魔女の覚醒
残酷描写が僅かにあるので注意。
特に猫好きには閲覧自主規制をお願いします。
序 ダン・サリンジャーの手記
『結局のところ、私には盟約を結ぶより他に手は無かった。
そうしなければ、私は彼と同じように、猫たちの胃袋に収まる事は避けられなかっただろう。
もしこの手記が役に立つ日が来るとしたなら、それはとても不幸な事だろう。
ウルタール法典が守護するその場所で、決して猫に危害を加えてはならない。
もしこの掟を踏み躙る者が居るならば、喩え世界のどこであろうともBASTは決して許しはしない。
嗚呼。今夜も猫たちの声が聴こえる。
私にはわかる。あれは私を見張っているのだ。
盟約を交わした私がそれを破らぬように、あの日から私を監視し続けているのだ。
もし私がそれを破った時、私の肉を胃袋に納める為に、猫たちはそこに居るのだ』
1 猫頭観音
私たちが法堂教授と共に群馬県の山深い集落を訪れたのは、もう何年も前になる。
民俗考古学研究室のゼミ生による研修旅行と言う体をとったそれは、酷い結果を残し、私の人生を大きく狂わせる事になった。
「へえ。こんな山奥に、あんたらみたいな若い人が来るなんて珍しいと思ったら、観音様参りかい。やっぱり変わってるねえ。外人さんもいるのかい?」
道の駅で野菜を売っていたおばあさんが笑った。
教授と、私を含めてゼミ生四人。そしてなぜか同行している大学図書館司書のアヤさん。
法堂教授はまだ三十半ばとかなり若い。一見すると細い体つきだが、考古学は体力第一と言うモットーで、実は細マッチョだったりする。ちなみに独身。
アヤさんはアメリカはマサチューセッツ州の名門、ミスカトニック大学から派遣されてきた図書館司書だ。なんでもうちの大学図書館にある重要な資料を整理する為に日本に滞在しているそうだ。
凄い美人でスタイルも良く、スポーツもこなす万能才女。彼女を目当てに図書館に毎日通う男も珍しくない。
もっとも、アヤさんの仕事場はもっぱら一般立ち入り禁止の図書館旧館の方で、新館には滅多に居ない。
「日本はいっぱい仏像がありマース。エキゾチックで素晴らしいのデス」
完璧だがイントネーションがずれたアヤさんがおばちゃんと談笑している。
「しっかし、洞田の観音様かい。観光客だってまず滅多に行かねえところだってのに」
洞田集落と言うのが私たちの目的地だった。
群馬県の北西部。山間で人口二百人程度の集落。
群馬は温泉が多い県だが、生憎と洞田付近には名の知れた温泉地は無い。
その地区にある山寺に、どうにも珍しい仏像が祀られているのだと言う。
民俗考古学の分野として、教授がゼミ旅行の場所に選んだのだ。ここでの見学が終わったら、近場の温泉に一泊する予定になっている。
「まあ気をつけてな。それから一個だけ教えておくけど、山のふもとまでは車でも大丈夫だけど、山に車で入ったらいかん。間違って猫様を轢いたら一大事じゃ。歩いて登れない山でもない。徒歩で登りなさい」
愛嬌のあるおばあさんだったが、最後の一言だけは何かに怯えるようだった。
*
「昔々。この辺りで鼠の被害が大きくなった事があった。その被害を聞きつけた旅の僧侶が祈祷を行い、見事に鼠を退散させた。僧侶はこの地を離れる際に、二度と鼠の被害が出ないように一体の仏像と一冊の経文を置いていったそうだ。以来、この地では鼠の被害は出なくなった。その代わり、この洞田の地では猫に危害を加える事を禁じたと言う」
「鼠相手だから猫なんでしょうか?」
「そうだな。しかし、この地には猫に纏わる怪談も多い。江戸時代では、洞田の地に隠し田があると睨んだ藩の役人がやって来た時、あまりにも猫がうるさいので斬り殺したんだそうだ。ところが、その役人は八つ裂きにされて殺されてしまった。猫の祟りとして、この地域に伝わっている」
車を運転する法堂教授が世間話のように今回のゼミ旅行の趣旨を話ている。
旅行とは言え、ここで聞き逃すと後が怖いので、皆必死にメモを取ったり録音していたりする。
「それにしても猫の頭の観音って、どんな物なんだろうな」
「あのね、別に猫の頭が仏像についてるわけじゃないのよ?」
隣に座っていた後輩のゼミ生、アツヒコに指摘する。
「でも馬頭観音ってあるじゃん。あれって馬の頭なんだろ?」
「ブブー。違いますー。馬頭観音は多面多腕の憤怒形で、どっちかと言えば不動明王とかのデザインなんだよ」
「ええ、マジで? 俺、馬の頭してると思ってた。うわ、やっべー」
「馬頭観音はどちらかと言えば別名ですネー。そのルーツは、インドのディーヴァ神話のヴィシュヌ神、その化身の一つである、馬に跨り現れるカルキに近いと言われていますネー」
「馬はいわゆる随獣だ。それが転じて馬の守護神になった。後付け要素だよ」
車の中で雑談のような事をしていると、ようやく目的地に着いた。
千葉県夜刀浦からここまで、結構かかった。高速道路は途中までで、後は通常道路を何時間も走って来たのだ。
山と山の間を縫うような道を進み辿り着いた光景。目の前に山々が壁のように鎮座している光景は、感動と言うよりも大きな圧迫感を抱く。
古来、山が神聖な場所として崇拝されていた理由が本能的に理解できそうだ。
「群馬って秘境っすね」
「群馬の人に怒られるから止めなさい」
宿泊施設何て無い小さな集落。道路以外は交通機関も無い。
古い家も幾つか残っているようだ。
「参拝の許可を貰ってくるから、ここで待っているように」
教授が集落の駐在所を訪ねている間、私たちは周囲の自然を見ていた。
もっとも、すぐに飽きた奴も居たけど。
「ほんと、なんにも無いんだな。コンビニも見当たらない」
「食料とかどうしてるんだろう。病院もずいぶん遠くだよね。診療所とかあるのかな」
程なくして教授が戻って来た。
「参拝して構わないそうだが、やはり車では入らないようにと言われた。歩くぞ」
「ええー、マジですか?」
アツヒコが情けない声を上げた。
「それから、猫を見かけても手を出さないようにと釘を刺された」
「手を出さないって、危害を加えないって事ですか?」
「そうだな。ここは野良猫が多いそうだ。迂闊に手を出せば、酷い目に遭うぞ」
古い神社や山寺には男道と女道と呼ばれるルートがある。
崖のような急な坂道だけど最短距離が男道。迂回ルートが女道だ。
私たちは幾重にも折り重なった女道を登るが、それでも大変な行程だった。
「………また猫が居ます。凄く多いですネー」
「野良猫島って言うのは聞いた事あるけど、山って言うのもあるんですね」
「妙な話だがな。野良猫の平均寿命は約五年。島なら天敵が入ってこない限り繁殖するだろうが、こう言う地続きの山でこんなに群れを成す事があるのか?」
専門外なので教授も首を傾げている。
「よっぽど猫ちゃんたちが住みやすいんですネー」
山歩きになれているのか、アヤさんは元気いっぱいだ。
一方、学生組はほとんどが疲労を隠せないでいる。
中でもアツヒコはごそごそと荷物を漁っている。
「何やってんのよ」
「いやー、ちょっと探し物を」
「疲れて立ち止まったら置いて行くからね」
「いやー、そりゃ勘弁ですよ」
アツヒコはへらへら笑いながらも荷物を漁るのを止めない。
*
山頂まだようやく辿り着くと、開けた空間になっていた。
本堂が一棟だけ。手入れが行き届いているのに人が住むような設備が存在しない。
「………ここも猫が多い」
木に、道に、本堂に、大量の猫が屯している。
雑種が多いが、中には珍しい猫も居るようだ。
「ひい、猫くせえ」
アツヒコの言う通り、動物の排泄から来る匂いがする。
ただ、それほど酷くないのは屋外だからだろう。家で猫を飼っているとどうしても臭いが酷いのだが。
「本堂には粗相をした跡が無い。爪とぎ跡も無い。まるで躾けの行き届いた家猫みたいだ」
これだけの猫が居て、そんな事があるのだろうか。
靴を脱いで本堂に上がる。
施錠なども施されていない。そう言えば賽銭箱も無い。何も盗む物が無いとは言え、不用心ではないか。
「本尊が一体だけ、か。珍しい仏像なら盗まれる事もあるんだが、この大きさなら無いか……」
伽藍とした板張りの本堂の中には、お経を納める台と子供くらいの大きさの木彫りの仏像だけが存在する。
「………何だろう、この空気。乾いている」
「………熱い砂の匂いがしますネー」
「………馬鹿な。この仏像は」
教授が呟きを漏らした。
その言葉に、私たちも仏像に注目する。
「………猫の………頭?」
人の顔ではない。猫の頭を模した獣頭人身の観音像だ。
「うわー、こんな仏像があるんですね」
最近は萌えの名のもとに色々な物が現れている。ゆるキャラもあるし、猫をモチーフにした仏像もある。
しかしこれは百年以上前の代物だと聞いている。
「鼠避けだから猫なんだろうけど、猫萌えの元祖なのかなあ」
「仏像には確かに、人の顔をしていない異形の物もあるが………こんな物は見た事がない。いや、そもそもこれは仏像なのか?」
「猫の顔をしているって、そんなに珍しいんですか?」
「畜生道と言う言葉がある通り、本来仏教的には動物は下位の存在ですからネー。動物の顔を持つ仏像は有り得ないと言うのが基本ですネー」
「………話に聞く限りでは、この経典台には僧侶が納めた経典があるらしいが………本当にある。こんな状況でちゃんと保存できるのか………」
教授とアヤさんは慎重に一冊の和綴じの書物を取り出した。
題が書いているようだけど、全く読み取れない。
それよりも、ある事実に気付いた。
アツヒコが居ない。さっきまで一緒に居た筈なのに。
「ねえ、アツヒコ見てない?」
「そう言えば、本堂に入ってないんじゃないか?」
「………はあ、あのバカ。なにやってんのよ」
「トイレでも探してるんじゃないか? まあ大じゃ無けりゃその辺でできるだろ」
「………何考えてんのよ、もう」
仕方なく、私は本堂の外に出てアツヒコを探して連れて来る事にした。
教授の不快を買うわけにもいかない。
………でも。
私が見つけた時、アツヒコは。
「あ……………アツヒコ? ど、どうなってるのよ!」
「せ………ん………おあ」
本堂の裏でアツヒコを見つけた。
立ったまま身動きも取れず。
その胴体が太い枯れ木の枝で左肩から右の脇腹まで貫通すると言う、壮絶な状態で!
どう見ても手遅れ。いや、そもそもこんな事が起きるのだろうか?
「な、なにがどうなって………」
アツヒコの右手に握られていた物が地面に落ちる。
それは、ボウガンだった。玩具ではなく、狩猟にも使えそうな本格的な代物だ。
なんで、そんな物を………。
私は他のメンバーを悲鳴混じりに呼んだ。
教授が、アヤさんが、他の仲間たちが駆けつけてくる。
「OH………これは」
アヤさんが辛うじて呟くが、他は声を失っている。
ただ一人、教授を除いてだ。
「………猫を撃ったな?」
まだ意識があるのか、アツヒコは教授の問いに微かに首肯した。
「ボウガンの矢で猫を撃ち殺したんだ。だから、木の枝で身体を撃ち抜かれた」
「そ、それってどう言う事なんですか」
「全員本堂に戻りなさい! 早く!」
アヤさんが叫び、私たちをその場所から追い立てる。
でも、私は見てしまった。
まだ息のあるアツヒコに百匹以上の猫が群がりその肉を喰いちぎり始めた事を。
聞いてしまった。
生きたまま喰われていくアツヒコの絶望の悲鳴を。
骨までも噛み砕かれる音を。
余りにも神々しい、猫頭の女神の姿を。
2 ウルタール法典
何があったのか。それを確認する事も無く、私たちはその場から立ち去った。
アツヒコは失踪した事になり、何故か数日後に死亡確認の報が届いた。
遺体も無い葬儀がアツヒコの地元で行われた。教授が旅費を出して私たちも参加した。
山中での滑落死。それがアツヒコの死因だった。
誰も、その事に疑問を持たなかった。
私を除いては。
*
「………ウルタール法典、ですか?」
「ああ。あそこに納められていた経典は、仏典では無かった。ウルタール法典と呼ばれる………禁忌の書だ」
「本来なら回収しなければならない物ですけど、あそこから動かすのは危険すぎますね」
教授とアヤさん。そして私は旧図書館の一室で顔を見合わせていた。
旧図書館に入ったのは初めてで、何故私だけがゼミ生の中で呼ばれたのかも不明だった。
「ウルタールと言うのは町の名前だ。猫を大事にする………いや、猫に危害を加えられない町の名前だ。その街の法を書き写した物がウルタール法典と呼ばれる代物だ。現世に持ち出された例は驚くほど少ない。現物、しかも和訳本に出会ったのは初めてだ。使用された例に至っては、ミスカトニック大学に論文提出ものだ」
「ボクも幻夢郷以外では見た事がないよ」
「そんな物が、一体なんだと言うんです」
「………鼠避けの為に猫を守る結界をウルタール法典で作ったんだ。その僧侶はとんでもない曲者だ。あの守護の中では猫は旧き神、バーストによって守られる。危害を加えるものは、バーストの力によって報復される。アツヒコはボウガンで動物を撃つ事を趣味にしていたらしい。奴はそれをあの場所でやらかして、神の怒りを買った。矢で撃ち抜かれるように、木の枝で貫かれたんだ」
余りにも不自然な状況。
荒唐無稽の説明にも理解できそうな気がした。
何よりも私は見たのだ。
ネコ科の猛獣を従える、余りにも神々しい、猫の顔を持つ女神。
「………あれが………バースト」
「………やはり、感応しているか。君は」
「………え?」
「あの場でバーストの気配を感じ取ったのは、ボクたちを除けば貴女一人。この意味がわかるかい?」
「い、いえ」
「バーストは古代エジプトで信仰され、後にギリシャやローマで一部の魔女たちが祈りを捧げた女神でもある。貴女にはその才能がある。その身体に流れる魔女の血が、バーストの力に感応したんだ。いや、不幸にして、貴女はこちら側の人間になってしまった。世界の真実に巻き込まれた。もう戻れない。ボクたちは君のような人間を保護しなければならない」
*
世界の真実。
それは余りにも暗く重く、そして絶望に彩られている。
私の人生は変わってしまった。
あの日、バーストの力を感じたその時から。
猫は、ムーンビーストが大好き。美味しいから。ひいいいいいいい。