□彷徨う鵺
大野君の様子が変わったのはいつからだっただろう。
最初におかしいと思ったのは、私が戦いの結果を聞こうと、授業合間の休み時間に大野君の席に行ったときだ。何しろあれだけ自信たっぷりに、そして何より楽しそうに『カーネイジドラゴン』のことを語る『アッシュ』が印象に残っていたので、この話題を振れば彼も楽しく語ってくれるだろうと思っていたのだ。だが大野君は私の姿を見るや、一目散に廊下へと駆け出してしまった。このときは何か用事でもあったのかと思ったが、それからというもの、大野君は私の姿を見る度にどこかへ逃げていってしまう。元から話し難い人物ではあったが、それでも以前は話しかければ返事はする、その程度のことは出来ていた筈だった。顔を見ただけで逃げるなんて反応をされるのは初めてだった。それでなんとなくだが、私が「避けられてる」のだと気付いたのだ。
私は彼の機嫌を損ねるような何かをしてしまったかと思い悩んだが、答えは意外な所で聞けた。
「アーさん、回線落ちしちゃったんスよ」
「え、それって戦いの最中に!?」
「うっス。それでまぁ、俺たちは全滅したんスけどね。うちのギルドって、アーさんに頼りっきりな面あるから」
「それで、か……」
『ノエル』君は、彼らのギルドの『カーネイジドラゴン』討伐の顛末を話してくれた。大野君は回線落ち―つまり不慮の事態で≪アンダンテ≫に繋がらなくなり、大野君のゲーム上の存在である『アッシュ』が消えてしまったのだそうだ。『アッシュ』という戦力を突然失った彼らのギルドは、結局『カーネイジドラゴン』の討伐に失敗したらしい。それはつまり、大野君は『コ・イ・ヌール』を得られなかったということになる。私との約束を気にして、大野君は私を避けるようになったのだと、私は理解した。
「『ノエル』君は、最近『アッシュ』と話したりした?」
「それが全然っス。アーさん最近ログインしてないっぽいんスよね……」
どうやら、避けられてるのは私だけではなかったようだ。大野君は、回線落ちでギルドのメンバーを死なせ、私との約束のアイテム『コ・イ・ヌール』も入手できなかった。だから私やギルドメンバーに恨まれてると思っているのだろう。
「リズちゃんは、アーさんのリアル知り合いなんスよね?」
「あ、うん。そうだけど……」
「じゃあ、伝えてくれないっスかね。『俺たちギルドメンバーは誰もアーさんのこと怒ってない』って。回線落ちなんて誰にでもある事故でしかないし、悪意が無いことなんてみんなわかってるっス。むしろ、顔を出してくれないと俺たちも気まずくなってくるっス」
「うーん、伝えたいのは山々なんだけど。実は私も今おお……『アッシュ』には避けられてるんだよね」
「そいつは、困ったっスね……」
そう言って、二人で空を仰ぐ。確かに困った事態だった。大野君は現実と≪アンダンテ≫のどちらでも会話の手段を与えてくれず、完全に殻に閉じこもってしまっている。自分にも原因の一端がある私としては、このままの状態で居るのは気分の良いものではなかった。
「大野がどうしたって?」
「ほら、中村君って大野君と仲良いじゃん。私、大野君に話があるんだけど、ちょっと最近彼に避けられてるっていうか……」
「俺に言われても困るよ、そんなこと」
中村君は、例のオタク軍団の一人だ。ヒエラルキーの最下層であるのは大野君と一緒だが、中村君はある程度の社交性を見につけており、大野君よりは話しやすい、というのがクラス内での認識だ。手段を選んでもいられないと判断した私は、多少踏み込んだ方法で大野君とコンタクトを取ろうと決意したのだった。
「最近の大野君ってどうかな」
「どう、って言われても」
「様子がおかしかったりしない?」
「ん……」
中村君は奥歯に物が挟まったような話し方をしていた。これは、もしかして―。私は、浮かんだ疑問をそのまま中村君にぶつけた。
「中村君も、大野君と話してないの?」
「あ、その……」
「隠さなくてもいいじゃん。馬鹿にしようとか思ってないからさ。話して、ないの?」
「……そうだよ。なんか最近、アイツ俺たちのこと避けるんだよ。」
「そうかぁ……」
何かがおかしい。何か違和感があった。彼らオタク友達との関係は大野君の最後の砦だったはずだ。ヒエラルキー上位の存在にからかわれたり、大切な趣味を嘲笑われたりと、敵の多い彼らの学校生活において、気心の知れた彼ら『同志』によって形成される空間は、数少ない憩いの場である。少なくとも私にはそう見えていた。だが今の大野君は、その味方をも捨て、一人彷徨っているというのだ。何故?
ゲームが好きで、オタクで、不良に絡まれて、だから自分と同じ趣味の仲間と楽しく輪を作って、家に帰るとちょっぴり反抗期で。私は大野君をそう認識していた。でも、今の大野君を私は何一つ理解できていない。ゲームを失い、オタク仲間を失って、そこに残った『大野君』を、私は認識できなかったのだ。
私は、どうしても大野君と話をしなければいけないという気になっていた。普通に休み時間に近寄っても逃げられる。授業が終われば大野君は一目散に家に帰ってしまうので、放課後に接触するのはさらに難しかった。だが、今日なら、うまくやれば一度だけチャンスがある。今日のうちのクラス最後の授業は体育だった。終了のチャイムがなると同時に、私は体操服のままで校門に駆け出した。いくら大野君でも、着替えずに帰るということは無いだろう。着替えの時間分、確実に先手が取れる。後はこの、帰宅のために必ず通る校門の前で待っていれば良かった。
早々と着替えて帰る友達と挨拶を交わしながら待ち続けること1時間。諦めかけた私の視界に、こちらを気にしておどおどしている大野君の姿が入った。
「大野君!」
「あ……う……」
唯一の出口を塞がれてさすがに諦めたのか、大野君は逃げなかった。
「ちょっと、話を聞いて! あのね、私、大野君のこと怒ってないよ?」
「う……ぅ……」
「ギルドのみんなも、大野君が帰ってくるの待ってるって。また≪アンダンテ≫やろうよ。回線落ちくらい気にしちゃ駄目だって」
≪アンダンテ≫の名を出せば、ちょっとは話が出来ると思ったのだ。だが、その名を聞いた大野君はますます顔をこわばらせる。
「どうしたの……? みんな気にしてないよ?」
「……なあ、野口」
「な、なに?」
「お前、もしも俺が≪アンダンテ≫をやってなかったら……」
大野君が≪アンダンテ≫をやってなかったら? やっていなかったら何だというのだろう。真意を測れず、私は次の言葉を待ったが、大野君はいつまで経ってもその続きを喋ってはくれなかった。
「……大野君?」
「……!」
「あっ!」
返事に期待して気が逸れた一瞬の隙を突いて、大野君は私の横をすり抜け、校門の向こうに走り抜けてしまった。
「待って、大野君! 待ってよ!」
あわてて私も後を追った。細い路地を抜け、大きな通りに出て、交通量の多い交差点に差し掛かり……大野君が駆け抜けた横断歩道を私も続けて渡ろうとしたとき、無情にも信号は赤に変わってしまった。焦り気味の横断車が私の目の前に滑り込む。
「大野君……」
何か、とんでもない間違いを犯した気分だった。離してはいけない手を離してしまったのではないか。逃してはいけない魚を逃してしまったのではないか。私は、上履きと体操服姿の自分を奇異の目で見る通行人の視線を浴びながら、その場に立ち尽くしていた。




