第六章 口癖
一.
全ては、彼の一言から始まった。
「そういえば、まだであったな」
黙々と朝飯を食べていた、見目麗しき主がふと独り言のように呟いた。
瞬間。
大広間に集った賀茂家の者達が、一斉に箸を止めた。
彼の声はごく小さなものであったが、静まり返っている広間には筒抜けである。
「なにがでございましょう。父上」
皆の控えめな、それでいて強い好奇心の入り混じった眼差しをひしひしと感じながら、忠行は隣の主に視線を向け、聞き返した。
「……分からぬか」
江人はむむうと小さく唸り、傍らに坐している道満をちらりと見遣った。
彼もまた―ほかの弟子に比べ控えめではあるが―時折こちらに目を向けている。
「……分かりませんなあ」
忠行は小さく首をかしげた。
もしや道満に関係のあることなのだろうか。しかし、ここではっきりと言わないということは本人に知られたくないことなのだろうか。
否、江人のことだ。只単に照れくさいだけなのか。
「もしや、元服の儀と関係がおありで」
ふと浮かんだ考えをそのまま問う。
道満はついこの間元服し、陰陽生として陰陽寮で学ぶこととなった。江人の急な思いつきであった為、祝いの宴をすることが出来ずにいたのだ。
「ああ」
江人はますます眉根を深く寄せ、微かにうなずいた。
「わしの時はそれは盛大でしたからなあ。確かに道満にはないというのはいけませんな」
「別に吾輩は良いのだが、後で文句でも言われたらたまらぬからな。今夜にでも済ませてしまえ」
「はっ」
やはり、要は本人の前で言うのが恥ずかしかっただけなのだ。
普段は何事にも興味がないように見えて、よく周囲を気にかけている。大切な者のこととなると些細なことでも気をもんでしまう、江人はそういう男だ。
素直でないのだから、と忠行は苦笑しつつ、宴の準備をしようと立ち上がった。
ふと、道満と目が合う。
良かったなと目配せをすると、一瞬目を見開いたかと思うと激しくむせ込んだ。
「だ、大丈夫か」
思わず、駆け寄る。
「誰の所為だと思っている。妙な真似をしおって」
道満は涙目になりながら、激しく毒吐いた。良く見ると、袖で覆われた顔は心なしか赤い。
そんなに目配せが刺激的だったのか。
「そうか。わしって罪じゃなあ」
……最近、道満が変だ。
二.
「私に贈り物? お前さんがか」
「そうじゃ、ほしいものがあれば言ってくれ」
「何か企んでおるのか……言うとくがお返しはせぬぞ」
「ぶはっ、何じゃその言い草は」
こちらにじと目を向ける道満に、忠行は思わず噴き出した。
……朝飯の後。
参内の準備を終えた忠行は密かに道満を寝屋に呼び出した。
道満に元服祝いに欲しい品を聞き出す為である。
「あのなあ……」
道満はこめかみを引き攣らせながら、溜息を吐いた。
「そういうことは本人に聞くことではないだろう」
「それはそうだが、お主の好みがよくわからんでのう」
「全く……」
道満は呆れた、といった様子で肩をすくめた。
「そうだな、私は優秀な兄弟子が欲しいな」
「……おい」
「そうそう、忠行という名前以外の者で」
「あいにく忠行以外は売り切れじゃよ」
「それは残念だ」
実はまんざらでもないのか、軽口をたたく道満は楽しげに見えた。
「――で、何が欲しい」
「うむ、急に言われてもなあ」
道満は考え込むようにうつむき、ふと忠行の顔を見た。
「……どうした?」
此方を見上げる澄んだ眼差しに、いたたまれなくなり視線を外す。
視線が交わった時。
深い色の瞳の中に、せつなさが滲んだように見えたのは気の所為であろうか。
「――同じものを」
「ん?」
「忠行殿が身につけているものと、同じものを」
「ほう、優秀でない兄弟子のをかい」
調子のいいことを、と肩を揺らして笑う。対照的に、道満の顔は真剣そのものだった。
「聞くが、何故じゃ」
「愚問だな」
道満は忠行に背を向け、御簾を潜った。
「――兄弟弟子だろう、私と貴方は」
三.
その晩。
江人の命令通り、盛大に宴が執り行われた。
呑めや歌えやのどんちゃん騒ぎの中、忠行は庭園に出た。
初夏の夜の風が、金糸を揺らす。
「奴ら、道満の祝いというよりは、只単に騒ぎたいだけなんじゃろうな」
やれやれとため息を吐き、渡殿の手すりに腰かけた。
宴は好きだが、今宵は皆で楽しく酒を呑みたい気分ではなかった。
「道満、か」
自然とその名が唇を割る。
最近、彼の言動には戸惑わされてばかりだ。
「奴が女であったらのう」
道満のまっすぐな気持ちに応えられぬ罪悪感か、ふがいなさなのか。最近道満の存在を持てあましている自分がいた。
先日は幼いゆえの勘違いだと何とか説き伏せることが出来た。だが、仮にその想いが本物であればどうする。数年先、道満が忠行と肩を並べるようになっても恋い慕われたとしたら。そのせいで道満が妻も娶らず、生涯一人身になったとしたら。
道満には幸福な人生を歩んでほしい。忠行への恋慕の為に、不幸になってはいけない。
「やはり、もっと強く断っておくべきだったか」
道満を傷つけることになっても。
でもそれは、同時に道満の傷つく姿を見てしまうということ。
「なんだ、わしは」
ふっ、と嘲笑が漏れる。
「けっきょくは自分がかわいいだけではないか」
後ろにのけぞるようにして空を仰ぐ。
金色に光る月が、視界に映る。
その美しさが、己の醜さをあざ笑っているように思えた。
「本当に、ばかじゃな」
「――誰がだ?」
聞き覚えのある声にふいに問いかけられた。
驚いた忠行は、手すりから勢いよく立ちあがった。
「何故、此処に」
「それはこちらの台詞だ」
皮肉めいた笑みを浮かべた少年がゆっくりとこちらへ歩み寄る。
道満であった。
「お前さんに抜けられたら私が困るではないか」
忠行はわざとらしく唇を尖らせた。
「宴の主役はお主じゃろうよ。わしがいなくても良いではないか」
「たわけ、私の話相手がおらぬ」
「ははあ、もしやお主寂しかったのか」
「そんなわけあるか、ばか」
道満はくつくつと肩を揺らしながら、忠行の隣に坐した。
「落ちるぞ」
「子ども扱いするでない」
手すりの上で不安定に揺れる道満を見とがめたが、彼は顰め面をして舌をだした。
「私はもう元服したのだ。お前さんとも対等さ」
「その発言こそが子どもだというじゃ」
「減らず口を」
道満は頬を膨らませ、そっぽを向いた。
「もし落ちたらお前さんの所為だ、ばか」
「ふん、知らんぞ怪我をしても。看病はしてやらんからな」
「ばか」
お主はばかとしか言えんのかと笑いながら忠行は袖に手を入れた。
「道満」
「何だ」
道満は低く返事をしたが、こちらを見ようともしない。
「いい加減拗ねるのはよせ」
「拗ねてない」
「元服の祝いにお主に渡したいものがあるんじゃが……要らぬようじゃな」
「何だ、渡したいものとは」
「うんと苦労して選んだんじゃぞ~? 忠行は悲しいぞ、冷たい兄弟弟子を持って」
よよよ、と顔を袖で隠し、わざとらしく泣き真似をする。
「要らぬとは言ってないだろう」
「いーや、もう知らんぞ。もう渡さんぞ」
「どちらが子どもだ、全く」
道満が笑いながら、忠行の手を掴む。
「さあ、こちらへ渡せ」
「おねだりの仕方がなっとらんぞ」
「何がおねだりだ。私への祝いなのだろう」
抗う間もなく、奪い取られてしまった。
「気にいるかわからんがな」
「……忠行殿」
「わしなりに真面目に選んだ」
道満の手に握られているのは、薫きものであった。
それは忠行が愛用しているものと同じである。
昼間の道満の一言で決めたのだ。
「それを付ける度にわしのことを思い出してほしい。たとえ、お主がわしからどんなに離れても、どんな立場になろうとも、わしはずっとお主の兄弟子じゃ」
「忠行殿」
「兄として、ずっとお前さんのことを思うておるよ」
「……はい」
道満の顔に僅かながら影が落ちたのを忠行は見逃さなかった。
だが、これで良かったのだろう。
これで、道満は不幸にならずにすむのだから。
ふと、頬に何かが落ちる感触がした。
雨粒であった。
見上げると同時に数多の雨粒が降り注いだ。
「雨か」
道満は濡れるのも気にせず、空を見上げている。
「濡れるぞ、兄弟」
声をかけたが、道満はぼんやりと虚空を見つめている。
「忠行殿」
「何だ」
「私は大人になれるのだろうか」
深く黒い瞳から、涙がこぼれた。
「この想いも、変わるのだろうか」
雫が頬を滑り落ち、雨と混ざる。
「でもこの想いを忘れることが大人になることだというのなら」
あっ、と声を上げる。
道満の手が忠行の両肩を掴んでいた。
「大人になんてなりたくない」
濡れた双眸に射ぬかれ、身体がすくむ。
深い闇を思わせるそれは、恐ろしいほどに濃く、その奥に激しい熱情を秘めていた。
「貴方は、残酷だよ」
道満は泣き笑いのような表情を浮かべ、唇を合わせた。
「……じゃあな、兄弟」
その言葉を最後に、忠行に背を向けてかけ出した。
「言い逃げか、ばか」
遠ざかる背中を見つめながら自然と口から出た言葉に、驚く。
「あーあ」
唇を指で撫ぜ、小さく笑った。
「妙なことしてくれたおかげで、口癖が移ってしまった」
夜風で袖が靡く。
雨に濡れて重くなった狩衣から、微かに侍従が薫った。




