□終の棲家
――長い長い夏が終わり、二学期が始まった。
夏の余韻を感じる暑さの中、休み気分の抜けない生徒が集まる教室はやはり、あの話題で持ちきりだった。私は努めて平静を装い、春と変わらぬ態度で居るつもりだったのだが、周りは明らかに私に気を遣っているようだった。先生も私に物事を頼むのをすっかり止めてしまった。
春先の多忙が嘘のように、私は暇になった。不意に出来た時間を使って私は、新聞や週刊誌から例の事件に関する記事を切り取ったりしていた。
大野君の両親が腐乱死体となって発見されたのは、夏休みに入ってからのことだった。寝ているところを刃物で刺されて絶命し、その後数週間にわたって放置されたらしい。父親の方は特に損傷がひどく、刺された後さらに頭を何度も殴られた形跡もあったそうだ。警察は行方不明の息子――大野君を、重要参考人として探しているらしい。
私が大野君の家に行ったのは、ご両親が殺されてすぐの頃だ。そのせいか私は夏休みの間、幾度も警察の人に大野君のことについて何か知らないかと聞かれた。特に「何か怪しい雰囲気で怖かったから家に入らず引き返した」という部分は自分でも説得力が無いと思えるあやふやさで、私が犯人と疑われるのではとすら思ったりもした。あの時の感覚は今でもうまく説明ができない。屍臭を感じたのかもしれない……最後はそう言って警察の人たちには納得してもらったのだが、正直な話、あのとき感じた恐怖感は臭いなどというわかりやすい因子ではなかったはずだ。説明のつかない恐怖……それは事実を知った今になって推察すれば「殺人の現場という現実離れした場所が放つ狂気に気圧された」というのが最も近いのかもしれない。
大野君の行方は未だにわかっていない。高校生が一人で逃げられる場所なんて高が知れている――そんな当初の楽観的な空気を裏切るように、警察は彼の痕跡一つ見つけることが出来ないでいた。
「『ノエル』君?」
「あ、久しぶりっスね。調子はどうっスか?」
事件が明るみに出てしばらく経った後、私は一度≪アンダンテ≫にログインしたことがある。警察に根掘り葉掘り聞かれてる間はそんな暇も無かったし、一息ついてからも、大野君を連想する≪アンダンテ≫というゲームになんとなく不気味さを感じて、ログインする気になれなかったのだ。でも、あることが気になって私はもう一度あのヘッドギアを被る決意をした。
大野君は、あの大事件を起こしてすぐに、姿を消したのだろうか?
先天的に普通の人と何かが違っていて、息をするように他者を殺すような人間も、もしかしたら居るのかもしれないが、少なくとも大野君にそれは当てはまらないと思った。親子の仲は良くはなかったかもしれないが、それでも殺人という手段を選ばなければならないほどの、動機――大野君がそうまでして得ようとした物は何だったのか。それは、その「何か」を得た後の大野君の行動を知れば理解できるかもしれないと思った。疑問の答えを知っていそうな人物に接触しよう。大野君――『アッシュ』と親交がある人物。そして、私とも接点がある人物……。私にとっての≪アンダンテ≫始まりの地、田舎の村の、酒場の戸をくぐると、あの日、私が初めて自身のキャラでこの世界に降り立ったときと同じように、カウンターでグラスを傾けている狩人風の男の姿があった。私は疑問を解消すべく、彼に話しかけた。
「そんなこと、あったんスか……あの事件はワイドショーでも連日報じていたし、もちろん知ってますけど……まさかアーさんが」
「『ノエル』君は彼と仲良かったみたいだし、教えた方が良いかなと思って」
事情を話すと、『ノエル』君はさすがにショックを受けているようだった。
「でも、あまり他の人には言わないでね。面白おかしく騒ぎにさせられちゃうと、私も困るっていうか……」
「情報屋っていっても分別くらいはあるっス。安心してください」
「ありがと。それでね、『ノエル』君に聞きたいことがあるんだけど。『アッシュ』を最後に見たのって、いつだった?」
「あっ……」
俯きがちに目の前のグラスを見つめていた『ノエル』君が、私の問いで不意に顔を上げた。
「……事件が起きたのは、7月、だったスかね、確か」
「何か、気になることがあった?」
「……俺、事件の後のアーさん、見てるっス。アーさん、普通にゲームやってたっス」
「やっぱり……」
事件記事のスクラップに目を通していて、ひとつどうしても気になった記述があった。それは「事件後、父親のクレジットカードを使用した記録がある」というものだ。逃走の為にいろんな物を買い揃えたとか、そんな普通の推測で記事は締めくくっていたが、私には別の可能性――あまりにも異常で考え難いことであるが、大野君の買ったものに心当たりがあった。
大野君は、課金アイテムを買ったのではないか?
私が訪れ、恐怖感に気圧され泣いて帰ったあの時、大野君は間違いなくあの部屋に居た。血塗れの死体二つが放置された、地獄のような家の中で彼は一人、淡々とゲームに興じていたのだ。親を殺して手に入れた金を使って、ゲームキャラの強化をしていたのだ。
「話したりはした?」
「いや、それが……様子がちょっと変で、事情を知った今思い返せば納得なんスけど、話しかけても何も答えてくれなかったっス。ひたすらモンスター狩ってたみたいっスね。四六時中ログインしてたから、廃人になるのかななんて心配してたんスけど……」
「本当に、普通にゲームやってたんだね……」
「いや、それが。しばらくはそんな感じだったんだけど、ある日から急に、アーさん動かなくなっちゃったんスよ」
「動かないって、ログアウトしたってこと?」
「いや、本当にただ突っ立てるだけで動かないでそこにずっと居続けてたっス。最初のうちは、寝落ちかな? なんて思ったんだけど、それが数日続いて、ある日突然動いたかと思ったら、そのままどこか行っちゃって、それっきりっス」
「どこか? どこかってどこ?」
「全然わからないっス。例によって話しかけても無視だったし、その時は『ソロプレイしたいときもあるよな』なんて軽く考えてたんで、そのまま放置してたっス」
「……それで、その後は?」
「だからそれっきりっス。それ以来、アーさんの姿は見てないっスよ」
私は、不自然だと感じた。大野君の行動は、目的を達成した喜びでも、後悔の念でもなく、全く別な感情によってなされているように思えた。取り付かれたようにモンスターを狩り、そして『ノエル』君の前から姿を消しふらふらと彷徨う大野君を想像した時、私は不意に恐ろしいことを考えてしまった。
大野君は、今でもこのゲームに存在しているのではないか? クレジットカードも今は警察が押収しており、銀行の口座からもお金が引き落とされた形跡は無いという。そんな状況で高校生が一人、警察の手を逃れ逃げ続ける、そんなことが可能なのだろうか? 大野君は、警察にも見つけられないような……例えば「ゲームの中」に、逃げ込んでしまったのではないだろうか?
冷静な時なら笑い飛ばせそうな幼稚な夢想。しかしその時の私にはそれが、新聞や週刊誌の記事よりも納得できる真理のように思えた。
サーチ機能を使って、≪アンダンテ≫内に現在『アッシュ』というキャラが居るかどうか調べてみよう……そう思ってメニューを開いた私は、そのメニュー画面の羅列に違和感を覚えた。見慣れない項目が増えているのだ。「スキル」というその項目を、私は今まで見たことが無かった。見落としていたなんてことは無いはずだ。今まで≪アンダンテ≫をプレイして幾度も開いたメニュー画面だ。
「ねぇ……『スキル』って何?」
「え、な、なんスか突然。スキルってのはキャラ作成時にランダムで付与される特殊な能力っすよ。レアだし大抵は使える能力が付与されるんで廃人なんかはスキル持ちのキャラが出来るまでキャラ作成を繰り返したりするらしいっス。でもその代わり、スキル持ちのキャラはステータスが低かったり、敵の思考ルーチンが変化してゲーム難度が上がったり、リスクもあるんで無ければ無いで困らないような物らしいっスけど。ちなみに、キャラ間の能力差は総じて均等になるようバランスをとっている、てのが公式の見解っス」
「じゃあさ、そのスキルって、最初は持ってないキャラが途中で使えるようになったりするの?」
「それは無いっスよ。スキルも含めたキャラステータスは最初の段階ですでに決まってるっス」
「そう……」
やはり見落としだったのか? 腑に落ちないまま何の気なしにその増えた項目「スキル」を確認してみた私は、そこに表示された名前に悲鳴を上げそうになった。
スキルメニューにはたった一行、「ash」と書かれていた。ash……アッシュ。間違いない。大野君だ。大野君はやはり、この世界で亡霊のように存在している。そしてそれは今、私のすぐ近くに……
「ご、ごめん! 私落ちるね!」
「え、ど、どうしたんスか急に」
説明すらせず、呆然としている『ノエル』君を一人残して私は慌ててログアウトする。現実世界に戻るとヘッドギアを乱暴に剥ぎ取り、投げ捨てた。それでもなお、首筋に白い幽霊がまとわりついている感覚が抜けなかった。
二学期が始まると、私は以前にも増して学校での活動に精を出すように努めた。始めは気を遣って私と距離を置いていた友人たちも、だんだん以前のように私をあちこちへ連れまわすようになっていた。
「奈緒って二学期入ってだらけたよねー」
「えー? そんなこと無いよ」
「だって、春の頃は先生の用事とか引き受けて点数稼ぎしてたじゃん。それが最近は私たちと遊んでばっかり」
「そうそう、優等生だったのにね」
「頼まれないだけだよ、頼まれればいつでも頑張るよ、点数稼ぎ」
「うわ、自分で言うなって」
「ねえだったら奈緒、明日買い物に付き合ってくれる? 終わったらあの店のパンケーキ食べに行こうよ」
「いいよ、あの店行列すごいから早めに行こうよ」
私は、自分でも滑稽に思えるほど必死に、大野君と≪アンダンテ≫のことを忘れようとしていた。努めてパソコンの世界を矮小に扱い、現実の付き合いを大切にするようになった。ゲームの世界の住人が一人消えただけじゃないか。NPCが消えたのと同じだ。気にすることは無い。自分にそう言い聞かせながら。
「ただいまー」
「おかえり。また友達と遊んでたの? もうちょっと真面目に勉強しないと……」
「わかってるよ。でも高校生が遊べるのって今しかないんだから」
「そんなこと言ってると、周りの子にすぐ追い抜かれちゃうわよ」
「別に競争してないし。ご飯できたら呼んでね、それまで寝るから」
「もう……」
家に帰り、部屋の扉を閉め、着替えもせずにベッドに倒れこむ。日常でどれだけ虚勢を張っても、一人になると抑えていた胸の内の感情が溢れ出てしまう。部屋を見回すと、机の上に埃を被った『グラフィカルヘッドギア』があった。
「NPCと同じはず、ないじゃない……」
私は消えた大野君のリアルを知っている。殺された大野君の母親とも言葉を交わしている。全て、私自身も触れた、現実そのものなのだ。特徴的ではあったが、それでも私同様にゲームが好きで、多少社交性を欠きながらも友人を作り、自分の居場所を作り、日々を生きてきた普通の高校生の大野君。そんな「普通」の存在が、殺人者という非現実的な存在となり、挙句、この世界から消えてしまった。
私が彼の手を握っていれば、こんな結果にはならなかったのではないか? 大野君の様子が変だったとき、その心中には既に殺人という激烈な選択肢しかなかったのだろうか? 私がうまく彼の助けになっていれば、彼や彼の家族を救うことが出来たのではないか?
どれだけ忘れようと頑張っても、むきになって日常をはしゃいで過ごせば過ごすほど、ふと素に戻ったときに色濃く思い出してしまう。忘れられるはずが無かった。
「私は……どうすればいいの……?」
泣きながら、誰にでもなく呟く。大野君の幽霊でもいい、誰かに答えてほしかった。救ってほしかった。
――大野君の幽霊。
ふとあることを思い出し、私は机の上の、埃を被った機器を手に取った。恐怖に怯え、あの日以来近寄ることさえ恐れた≪アンダンテ≫の世界。あの世界には、大野君が私に残した痕跡がひとつあったのだ。怖くて試せなかった大野君の名を冠する『スキル』。あのスキルを実行することで、大野君の真意に近づけるのではないか。私にはそれが、自分を救ってくれる希望のように感じられた。
ヘッドギアの埃を払い、頭に被る。ついさっきまで、そうすることが自分の理性を保つのだと信じ邪険に扱っていた物に、今はもう縋っているのだ。つくづく自分が滑稽に思えた。
起動すると、見慣れた風景が目に飛び込んできた。かつては私も、そしておそらく大野君も、この世界の先には楽しさしか見えなかったはずだ。だが、人の魂を吸いながら、あの頃と変わらず美しいままの≪アンダンテ≫の世界は、あまりに白々しく、空寒くて、今の私には正視できなかった。
メニューを開くと、やはり『スキル』の項目は存在していた。開くと、やはりあの時と同じくそこに存在する「ash」の文字。
――ここに、大野君の残した意思がある。私に残したかった、伝えたかった、何かが。
意を決して、大野君の名を冠したそのスキルを使用する。大野君の幽霊が現れると思って身構えていた私の気を殺ぐように、頭にこつんと、何かが当たった。
石? 空から降ってきた小さなそれを拾い上げると、その美しさに一瞬見とれてしまった。
それは、石としては小石だが宝石としては圧倒的に巨大な、ダイヤモンドだった。インベントリに入れて名前を確認するまでもない。それは『コ・イ・ヌール』だった。スキル『ash』は、私に『コ・イ・ヌール』を渡すためのスキルだったらしい。大野君は、私との約束を果たしたのだ。それこそが、大野君が残したかったものなのか。大野君は、私との約束を反故にすることが許せなかったのか。約束を守るために、自分の親を殺してしまったのだろうか。
……違う、そうじゃない。
これは「禊」だ。
大野君は、不仲の親との縁を断ち切り、私との約束も果たし、全てのしがらみを取り払ったのだ。そして、自分が見つけた理想郷へ、旅立ったのだ。
思えば、大野君は勉強も運動も出来るわけでもなく、社交性にも欠けていて、友人も少ないのだ。そんな彼にとって、ゲームは自己の能力を、存在を主張できる唯一の手段だったのではないか。私相手にゲームの話をしていたときの活き活きとした大野君の姿を思い出す。私が≪アンダンテ≫を始めたときの、レベルやプレイヤースキルの差を誇示するような、得意満面の大野君の表情を思い出す。そして、学校での暗く辛そうな大野君の姿を思い出す。親とうまくいっていない大野君を思い出す。
大野君は、ゲームを選んだんだ。
荒唐無稽な話なのはわかっているけど、それでも大野君の身柄が現実世界で発見されない限りは、そう考えることでしか踏ん切りはつけそうになかった。
手の中の宝石を覗くと、ゲームのデータとは思えないほど美しく、そして妖しく輝いている。まるで≪アンダンテ≫の魅力を見せ付けるかのように。ふと私は、この石が私をこの世界に留めようとしているような、そんな「石の感情」が見えた気がした……いや、石に感情があるはずがない。つまりそれは、この世界を選んだ孤独な少年の、意志だった。
だから、私にこの宝石を渡したの? 大野君、あなたと同じように、私もゲームの世界に移り住めと?
問いかけても、宝石は何も答えない。ただ、輝きを放つのみだ。私は目を閉じ天を仰ぎ、一瞬、子供の頃に思い描いた「ゲームの中に入り込んで、御伽噺のお姫様のように暮らす」という夢のことを思い出す。無邪気な子供の頃の夢だ。目を開けると、青い空が広がっている。現実と見紛うような広く高い空。でも、決して本物ではないデータの空。私は決意を固め、首を横に振った。
……私は、元の世界に帰るよ。私は、あなたの考えには同意できないから。
心の中でそう呟くと、手に持っていた宝石を遠くへ放り投げ、私は≪アンダンテ≫の世界からログアウトした。
――バイバイ。




