39
ランバートの城壁はすごく高くて分厚い。
城壁の大きさはそれを守る街の豊かさと比例しているように思える。
ただ、黒い霧はそれをやすやすと乗り越えて街を蝕む。
人を飢えさせ、病を運ぶ。
内側にある階段を上って、マルガと二人で城壁に上った。
そこにはすでに先客がいた。
城壁の上から城壁の外を身じろぎ一つせず見つめていたが、こちらに気付いて振り返った。
「骨さん、ねーさん」
オルガだった。
「こんな場所でどうしたの?」
自分の問いに、オルガはある方向を指さした。
ランバートは穀倉地帯だ。
中央から南部にかけて広大な平野が広がっている。
オルガが示したのは、南、ネビルのほうだった。
地平線の向こうにうっすらと黒い霧が見える。
嘘だろ……。
「もう、こんなところまで……!?」
黒い霧はゆっくりゆっくりと広がっていると思っていた。
それにある程度のところで止まるんじゃないかとも思っていた。
それがもうランバートの城壁から見えるところにまで迫っているなんて思いもしなかった。
いや、自分は竜のことばかりに気を取られて周りを見ていかなった。
配給制になるほど食糧事情が悪化していたことも全く知らなかった。
オルガが追い打ちをかけた。
「エミリがね、今朝、血を吐いた」
えっ……?
「黒い霧の影響が出てる。
目には見えないほど薄いけど、もうここにも届いてるのかもしれない。
何人かが、同じような症状を訴えてる。
けど、エミリは特にひどい」
オルガは言いにくそうに続きを言おうとした。
だが、マルガが気を使って話を引き継いだ。
「これは、その、誰にも予測できなかったことなのです。
だから、誰が悪いというわけでもない。
ただ、エミリは特に瘴気をさらされていたので……」
「なんで!? 街から外には出たりしたの?」
「いえ、そうではないのですが……」
「それなら!」
「それは、その……」
まるで何かを隠すような、そして誰かをかばうような。
もしかして……。
もしかして……。
「自分? 自分のせいなのか……。
たっぷりと瘴気を浴びて帰ってきた自分をそばで介抱してくれたのは、エミリだ」
姉妹は顔を伏せる。
「エミリさんはすぐにどうこうというわけではありません。
ただ、すべてにおいて終わりが近づいているのも事実です。
時間はもうあまり残されていません。
今はぎりぎりで踏みとどまっていますが、それでも限界があります。
はっきり言ってしまえば、もう街を捨てて逃げたほうがいい」
深刻なマルガの声。
「行く当てはどこにもないんだけどね」
現実を突きつけるオルガ。
自分が。
自分がぐずぐずしていたからだ。
全然知らなかった。
エミリのことも。
街のことも。
だけど……。
だけど、それなら……。
逃げられる人は今のうちに逃げるべきだ。
自分が言うのもなんだけど、無駄死にする必要はない。
自分は竜を倒すつもりだ。
でも、それとこれとは話が別だ。
「君たちも、逃げなよ」
ふと、出た言葉。
オルガもマルガも宮廷の人間だ。
本来、こんな場所にいる必要はない。
安全な王都に帰ればいい。
少なくとも、今ここで死ななくてもいい人たちだ。
見も知らない自分を助ける義理なんて本当はないのだ。
それを言ったら、オルガがけたけた笑った。
「あたし、帰ったらさ、ぼろぼろになったあんたを誰が見るの?」
うっ。
「そ、それは……。でも、もう、骨接ぎができることもわかったし……」
「今は、ね? もっと困った事態になったらどうするの?」
「もっと困った事態?」
「そうそう、それが何かはあたしもわかんないけどね」
あくまでオルガは軽い。
「なら、マルガは……!」
「私も残りますよ」
にっこり笑って言う。
相変わらず、全身を濃い紫のローブでつつみ、口元のベールもとったところを見たことがない。
だけど、目元にははっきりと濃いクマが見える。
「ねーさん、寝てないんでしょ?
どうせ一晩中、星を眺めてるんだろうけど。
昼間だって、伯の仕事を手伝ってるみたいだし。
いい年なんだから、寝ないとぶさいくになるよ」
マルガにしては珍しく声を荒げる。
「ほっといて。一日中寝てるあなたにだけは言われたくありません!」
オルガは面白がるようにさらにマルガに追い打ちをかける。
「それに姉さんこそ、宮廷に帰ったほうがいいかも。
竜の弱点を占うとかいってるけどさ、何にもわかってないんでしょ。
一番役にたってないの、実はねーさんだよね。くふふ」
がーん、とマルガはショックを受けたようだった。
なんとなーくはわかっていた。
だが、これほど気にしていたとは思わなかった。
「ひどい、私だって、私だって……」
あれ、若干、声が震えてる?
泣くの?
泣いちゃうの?
でも、オルガは容赦なかった。
「ならさ、とっと結果出したら」
ニヤニヤしながら、姉を追い詰める。
マルガはキッ、と妹をにらんだ。
「いいわ! きちんと占えたら、ごめんなさいしてもらいますからね!」
そういって、ひとりでずんずん城壁の階段を下りて行った。
こんなマルガは初めて見る。
姉妹ゆえの気安さなのか。
オルガはそんな姉を、姿が見えなくなるまで見送った。
あーあ、また無理するんだろうなぁ、なんて一日中寝ている宮廷魔術師様はのたまった。
「でも、こんなにねーさんが苦戦するのもめずらしいんだよね」
ランパートはここ数年で大きく発展した。
その根底には間違いなく、マルガの占いの力があったという。
それを誇らしげに語るオルガ。
いるところでは貶めて、居ないところでは誉める。
ツンデレですか。
ツンデレってなんだ。
たまに知らない言葉が頭をかすめる。
地平線の向こうにうっすら見える黒い影。
そこから目を離したオルガは、こちらに視線を向ける。
今は帽子とマントを羽織っているので、すぐに骨だとはわからない。
「ただ、骨さんを選んだのは、あたしも間違いないと思うんだよね」
やはり、姉の力を信じているのか。
「腐蝕ブレスの直撃を食らえば、皮は破れ、肉はただれて腐り落ちる。
いくら骨だってさ、さすがにどうにかなると思うんだ。
どっか調子の悪いところある?」
うーん、と考え込むが、そんなところ全然ない。
「ずっと、そのこと心配してたんだけどさ。
今のところなんともない。
これは、あたしが勝手に思ってるだけなんだけどさ。
骨さんは、やっぱ何かに守られてるのかもしれないね」
「何かって?」
「しーらない!」
それだけ言い残して、オルガは足取り軽く階段を駆け下りていった。
一人で城壁の上に取り残された自分は、再び、黒い霧のほうを眺めた。
こんな風に遠くを眺めるばかりで、自分の周りのことなんか気にも留めなかった。
街のこと。
エミリのこと。
姉妹の決意。
なにより、自分のことすらも。
隊長に言われて気が付いた。
自分は、あまりにも自身のことを知らなさ過ぎた。