後悔ノ始マリ
~第二話「後悔ノ始マリ」~
雛陽院家を継いで早3ヶ月、7月の出来事だ。まだ涼しい風が吹く中で、蘭子が高熱で倒れた。
「蘭子!しっかりしろ……っ」
専属の医師でさえも、蘭子を苦しませる病魔が何なのかわからなかった。謎の発熱、急な嘔吐、喘息……これまでなかったことが急に起こり始めた。
医師は病名と詳細がわからない限り治療不可能と言った。結局は治療を放棄したということなのだろう。
この時代、十分な薬の開発もされていない。お金はあるのに、手に入れる『物』がない。
「蘭子……」
僕は自分の無力を恨んだ。蘭子を助けられる力が欲しいと願った。
「でも、神など……この世には存在しないんだよな……」
夜中、蘭子の落ち着いた寝息を聞いて、僕は自分の寝室に戻る。
「神でも、天使でも、悪魔でもいい!!お願いだ……」
叶う筈がないとわかっていても、願わずにはいられない。それだけ、今の僕に心の余裕がなかった。
でも、もう少し考えるべきだった。
「蘭子を……助けてくれっ!!!」
この僕の叫びが、良からぬ者を連れてくる前に……
「……お呼びでしょうか」
「……」
一瞬のことだった。何の前兆もなしに、『それ』は僕の前に現れた。
そして『それ』は間違いなく僕に話しかけている。丸縁の眼鏡をかけた執事姿の男性。
「お前……誰だ?」
「私は雛と申します。貴方様は、雛陽院家の当主様でお間違いありませんね?」
「え……ああ。そうだが……」
僕は目の前の状況がいまいち呑み込めていなかった。目の前で話すこいつの『尻尾』を見る限り、紛れもなく――
「――悪魔……だよな」
「はい?そうですが、何か」
「はっ!?」
悪魔だと……?確かに神だろうが悪魔だろうが、何とかしてくれと願ったのは僕だ。
だがこんな紳士的な悪魔があるだろうか……いやそもそも存在していたのか。
「いや、だが……」
待てよ。悪魔といえば契約……契約といえば代償と相場が決まっていると聞いたことがある。
つまり、僕はとんでもない者を呼び出してしまったんだ!
「すまん!ぼ、僕は間違えて君を呼んでしまったらしい!だから帰ってくれないかっ」
僕は慌てて顔の前で手を合わせて必死に願った。頼むからこれ以上この家を不幸にしないでくれ……
「……貴方様は何か誤解をされているようだ」
「……誤解?」
恐る恐る悪魔、雛の顔を窺う。彼は僕と目が合うと、にっこりと笑みを見せた。
「私は代々、雛陽院家にお使いする者でございます。ただどういう経緯か、私の仕えていた五代目当主様は、私をあんな刀に封じ込めてしまわれて……」
「刀?」
僕ははっと、自分の手で土を掘ったときのことを思い出した。
「刀って、あの小刀のことか?雛陽院家の家宝だった……」
「家宝?とんでもありませんね。あれは天からの贈り物、悪魔封じの刀ですよ」
そう言うと雛は、片方の手から影のようなものを出して、それを長い刀の形に変えた。
「このような刀だったはずです。見覚えはありませんか?」
「いや……僕が埋めたのは、ただのそこらへんにありそうな小刀だった」
「では、当主様が作り直させたのでしょう。埋めた……ということは、まだあるんですね」
天からの贈り物……雛の言っていることが正しければ、やはり先代は悪魔を追い払う為にそういうことをしたのか。なら、余計悪魔の言葉なんて真に受けちゃだめだ。
「どうして先代が悪魔なんかに頼っちゃったのか知らないけど、そういう対処をしたってことは、もう必要なくなったからじゃないの?」
「確かに、そうかもしれませんね。ですが今ここに、私を必要としている方がいらっしゃるではありませんか」
僕は雛の言葉を聞いて、ごくっと唾を飲みこんだ。
「それはっ……だが、悪魔と契約を交わしてまで――」
「貴方様の望みは何ですか?神はそれを聞き届けなかった、だから私がここにいる!私なら、何でも叶えて差し上げますよ」
「僕の……願い……」
頭の中で、苦しむ蘭子の姿が思い起こされる。蘭子は大切な妹で、数少ない家族。
「蘭子を……助けたい」
「ですから、私にそのお手伝いをさせて頂きたいのですよ」
雛は微笑みながら言う。まるで誘惑の言葉、甘ったるい囁き……それが僕の思考を狂わせた。
「僕の願いを……」
「お兄……様」
「っ!?」
僕は後ろからの弱々しい声を聞いて我に返った。後ろに振り向くと、蘭子がよろよろとこちらに歩いて来ていた。
「蘭子!どうしてここに……」
「お兄様……眠れないの。苦しくて……ごほっこほっ!」
蘭子が苦しそうに咳き込み始め、僕は慌てて蘭子を抱き締めた。
「蘭子……僕に、できることをさせてくれないか?」
既に僕の中で、決断できていた。
「ごほっ……お兄、様……?」
蘭子は両手を伸ばして、僕の頬に触れた。
「ごめんねっこほ……心配かけて……こほっごほっ!」
「蘭子っ!!」
蘭子は両手で口を塞いだ。だが指の隙間から血が飛び散り、僕の頬に付いた。
「あ……ああ……」
蘭子は口元に血を垂らしたまま、眠るように僕の腕の中にいた。頭の中が真っ白になって、ただどうでも良くなった。
「雛……蘭子を、助けてくれ」
「そのお言葉を、心待ちにしておりました」
雛は嬉しそうにお辞儀をすると、腕の中にいる蘭子を影のような何かで包み込んだ。
「……」
それから僕は、放心したように何も口に出来なかった。