あのあと。
バルバラ軍の兵士たちの緊張が極限まで達して崩壊。
もう、ぐちゃぐちゃでした。
将軍も兵士も関係なく、わき目も振らず、散るように逃げていきましたから。
あんな光景を見たのは生まれてはじめてです」
「そうか」
「そして……。それはエルザも同じでした。
目の前の光景があまりに常軌を逸していたので。
エルザ軍からも離脱しようとしていた兵士がたくさんいました。
確かに、あれほどおぞましいものを見せられては。あっ……」
ヴェラは小さくうめいた。
口を滑らせた、と思ったかもしれない。
「それで?」
続きを促す。
「ただ、ラルゴ隊長が『あれは味方だから心配するな』と大声をあげながら馬で戦場を駆け抜けて。
それで兵士たちも少し落ち着いたみたいです。
なんとか今は軍の体裁を保っていますが。それでも、一割くらいの兵士が逃亡したみたいです」
「それで、ヴェラは逃げないの?」
「わ、わたしは……」
「怖いんでしょ?」
「はい。怖い。怖いです。だって、にらまれただけで肉が溶け落ちるなんて!
こうして、対面しているだけでもいつ自分がそうなるか、気が気じゃない」
「……」
自分は彼女のほうを見るのをやめた。
ただ、うつむく。それでも十分、話はできる。
「なら、なんでここに?」
「それは……。自分でもわかりません。なぜ、ここに来たのか。来てしまったのか。
ただ、来なければいけない気がして。
疑問ならいっぱいあるし、でも、何から聞けばいいのか。
そうだ。そもそもあの力はなんなのですか」
自分は腐食竜から出てきた、赤い玉のことを話した。
ふと、ある時小さな反応をしめして、手に持ったリンゴを腐らせたこと。
それからずっとうんともすんとも言わなかったこと。
ただ、ここにきて急に力を示したこと。
「ふむ。腐食竜の力というのは、言わないほうがよさそうです。
ランバートの一件があなたの自作自演にとられかねない。
ただ、これからどうするのです?
私もどうすれば……」
それは……。
「エルザ軍にはもう戻れないよね?」
「え、ええ。おそらく難しいと思います。
もはや、あの軍であなたをランバートの英雄と呼ぶ人はいないでしょう」
「そうなんだ?」
それは、なんだか愉快だ。自分は英雄と呼ばれるたびに居心地の悪い思いをしてきた。
「なら、今はなんて?」
「恐怖の騎士」
「テラー?」
「テラーナイトです。この国のおとぎ話にあるそうです。
闇をまとい、出会ったものを冥府に連れ去る死霊です」
確かに、自分のこの容姿と腐食竜の黒い霧が合わさったらそう見えるかもしれない。
「そうか。なら、自分はこのまま一人でいることにするよ。
みんなを怖がらせたいわけでもないし。
あの部隊の指揮はヴェラがとってよ。
自分はあそこにいてもあまり役に立たないと思うし。
というよりも、いたら逆に邪魔だよね?
みんなおびえて戦いに集中できないし」
「そんなことは……」
彼女は言いかけてやめた。安い慰めなどなんの意味もない。
だけど。
「この力さえあれば、きっと戦争を早く終わらせることができる。
だから、誰に何を思われようと。
自分は一人で何とかやってみるよ」
そうだ。
今の自分には一つの国を亡ぼすくらいの力がある。
もう、非力な骸骨などではないのだから。