■アンダンテ
俺の目の前には、四つん這いで身構え殺気を放つ獣が居た。
黄金の毛並みと鋭く長い牙を持つその獣は、現実世界なら剣歯虎と呼ばれる種に似ている。それが、今にも飛び掛らんと俺を睨んでいた。こいつはしなやかな全身の筋肉を使い、予想以上の距離を跳ぶ。不意を付かれた獲物に覆いかぶさり、その喉元に牙を突き立てるのだ。
俺は、手に持つ長身の剣をしっかりと握り直し、剣歯虎に向き合う。そして少しずつ、少しずつ剣歯虎を誘うように間合いを詰めていった。気圧され、たじろぐ剣歯虎。だが自分から仕掛けた戦いで退くわけにはいくまい。追い込まれた虎が、破れかぶれに飛び掛ってきた。それを待っていた俺は、野球のバッティングのように、虎の頭をボールに見立ててフルスイングで打ち返す。ザッ、という摩擦音を立てて、獣の頭が真っ二つに割れた。そしてばたりと倒れた獣は幽霊のように透き通って、最後には完全に消えた。獣が斃れた所に「120」という数字が浮かんでいた。
「くそっ、経験値たったの120か。やっぱりこの辺の相手じゃ、ろくに稼げないな」
俺は視界の右上に常に浮かんでいる「メニュー」という表記を指で触った。すると目の前にウィンドウ―まさにPCのウィンドウさながらの窓が、いくつも浮かび上がった。
「次のレベルアップまでに必要な経験値が13208? ってことは、さっきの虎なら100体以上倒さないとレベル上がらないのかよ……」
ウィンドウに表記されている項目、つまり俺のさまざまなデータを確認していく。自分の体力や攻撃力といった数値を上から流し読みして、ふと最下段に表記されている『リアルマネー残高』の項目で目が止まった。そこには「0」と表示されていた。
「畜生…まだ金入れてねえのか」
今日は金が入り次第『火山島』の『ヒクイドリ』討伐に向かおうと思っていたのに。課金アイテム無しじゃ勝てるわけ無いだろ。
「クッソ、あのババアめ……」
予定を狂わされて俺は苛立つ。『ヒクイドリ』討伐の報酬であるレア・アイテム『ヒクイドリの羽』を入手しなければ、この先最前線で戦っているパーティに参加させてももらえないだろう。さっさと手に入れて、サーバー上位陣のプレイヤーに追いつかねば。だが、今の俺はその始めの一歩すら踏み出せずにいた。
「初心者マップの雑魚なんて狩っても稼ぎにならないし、さっさと『ヒクイドリの羽』取って最前線で狩りしてるパーティに参加したいのによ……」
夢の技術として騒がれたバーチャルリアリティ(VR)が実用化され、家庭レベルにまで普及してから数年がたった。世間では医療や福祉の発展に寄与したなどと言われているが、最も恩恵を受けたのはゲーム業界だろう。どれだけリアルを追求しても結局は四角いモニターの向こうにしか存在しなかった世界に、直に触れることが出来るようになったのだ。
≪アンダンテ≫は、VRの利点を最大限に活用した新世代のゲームだ。多人数が同時に単一のゲームにアクセスする『MMORPG』の方式を採用し、世界初の本格的VR-MMORPGとして「今まで体験したことの無い没入感を得られる」とゲーマーの支持を集めていた。
≪アンダンテ≫の特徴の一つとして、『課金アイテム』の豊富さがあった。現実の金銭を代価にゲーム内のアイテムを購入する課金アイテム制度はMMORPGでは珍しいものでもないが、≪アンダンテ≫の課金アイテムは、その種類も、その効果も、そしてその値段も他に類を見ないものだった。「課金はどうしても先に進めない人に向けた補助的な位置付けと考えています。基本的にはアイテム購入はしないというプレイスタイルを推奨します」というゲーム開発者のインタビューを見た記憶がある。そう言われて買うわけないじゃないか、と始めは思っていたが、一度買ってみるとこれがなかなかどうして、未購入者を見下せるほどのアドバンテージを得ることが出来た。なるほどこれなら多少高くても欲しくなるな、と考えを改め、それからは一月に一つ、課金アイテムを購入することにしたのだ。
課金アイテムを購入するには運営会社の指定する銀行口座への振込みが必要になる。入金確認後、『リアルマネー残高』がチャージされ、金額分の課金アイテム購入が可能になるという仕組みだ。
だが、今月はまだ入金ができていなかった。母に毎月定期的に入金するように言ってあるのだが、今月はなんだかんだと言い訳を続け、今日に至るまで『リアルマネー残高』は0のままだったのだ。さっきキツめに咎めたらあわてて銀行に行ったので、そろそろ入金しただろう……と思ったのだが。
「あーもう間に合わねえ。クソババア恨んでやる」
レア・アイテムを落とすレア・モンスターは現れる時間が決まっている。『ヒクイドリ』もその類で、昼の2時、夜の10時の二回しか姿を見せない。夜は人が多く、競争率も高いので夜10時を狙って入手するのはほぼ無理。今日中に手に入れようと思うなら、昼の2時―つまり今から5分後のチャンスを狙うしかないのだ。そして俺には、一刻も早く『ヒクイドリの羽』を手に入れたい理由があった。
『ヒクイドリの羽』は、持っているとキャラクターの能力が底上げされる。他のプレイヤーと共同戦線を張る『パーティ』に参加するには、この手の能力上昇等の自己鍛錬を欠かすわけには行かないのだ。「自分でやるべきことをやっていないのにパーティに参加する奴は他人の力を頼って寄生するだけの奴だ」という日本特有のMMOに対する姿勢のせいで、ゲームといえど手抜きは出来ないのである。
仕方なく俺は、課金アイテム無しで『ヒクイドリ』討伐に挑戦することにした。勝てる可能性は……おそらく50%程度だろう。敗北した場合は『デスペナルティ』といってそこまで鍛え上げた自分のキャラクターの能力やアイテムを消失してしまう。50%の確率に張るには余りに手痛いリスクで、気乗りしないながらも俺は戦いの準備を始めた。
ふー、と放心してため息をつき、『グラフィカルヘッドギア』を外す。天井をボーっと眺めていると、玄関の方が騒々しくなった。母が帰宅したのだ。俺が『ヒクイドリ』に挑んで玉砕してから30分後になる。
「ごめんね、ちょっと用事があってそれを先に済ませてたから。お金入れといたわよ」
「遅せえよババア! お前のせいでアイテムいくつ無駄にしたと思ってんだよ! レベルも下がったぞ? お前俺の代わりにレベル上げてくれるのかよ?」
「ご、ごめんね、本当に……」
弱々しく謝る母にひとしきり悪態をついてから、部屋に戻る。何はともあれ入金は済んだのだ。明日には『ヒクイドリ』との再戦といこう。いや、ライバルが多くても今日の夜を狙ってみるべきか……。