□日常の中のMMO
「奈緒、何やってんの? 早く帰ろうよ」
「んー、ちょっと待って」
「今日は駅前のフルーツパーラーでパフェ食べようって約束してたじゃん」
「わかってるよ。先生に今度配るプリントの端のスペースにイラスト描いてくれって頼まれちゃって。でも今終わったから」
「奈緒って先生に頼られてるよねー。普通、生徒がそこまでやらないって」
確かにあの担任は頼み事が多すぎだと思う。全部引き受けて相応にこなすからこそ、さらに頼られるという悪循環に陥るのだ……とはわかっているのだが。おかげで私は、当日中に仕事を終えるための放課後居残りすら日常茶飯事になっていた。すべては家に仕事を持ち込みたくないが故の意地だ。何か自分が会社員になったような気がしてきた。
「先生に原稿渡してくるから、校門で待ってて!」
「早く来なさいよー」
フルーツパーラーの広告を持って待ちくたびれている友人の横をすり抜け、私は職員室に駆け出した。
「あー美味しかった。やっぱりここ美味しいよねー」
仕事後の一杯はやはり格別だ。勿論酒ではないけども。
「でも1200円は高いわ。高校生が毎日1200円も出せるわけないし」
「あんた毎日来るの前提? うけるんですけど」
別の高校に進学した中学時代の友人などにこれを話すと大層驚かれるのだが、うちのクラスにおいて、男子の中には抗い難いヒエラルキーが存在するようだが、女子には特に目立った階級差、階層毎のグループ形成というものは無かった。どういう塩梅か、うちのクラスの女子はヒエラルキーで言う「中間層」に位置する子ばかりが集まり、それ故に、クラス内で最も派手な子と私程度に地味な子が放課後の相席をすることもよくあった。
「そういえば奈緒ってさ、『オタ野』の世話させられてるじゃん。家まで行かされたって本当?」
大野君にはあまりヒネリの無い『オタ野』というあだ名がある。説明しなくてもその響きでわかるかもしれないが、侮蔑の意図が込められていた。女子間には格差が無くても、男子の格差は女子の間でも適用されるのである。
「あー、うん、まあね」
「マジ!? 襲われたりしなかった?」
「そんなことあるわけないって。大野君って結構普通の子だもん」
「普通ってありえないっしょ。アイツらオタク軍団ってアタシら目の敵にしてるし。むかつくわー」
「そーそー、『魅力的な女はアニメの女だけだ』みたいなことわざと聞こえるように言うの。キモいっての」
「あー。まぁねぇ……」
正直な話、大野君宅訪問のあの日までは私も似たような印象を抱いていたのだが、≪アンダンテ≫との邂逅以来、学校でも大野君と一言二言話をするようになり、その印象は変わりつつあった。
「友達と話してるときの大野君の言動はちょっとどうかと思うけど、一対一で話すと意外と普通だよ」
「だからありえないってー。そもそもオタ野と一対一ってのがありえなさすぎだし」
「クラス委員だからオタ野と一対一で対話させられるんだよね。奈緒に同情するわ……」
ここで熱弁をふるっても、みんなの印象は変えられそうになかった。それに、友達と徒党を組んだときの大野君は少々調子に乗りすぎな嫌いがあるのも事実だ。私は大野君の名誉を回復することを諦め、目の前のパフェのクリームを舐める作業に戻った。
「じゃあね奈緒、明日は買い物行くから付き合ってよね!」
「アタシも行くからね。明日は先生に変なこと頼まれないでよ?」
「大丈夫だってば、じゃあね」
私は手を振って、駅に向かう友人を見送った。
友達付き合いを煩わしいと思ったことは無い。みんな気の合う子ばかりで、一緒に遊んでいて楽しいと思っている。それに学校の『仕事』も、大変ではあるものの、自分が頼られているというのは悪い気がしない。だがそれでも、≪アンダンテ≫のことを考えたとき、家に帰れる瞬間を待ち遠しく思うのも事実だった。
今日もようやくながら、その時がやって来たのだ。
私の家は学校から近く、徒歩で行き来が出来る。だからこそ多少の居残りが苦にならないのだ。夕暮れのオレンジ色に染まる町を抜けて、一戸建ての立ち並ぶ住宅街にあって一際目立つマンションのエントランスに駆け込んだ。大野君の家ほどではないだろうが、オートロック付きの私の家はそれなりの水準の、住み心地の良いものだと思っている。
家に帰ると、台所で晩御飯の支度をしていた母が顔を出して、居間の時計と私の顔を交互に見てから苦い顔をして言った。
「おかえり。あなた、あまり遅くまで外で遊んでちゃいけないって言ってるでしょ?」
「だって、また先生に仕事頼まれたんだもん。頼られてるんだよ? 私って」
フルーツパーラーのことは伏せてそう告げる。まあ仕事をしていたのも事実だし、そのせいでその後の予定が遅れたのも事実なのだ。
「そう……そういうことなら仕方ないわねぇ」
母の許しを得た私は、これ以上の詮索を避けるべく仕事で疲れたという雰囲気を出しながら、自分の部屋に逃げ込んだ。
するすると制服を脱いで手早くハンガーに掛ける。可愛さに一目ぼれして入学前には着るのが楽しみだったブレザーや濃紺のチェックスカートも、そして最も気に入った赤いリボンも、毎日着ているとやはりありがたみは薄れるようだ。人には見せられない使い込まれた部屋着に着替えたときに、私は「自分の時間が始まった」という安心感を得る。
今日はまず、村を離れて北の大きな街へ行ってみよう。そんなことを考えながら、『グラフィカルヘッドギア』を頭に乗せた。
ゲームを起動すると、もはや見慣れた村の光景が映し出される。ここ数日、拠点として使わせてもらった「イベントフラグも無い村」だ。村の番人のように酒場に常駐しているロビン・フッドに「自分は情報とか遠い地の雑貨とかを収集しては、こっちに戻って売って金策している『ノエル』っス。リズちゃんが望むならどんな情報でも売ってあげるっスよ」と自己紹介されたのも、もう数日前になる。思えば、ゲーム内における私の身体である『リズ』のレベルは村の外を徘徊するモンスターを倒して上げたが、自分自身のレベル―ゲームプレイにあたって必要な技術、知識は『ノエル』に教えてもらって向上させたのだった。
村を出る前に一言御礼をしておこうと思い、酒場の扉を開けると、『ノエル』の隣に、赤い頭髪の、使い込まれた鉄の鎧を身に着け剣を佩いた男が座っていた。私はその姿を見ておや、と思った。何故だろう、量産品の装備を着けているだけなのに、何か見覚えがある。はっと気づいてメニュー画面を開き、キャラクター名の表示をすると、『アッシュ』とあった。間違いない。あの時一瞬だけ私が体験した、あのキャラだ。
「大野君!」
はっとした表情で『アッシュ』がこちらを振り返る。一瞬の間の後、あわてて私の元に駆け寄って来た。
「お前、野口か? リアルの名前大声で呼ぶなよ!」
「あ、ごめんっ……」
私とて、ゲーム暦は長いのでMMORPGのタブーは心得ている。曰く、個人情報の類を晒すことまかりならぬ。心得てはいるのだが、普通に声を発して会話をする≪アンダンテ≫では、日常との区別がつかなくなってしまいがちで、ついつい現実を踏襲してしまうのだ。だが今のはまずかったかもしれない。
「ほ、ほんとごめん……」
「いや、まぁ今回はいいけどさ。これから気をつけろよ」
意外にも、大野君……もとい『アッシュ』はあまり怒っていなかった。気にしないタイプなのか? それは無いか。私に気を使って抑えてくれてるのだろう。
「いつからやってんの?」
「あ、えーと……一週間くらい前からかな」
「それで、お前レベルいくつなの?」
「え、れ、レベル? 23だよ」
「一週間で23か。のんびりしてるな」
突きつけられた意外な言葉に、私は自分と大野君の意気込みというか、熱意の違いを見た。私もこの一週間、家に帰ったら脇目も振らず≪アンダンテ≫に飛びついて「私生活を捨ててるな……」と後ろめたく思うほどのペースでやっているのだが。
「のんびり、かぁ。まあ自分のペースでやってるよ」
「良かったらレベル上げくらい手伝ってやるぞ。あと装備とかも俺の使い古しでよければあげてもいいし。それともイベント手伝おうか? 俺ならレベル23のイベントくらい一瞬で終わらせてやるぜ」
大野君は私など到底追いつけない程にゲームを進めているだろう。そして今のやり取りでわかったが、おそらく大野君は過程より結果のみに価値を見出すタイプだ。私はゲームを進めるにあたって、壁を乗り越える困難も楽しみたいと思っていたので、大野君の厚意を遠まわしに避けた。
「そ、そう……まあ、必要になったらお願いするよ」
「何でも言ってくれよ。俺、このゲームちょっと得意だからさ。何でもやってやれると思う」