■分水嶺
≪アンダンテ≫の世界は実に良く作られている。草木は風にゆれ、空は高く、雲はたなびく。石畳の街道は町に通じ、赤い屋根が鮮やかな石造りの家の立ち並ぶ町には、パンを焼く者、神に祈りを捧げる者、商売に精を出す者、駆け回る子供、浮浪者、犯罪者……コンピュータが制御する、数多の『人』が居た。中世ヨーロッパベースのファンタジー世界が舞台だと聞いたときにはありきたりだなと思ったものだが、今まではモニターの向こうにのみ存在した幻想の世界にVRの技術で触れられるというのは思った以上の衝撃だった。なるほど、お馴染みの定番世界だからこそ、比較して、その進化に驚くことができるのだ。
俺はギルドの集合場所に使ってる町の片隅の酒場で、仲間と駄弁っていた。
「そもそもお前の話は嘘ばっかりだけど、今回のは特に嘘臭いな。何だよそのアニメにありそうな話」
「いや、マジっスよ。≪アンダンテ≫のプレイヤーが現実世界に帰れず、ずっとこの世界を彷徨ってるって。結構大きな噂になってるんスから」
俺は呆けて、冗談としか思えないような話を喋り続ける男を見つめた。緑色を主体とした布製の服に、羽飾りの付いたこれまた緑色の帽子。森の中で敵に見つかりにくく動きやすいようにという装備だ。その、緑色ずくめの俺のギルド仲間―情報を売り買いすることを生業としてるらしい―は、毎日のように誤情報でギルドを危機に追いやるのだが、今日のは特に酷かった。
「そんなことが起きてるんだったら現実世界でニュースになるだろ。いくらなんでもその話は無いわ」
「でもアーさん、考えてもみてくださいよ。ただでさえ『怪しい機械を頭に被って神経を操るゲームだ』なんて発売前から叩かれた≪アンダンテ≫に、たとえ嘘でもそんな噂が蔓延するようになったらマジで規制されるかもしれないっスよ?」
この男は俺のことを「アーさん」と呼ぶ。間抜けだから止めてくれと何度も頼んだが直そうともしないので、最近は好きに言わせている。が、やはりそう呼ばれる度に心の内にモヤモヤしたものを感じるのだ。しかし今はそれより、こいつの言った一つの単語が心に引っかかった。
「規制、か……」
俺が『ヒクイドリの羽』の入手に四苦八苦していた頃から一月が過ぎた。もともと前評判も高いゲームだったが、初期プレイヤーの口コミもあってますます人口は増加し、≪アンダンテ≫は社会現象と呼べるほどの盛況を呈していた。
「もしも規制されるならさ、レア・モンスターを……せめて『カーネイジドラゴン』だけでも倒したいよな」
「よりによって『カーネイジドラゴン』っスか? アーさんって廃人思考っスよね。出現はランダムでクソ強い、廃人ギルドが討伐に挑んで全滅したって話もよく聞くっスよ。うちのギルドマスターもああいう廃人向けのやつには手を出さないって明言してるし」
「マジかよ、やる気無いよなうちのマスター」
「だってマスターはサラリーマンっスから。一日中≪アンダンテ≫に張り付いてるような、ゲームに人生捧げられるアーさんとは違うんスよ」
「うるせえよ」
一ヶ月前の、野口奈緒が家に来たあの一件以来、学校へは行くようにしているつもりだった。今でも週に2、3日は休んでいるが。
「俺が廃人プレイしてたのなんて最初の間だけだろ。一日中張り付いてるとか、もう無いっての」
「うんまあ、アーさんの廃人っぷりは置いとくとして、マスターがああいうスタンスだし、うちのギルドでレア・モンスター討伐とかは期待しない方がいいっスよ」
ギルドとは簡単に言えば仲間の集まりだ。いくら「ネットを介して見知らぬ人と冒険をするゲーム!」といっても、倒したい敵が現れるたびに即興で仲間を募るというやり方では手間もかかるし、何よりその見知らぬ仲間が問題児だった場合、多分に面倒なことになる。そいつが足を引っ張ったせいでこっちまで『デスペナルティ』を食らうようなことになっては目も当てられない。そこで、信頼できそうな人間で集まり、お互いを仲間と認定して、以降はその仲間で協力してゲームを進めていくのだ。ギルドは集まった人間のプレイスタイルによってギルドそのものの方向性も変わってくる。ゲーム進行の相互扶助を目的としたギルド。ゲームの進行より他者との触れ合いに重きを置くギルド。そして、他人よりも先に進み、強大な敵を倒し、最も優れたプレイヤーになるためのギルド。≪アンダンテ≫のために現実世界の生活を捨てた者―『廃人』によって構成されるそれは、そのまま「廃人ギルド」などと呼ばれ、畏怖されていたりする。俺の属するギルドは触れ合い重視に分類されるだろう。ただし俺はギルド仲間と比べて『廃人』の傾向がほんの少し、本当にほんの少しだが強いために、仲間からも一目置かれる存在となっていた。
「……まあ、冗談だよ。決まってるだろ、冗談。俺だってマスターのスタンスを承知の上でギルドに入れてもらったんだしな。今更、廃人路線に進みたいから協力しろなんて言わねーよ」
その場はそう言って話を終えたが、内心で俺はレア・モンスター狩りを諦めきれなかった。他人が倒せないものを倒す優越感。レア・モンスターを倒すことでのみ入手できる高性能なレア・アイテム群。どこかの廃人ギルドに入れてもらおうかとも考えたが、あの連中のスタンスには付いていけるか不安だった。真の廃人プレイヤーは常に≪アンダンテ≫のことだけを考え、常に≪アンダンテ≫と共になければならない。食事や睡眠は勿論、トイレのための退席すら極力避けるのである。だから廃人プレイヤーの間ではオムツの着用が常識であるらしい。さすがにそこまでする気は俺には無かった。
俺はそんな調子で、日々煮え切らない想いを抱えたまま凡人向けのコンテンツを消費し続けていた。
「さて、全員揃ったかな? じゃあそろそろ、我々『ギルド・エスペランサ』定例会議を始めるよー」
よく通る声でギルドマスターが呼びかけると、酒場の客全員がマスターに注目する。ゲームの進行に関わり無い町の酒場は立ち寄る者も少なく、今もうちのギルドメンバーの十数名以外にはコンピューター制御のノンプレイヤーキャラクター(NPC)が居るのみだった。
「まずは活動報告から。僕はクエストランク6まで進めた。もしこの中で、ランク6まで進んでいない人がいるなら、みんなで手伝おう。どうかな?」
「なあマスター、気遣いはありがたいけどさ。たぶんマスターが一番遅いよ。俺たちのほうが長い時間このゲームやってるもの」
ははは、と笑い声が沸く。現実では成功者の部類に入るサラリーマンも≪アンダンテ≫の中ではゲームに割ける時間が少ないという理由で下に見られる存在なのだ。
「わかった、みんなランク6だね。それじゃあ……クエストランク7になった人は?」
ランク7という言葉を聞いた途端、さっきまで笑ってた者も急に黙り、辺りは静まり返る。
「……ランク7は無理だよ、マスター。クリア条件が厳しすぎる。あの『ケルベロス』を討伐しなければいけないんだぞ?」
「あーうん、そうなんだけど……」
地獄の番犬・ケルベロス。神話をモチーフに作られたそのモンスターは、三つの頭から繰り出される強力な攻撃と素早い獣の胴体を持つ、初心者泣かせの難敵だ。≪アンダンテ≫においてゲームの進行度を示す『クエストランク』だが、ランク6と7の差は、ゲームに慣れた玄人と不慣れな素人を分かつ壁となっていた。
「まあ、ランク7は憧れるよなー。いろんな制限が解除されて、お城とかにも入れるらしいぞ」
「でも無理だよ。俺の知り合いが3パーティ9人で挑んだけど1分で瞬殺されたって」
「まともに攻撃を食らったらほぼ終わりだからな。敵の攻撃をかわしながら遠距離から魔法とか弓矢を当てるってのがセオリーらしいけど、俺たちの技術じゃなあ……」
「まー落ち着いて聞いてくれ。確かに『ケルベロス』は強いらしいし、今まで僕たちはあまり真剣にモンスター討伐をやったりはしなかった。マイペースが信条のうちのギルドではあまり高いハードルを越えることを強要するような真似はしたくなかったからね。でも、僕たちはゲームを、MMORPGをやってるんだ。せっかくこのゲームに用意されたモンスター討伐という楽しみを無視しても勿体無いんじゃないか。一回くらい本気で討伐やってみてもいいんじゃないかな?」
「マスター、それって……」
「うん、そう。うちのギルドのみんなで、『ケルベロス』討伐に行こうってことだよ」
マスターがはっきりとそう言うと、またメンバーは口を噤む。周りを見回し他のメンバーの表情を伺い、メンバー一同の考えが同じことをお互い確認すると、一人が口を開いた。
「む、無理だよ……『ケルベロス』だよ?」
「確かに勝つのは難しいかもしれない。でもゲームなのにやられることを恐れるなんて馬鹿らしいじゃないか。ずっと勝てそうな敵の相手だけするのもつまらないだろ?」
「でも、デスペナルティが……」
「まあ、それは確かに痛いかもしれないけど……取り返せないわけじゃないよ」
「でもなぁ……」
明らかに乗り気じゃないメンバーを必死で説得するマスター。普段はマイペースで、決して難度の高い要素に手を出さない人だったのに、いったい何がこの人を変えたのだろうか。しかし何の偶然だろう、たまたまこのとき発した普段と違うマスターの言葉は、刺激を求めて燻っていた俺の想いと一致していた。
「やろうぜ。俺も『ケルベロス』と戦いたい。ランク7になって、もっともっとこのゲームを遊びつくしてやる」
「アッシュ……君ならそう言ってくれると思ってたよ!」
自分で付けた自分のキャラの名前ながら、こう面と向かって「アッシュ」と呼ばれるとどうもむず痒くなる。無論「アーさん」よりはマシだとも思うが。恥ずかしさを隠すように俺は続けた。
「『ケルベロス』は一人が囮になって他の奴が攻撃するのがセオリーだ。俺が囮になるよ。そうすればみんなはデスペナルティのリスクも減るだろ」
「マジか……」
「アッシュってプレイヤースキル高いし、アッシュが盾の役をやってくれるんなら……」
「すまないなアッシュ、そこまで言わせてしまって。でも確かに、アッシュの負担が大きくなってしまうが、僕たちが『ケルベロス』に勝つにはアッシュに頼るしかない。それを含めた上で、アッシュにも、みんなにも聞きたい。どうだろう、『ケルベロス』討伐、やってみないか?」
また黙り、お互いの顔を見合わせるメンバー。しかし今度はさっきと違い、誰の表情も期待感に満ち溢れていた。もう一押しあれば皆腹をくくるだろう。俺がその一押しをする。
「きっと勝てる。みんなレベルも低くないし装備も上等だ。技術面の問題は俺が何とかする。やろう」
メンバー全員が俺を見る。尊敬のまなざしで。そう、皆に頼られ、憧れてもらえるから、俺はこのギルドに居続けているのだ。