第四章 流鏑馬騒動
一.
ある日の昼下がり。
何時もは静かである筈の内裏が、妙に騒がしい。
南殿の弓場にて、流鏑馬が行われていた。
男だけではなく、姫君達も御簾の隙間から興味深げに眺めている。
彼女達の視線の先には、殿上人達に混ざって馬に跨る賀茂忠行の姿があった。
忠行と目が合う度、黄色い悲鳴が上がる。
「何故かようなことに……」
道満は遠目から兄弟子の姿を眺めつつ、ため息を吐いた。
……事は、宮務が終わり、陰陽寮から朱雀門に向かおうとした時に起こった。
宮中に住まう高貴な姫君達を拝もうと、忠行は大内裏へと向かった。無論、道満は止めようとしたが、一向に聞かぬ。
大内裏の入り口――承明門を潜った所で、流鏑馬を楽しむ公達の姿が見えた。
運悪く、一人の公達と目が合う。
「やあやあ、これは噂の陰陽得業生殿ではありませぬか」
他の者も気付き、口々に声を掛ける。
「そこら辺の陰陽師よりも優秀だとか」
「是非我が吉凶も占じてもらいたいものよ」
返答する間もなく、忠行は乾いた笑顔を浮かべるだけである。
「――私は、ごめんだがね」
悪意の籠もった声音で、一人の男が言い放った。
「かような異形の者が本当に陰陽道の優れているのか疑問だが……勉学に勤しむどころか人並みの頭もあるかどうか」
「――どういう意味です」
堪らず、道満は男に詰め寄ろうとした。しかし、忠行に「止さぬか」と制された。
「忠行殿……!」
きっ、と鋭い眼つきで睨む。忠行は怯むことなく、笑みを浮かべて此方を見下ろした。
「まあ、見ていろ」
忠行は男に向き直り、高らかに言い放った。
「そこまで言うなら、勝負をしませぬか」
「勝負? まさか、術比べとか」
「なあに、ほんの戯れですぞ」
呵々《かか》と笑い、ぱちりと目くばせをする。
人差し指を立て、公達の背後を指した。
「流鏑馬で、勝負をしましょう」
忠行が指し示したのは、先ほどまで公達が乗っていた馬であった。
「ああ、いいだろう」
男はにやりと笑い、忠行ににじり寄った。
「勝負というからには、勝利すればそれなりの報酬はあるのか?」
「それも面白いですな」
「だろう」
男は忠行の顎に手を掛け、僅かに持ち上げた。
次の瞬間、耳を疑うような言葉が男の口から飛び出した。
「お前が持ちかけた勝負だ、お前が報酬となれ」
「……へ?」
「鈍い男だな。お前の身体を賭けると言っておるのだ」
「はっ!?」
さすがの忠行も意表をつかれたのか、目を大きく見開き、身体を強張らせた。
「なっ」
道満も、驚愕のあまりその場で立ち尽くした。
この時代、男に手を出す輩もそう珍しくはない。
なれど、忠行は男に好かれたり言い寄られたりしたことなど殆どない。
しかも、自他共に認める女好きである。忠行に妻や通っていた女を寝取られた男は山のようにいるのだ。恨まれることはあっても、言い寄られることはまずない。
――そんな忠行殿を何故?
道満は一人首を傾げた。
もしや、前から忠行に邪な気持ちでも抱いていたのか?
確かに端整な顔ではあるが。
道満は未だに固まっている忠行をまじまじと見つめた。
異国人を思わせる、すらりと整った顔立ち。
肌は、透き通るように白く、襟元から覗く項は女の其れよりも艶やかである。
薄紅色の唇は、甘い蜜を含んでいるかのように、しっとりと濡れている。
切れ長の瞳は、柔和ではあるが、意思の強さを感じさせる。
仕草や表情は男らしく粗野であるが、時折匂うような色気を感じることがある。
いつもの悠然とした態度や余裕が消えた瞬間。
――そう、今のように。
はっ、と我に帰る。
忠行の顔が、目の前にあった。
「……困ったのう」
忠行は眉根を下げ、力なく笑った。
「とんでもないものを、賭けられてしまった。あ奴も変わった趣味をしておる」
「た、忠行殿。本当に勝負をするのですか」
「男なら、逃げられぬよ」
「なれど、万が一負けてしまえば貴方は!」
思わず、忠行の肩を掴み、大きく揺さぶった。
「な、何故御主がそんなにも取り乱すのじゃ?」
忠行がこめかみから汗をたらしつつ、道満を止めた。
「それは」
道満は言いよどみ、視線を移ろわせた。
確かに。
何故、こんなにも焦っているのだ。
陰陽寮から追放されるわけでも、位を取られるわけでもない。
ただの戯れに過ぎないのに。
少なくとも、忠行にとっては一晩身体をゆだねることくらい、大したことではないやもしれぬ。
ずきり、と。
小さく、胸が痛んだ。
「ま、案ずるな。わしは負けんよ」
道満の肩を軽くたたき、悪戯っぽく笑う。
「御主が、悲しむからな」
その言葉に、表情に、不覚にも魅せられた。
少し。
ほんの少しだけ。
忠行に報酬を欲求した男の気持ちが分かった気がした。
……やがて。
忠行と男が馬に跨り、流鏑馬が始まった。
何時も間にやら騒ぎを聞きつけたのか、宮中の貴族達が見物に集まってきていた。
歓声を浴びつつ、二頭の馬が走る。
忠行は男を抜かし、確実に的に弓を命中させていた。
身体が揺れる度、金糸が宙を舞う。
忠行の表情は生き生きと輝いていた。
ふと。
忠行の動きが止まった。
弓を構えたまま、身体を硬直させている。
――まさか。
額に片手をあて、目を閉じる。
闇の中に、小さな光が灯った。
「やはり、呪か」
眉根を寄せ、周囲に視線を這わす。
人ごみにまぎれて、直衣に身を包んだ男が印を結んでいるのが見えた。
陰陽寮で、見かけたことがある顔であった。
勝負を挑んだ男の指がねか、もしくは下らぬ嫌がらせか。
何にせよ、忠行が危ない。
道満は急いで忠行の下に向かった。
走りながら、印を組み、呪を唱えようと、口を開いた。
刹那。
「止めよ」
低く、怒りを帯びた声が、空気を震わせた。
周囲が俄かにざわめく。
道満も印を解き、声の主に目を向けた。
……江人であった。
男の乗った馬の前に立ちふさがり、鬼の形相で睨みつけている。
「我が息子に何をしているのです」
「この勝負を持ちかけたのは忠行殿ですぞ」
男が飄々とした口調で言う。
江人は端整な眉をぴくりと引きつらせた。
「勝負? では何故、忠行は今呪にかかっているのです。これでは勝負とはいえませぬ。貴殿は初めからこういうつもりだったのでしょう」
「何を仰っているのやら」
「……では、忠行の代わりに私と勝負しませぬか」
「ほう? しかし、報酬内容は変えられては困りますな。私は貴方には興味がない」
江人はここで始めて笑みを浮かべた。
「ふん、随分と忠行がお気に召したようですな」
そこで江人は印を結び、小さく呪を唱えた。
忠行の馬が足を止めた。動きを取り戻した忠行は馬から飛び降り、江人に駆け寄った。
「父上、何故此処に」
「それはこちらの台詞だ。中々帰らぬと思えば、何をしておるのだ」
「は、はは」
忠行は後ろ頭をかきつつ、弱弱しく笑った。
「ほんの戯れのつもりだったのですが」
「ほう、貴様は己の貞操を賭けて戯れるほど色狂いだったのか。我が息子とは思えぬな」
「父上~」
忠行が、情けない声を上げる。
だが、江人はそれに構わず拗ねたような顔でそっぽを向いた。
「江人殿は忠行殿が心配だったのですよ」
隣から、穏やかな声が聞こえた。
椿樹であった。
赤い髪を揺らし、優しい笑みを浮かべている。
「屋敷でも、忠行は何をしておるのだ、と落ち着き無く過ごされておりました」
「……椿樹」
江人が、じろりと椿樹を睨んた。
「父上ってば素直じゃないんだからん」
気を良くした忠行が、身体をくねらせながら、江人にしな垂れかかる。
「調子に乗るな、うつけが!」
「あだっ」
げんこつの音と供に、忠行が悲鳴を上げ、地面に倒れた。
頭を抱え、悶絶している。
「全く……、貴様の所為でとんだ巻き添えを食らってしまった」
江人は忠行を冷やかに見下ろし、ちらりと前方を一瞥した。
「そこで大人しく待っていろ、忠行。この下らぬ戯れが終わったら、屋敷に帰るぞ。やらねばならぬことが増えた」
「へ……?」
忠行のこめかみから、汗が垂れる。
江人は足を進めながら、ぼそりと呟いた。
小さな声ではあったが、道満にもはっきり聞こえた。
「――どんな呪にも耐え切れるように修行せねばな」
……どのような修行をなさるおつもりなのだろう。
脳裏にその光景が浮かび、道満は忠行に心から同情した。
二.
「――ぎゃあああっ!」
澄み渡った空の下。
忠行の悲痛な叫び声が、響き渡る。
「うう、何でわしがこんな目に」
必死で走りながら、忠行は泣き声を上げた。
その後ろから、黄金の修羅が凄まじい速さで追いかけてくる。
忠行の父・江人であった。
数多の呪を唱え、次々と忠行に向かって閃光を放っている。
「父上め、本気でわしを殺しにかかっておるわい」
小さく舌打ちをしつつ、周囲に視線を這わせる。
赤髪の優男が、視界に入った。にこにこと楽しげな笑みを浮かべている。
「椿樹! 何を呆けておるのじゃ。早く助けろ!」
半ば怒鳴るようにして、助けを乞うた。
しかし。
椿樹は小さく首を横に振った。
「何をおっしゃる。これも修行の一貫ですぞ」
「阿呆かーっ! かように危険な修行があるか!」
「――何を余所見しておるのだ」
忠行の叫びをかき消すようにして、辺りが炎に包まれた。
「なっ!?」
炎の中には、忠行と江人の二人だけが残されている。
「さあ、これで逃げられまい」
こちらに近づいてくる江人の声色は心なしか楽しそうである。
「ち、父上」
じりじりと後退しつつ、忠行は両手を前に突き出した。
「もうやめませぬか。先ほどのことはわしも十分に反省しております故。これからは寄り道せずに屋敷に戻りまする」
「そんな問題ではない」
「へ?」
端麗な顔を歪める江人に、間抜けた声で聞き返した。
「父上、何を」
「もしあのまま負ければどうするつもりだったのだ」
「それ、は」
言葉に窮し、うつむく。
道満の不安げな顔が、なぜか脳裏を過ぎった。
「相手はやんごとなき公達。逃げも隠れも出来ぬぞ。貴様も無茶な勝負事に挑んだものよ。何を言われたのかはしらぬが、そ知らぬ素振りは出来なかったのか。何のために貴様を道満の傍に置いたと思っている」
「返す言葉もござりませぬ」
忠行はがっくりとうなだれた。
確かに、父の言うとおりであった。公達の言葉を軽く受け流しておけばよかったのだ。勝負事を持ちかけたのも、公達の心無い言葉に憤りを感じていたからなのだ。父からの信頼を受けて、道満を任されたというのに、なんと無責任なことをしてしまったのだろう。
するすると、衣擦れの音が近づいてきた。檜扇を顎にかけられ、視線が挙がる。
鋭い双眸に射抜かれ、忠行は小さく息を呑んだ。
赤い唇がゆっくりと開く。僅かに覗いた舌が、妙に艶かしい。
「そんなに、髪色や見た目を侮辱されるのが嫌か」
「……は」
うなずくと、江人はぴくりと片眉を上げた。
「ならば、強くなれば良い」
「強く、ですか」
「左様。無茶をしでかしても勝利出来るだけの強さを、な。この父をこれ以上煩わせるな」
江人は視線を反らし、ふっ、と目を伏せた。
「……貴様の気持ちも分からなくはないがな」
江人は踵を返し、背を向けた。
しゅっ、と刀が鞘を擦る音が聞こえた。
江人が、抜刀した刀をこちらに向けていた。
「は?」
嫌な汗が、だらだらと体中に流れる。
「貴様も早く抜け。まだ修行は終わっておらぬぞ」
江人は口元を歪ませ、瞳を光らせた。
「貴様を強くしてやろう。ありがたく思え」
「――ふふふ、はりきっていますね。江人殿は」
椿樹は額に手をかざしつつ、笑顔でつぶやいた。
彼の視線の先には親子二人が剣術の稽古――一方的な暴力にしか見えぬが――をしている姿があった。
「とめなくてもいいのか」
直ぐ背後の簾の子縁に座した道満があきれ混じりに息を吐いた。彼の横には大きな桶がおいてあった。中には氷水がはってあり、数本の竹筒が浮んでいる。竹筒は空洞になっており、甘露が入っていた。
「彼らにとってはあれも一種の戯れですぞ」
「私には、喧嘩にしか見えぬな」
「江人殿の愛情表現は少し特殊ですからな」
「少しどころじゃあないだろう……」
忠行の悲鳴が響く。
耳を劈くそれに顔を顰めながら、ぼそりとつぶやいた。
……内裏での流鏑馬騒動の後。屋敷に戻った江人は半ば強引に忠行との修行を始めた。よほど忠行が流鏑馬で敗れそうになったのが悔しかったのであろうか。
道満には江人の気持ちが分からなかった。
「どうやら終わったようですぞ」
椿樹が道満を振り返り、笑みを浮かべた。
水干のあちらこちらに穴を開けた忠行が、ふらふらとこちらに歩いてくるのが見えた。一方の江人は汚れ一つなく、涼しい顔をしている。
「お疲れ様でした」
椿樹が甘露の入った竹筒を持って、江人に歩み寄る。
「……ん」
江人は小さく頷き、竹筒を受け取った。
「なあ、どう思う」
忠行は不機嫌そうな顔で、道満に耳打ちをした。
「どう見たって労わられるべきはわしのほうじゃろう」
「ま、椿樹は江人殿の式だからな。それに江人殿のほうが美人だし、労わりたくもなるさ」
「御主、喧嘩を売っているのか……?」
忠行が口元をぴくぴくと引きつらせながら声を低くした。顔は笑っているが、目は笑っていない。
「ん」
かまわず、道満は簾の子縁に置いてあった竹筒を手渡した。
「へ」
ぽかんと口を開ける忠行に痺れをきらし、竹筒を投げ渡した。
蜜色の液がこぼれそうになる。
それを、すんでのところで忠行が手におさめた。
「ふう、危ないだろうが」
忠行が安堵の息を吐きつつ、非難する。
「阿呆面をして、早く受け取らぬほうが悪い」
両腕を組み、ぷいとそっぽを向く。
「何でお前さんが兄弟子なんだかなあ」
「な、何じゃと」
「早く飲まないか。ぬるくなるぞ」
忠行はぶつぶつ不平をたれながらも、甘露を口に含んだ。
「む、うまいな。さすが椿樹じゃ」
「――」
道満は閉口し、眉を顰めた。
先ほどとは形勢逆転。
今度は道満が機嫌をそこねてしまった。
「ん?」
それに目ざとく気付いた忠行が顔を覗き込む。
「どうした」
「別に」
「ふうん?」
忠行は竹筒にもう一度口をつけながら、首を傾げた。
濡れた唇が微かに笑んでいるように見えた。
「うまいぞ、道満」
「なんで私に言うのだ」
「はて、なんでかのう」
「貴様」
「仲が良いですな、おふたりとも」
椿樹が、くすくすと笑いながら、言う。
「ああ」
珍しく、江人も穏やかな顔で頷いた。
「違います……」
道満はうなるような声で否定した。
「そう照れるな、道満や」
忠行に肩を組まれ、引き寄せられた。
「嫌よ嫌よも、じゃろう?」
「うっ」
端整な顔を近づけられ、思わず赤面する。
男の目から見ても、忠行は見ほれるほどに美しかった。
「貴様ら」
江人が、小さく咳払いをした。
「前も言ったが、睦言は寝屋でしろ」
「え、江人殿」
「なれど、夫婦になるには少し早いか」
「え、江人殿! ご冗談が過ぎますぞ」
道満は思わず叫んだ。
よく見ると、江人の瞳が僅かに細められている。
袖で口元を覆い、目を伏せている。
……笑っているのだ。
からかわれている、らしい。
「良かったですな、道満殿」
椿樹が、道満の肩に手を置いた。
「晴れて江人殿公認の中ですぞ」
「椿樹……」
道満は言い返す気力も失せ、がっくりと頭を垂れた。
――なれど。
道満は近くにある忠行の顔をちらりと見た。
「ん?」
目が合い、再び顔に熱が集まる。
――不思議と嫌な気分ではない。
それは忠行が並外れて整った顔立ちをしているからか。
それとも、忠行だから、なのか。
この時の道満には未だ、分からなかった。
三.
翌日。
忠行はある貴族の邸宅に祓いの依頼を受け、早朝から屋敷を出た。彼は未だ学生の身でありながら、実力を認められて依頼を受けることも多かったのだ。
しかし、昼過ぎになっても、彼が戻ってくることはなかった。
「遅いですねえ……」
門の方角を見つめながら、椿樹が小さくため息を吐いた。
「昨日のような面倒事に巻き込まれてないと良いのですが」
「大方そこらの女と遊んでおるのだろう」
彼の背後で江人が、関心が無いといった様子で、右手をひらひらと振った。
文机に向かい、何やらしたためている。
傍らには大量の書物が積まれていた。
「……江人殿、その山は一体」
椿樹は文机に目を遣り、たらり、とこめかみに流れた汗を拭いた。
「陰陽頭に押し付けられたのだ」
江人は腹正しい、といった様子で舌打ちをした。
「あの御方の怠け癖もどうにかならぬものか。大量にたまりすぎて焦るくらいなら、初めからまじめに取り組めば良いものを」
どうやら、大量にたまった仕事を押し付けられたようだ。
「ちょっと、野暮用を思い出しました……」
椿樹は地の這うような声で呟き、御簾を潜ろうとした。
「おい」
そんな彼を、江人が呼び止める。
心なしか、焦っているようにも見えた。
「何処へ行く」
「軽く、運動をしに」
「碌な運動ではなさそうだな」
江人はあきれ混じりに眉を顰めて椿樹を見上げた。
「正しくは押し付けられたのではない。我輩が居た堪れなくなって、手伝いを進み出ただけだ」
「左様ですか……」
椿樹は頷き、江人の傍に座した。ふう、と息を吐き、独り言のように呟く。
「もう少しで、陰陽頭の座を空けるところでした」
「過保護過ぎだ、貴様は」
江人の言葉に、椿樹はぱちくりと瞳を瞬かせた。
「……そうですか?」
「自覚なしか」
江人は右手で額を覆い、ふん、と鼻で笑った。
「とんだ主バカだな」
「お褒めに預かり光栄ですな」
椿樹がにこやかに言う。
「褒めておらぬわ」
その前向きさは何処からくるのだ、と江人は再びあきれた。
「――江人殿っ!」
御簾が勢いよく上がり、一人の少年が部屋に転がり込んできた。
道満であった。
全力で駆けてきたのであろう、髪は乱れ、ぜえぜえと荒い息を吐いている。
「何がありました」
ただ事ならぬ様子に、椿樹が慌てて駆け寄る。
「忠行殿が、昨日勝負をした公達に連れ去られたようなのです」
「何」
椿樹は小さく息を呑み、江人を見た。
「江人殿、これは」
「ああ」
江人はうなずき、言った。
「おそらく、昨日我輩に負けたことを恨みに思っておるのだろうな」
「まあ、あんな大量の野次馬の前で恥をかかされたのですから、当然ですな」
「道満、それで敵方は何と」
道満は懐から文を取り出し、江人に手渡した。
「なる程」
江人は文に目を通し、口端を歪めた。
「助けて欲しくば、私に来てほしいそうだ」
「江人殿」
どうなさるおつもりです、と椿樹は目で訴えかけた。
明らかに、忠行を囮にして、江人に報復するつもりである。
「……つまらぬな」
江人は一言そう吐き捨て、文を破り捨てた。
「なっ」
「江人殿!?」
驚く二人を江人は鋭い目つきで見据えた。
「こんな茶番に付き合うほど暇ではない。自分で蒔いた種は自分でどうにかしろ、と忠行に伝えろ」
「では、忠行殿を放っておけ、と言うのですか!」
「違いますよ」
つかみかかろうとする道満を椿樹がそっ、と押さえる。
「忠行殿に、江人殿のお言葉を伝えろ、と言っているのです」
「あっ」
合点がいったのか、道満が小さく声をあげた。
「そういうわけだ」
江人は再び文机に向き直った。ちらり、とこちらを一瞥し、口を開く。
「夕刻までには、戻って来い」
「――はっ!」
二人は床に片膝を突き、頭を下げた。
四.
「……う」
忠行は頭の痛みに小さく呻きながら、目を開けた。
天井が、逆さに映る。
内裏ほどではないが、賀茂家のそれに比べたらかなり立派だ。
どこぞの公達の邸宅であろうか。
――待てよ。だとしても何故わしは此処で気を失っていたのじゃ。
覚えている限りでは、忠行は邸宅に招かれて祓いをしていた。
床に座して印を組み、呪を唱えているところを、後ろから何者かに襲われたのだ。
――なる程、これでこの痛みか。
忠行はそろそろと、瘤が出来ているであろう後頭部に手を遣ろうとした。
だが。
身体が、動かない。
見ると、縄で手足を縛られていた。
「全く、わしにはこんな趣味はないというのに」
相手は相当に悪趣味じゃな、と一人ごちる。
ふと、頭上に影が差した。
上質な直衣に身を包んだ、男であった。
「ほほほ。良い格好じゃなあ、賀茂忠行」
「……御主」
高笑いをしつつ、此方を見下ろす顔には、見覚えがあった。
「誰かと思えば、昨日父上にぼろぼろに負けた御方でしたか」
どうりで悪趣味なことをすると思った、と笑う。
公達はこめかみに筋を浮かべ、歯を噛み締めた。
「ふん、生意気な小僧だ。自分がどんな状況に置かれているか、分かっておらぬのか」
手がこちらに向かって伸ばされる。
びりびりと音を立てて、衣服が破れた。
「……何のおつもりで」
忠行は冷たい目で、公達を睨めつけた。
「こうしてみると益々お美しい顔だ」
顎をつかまれ、視線が上がる。息がかかる程近くに、顔があった。
「その顔を苦痛で歪ませてみたいものよ」
「……遠慮しておきましょうか。あいにくそっちの趣味はないものですから」
「ふん」
男はすっ、と目を細めた。
「いつまでかような態度をとるつもりだ!」
腹に足が音をたてて、めり込んだ。
「ごほっ」
赤黒い血反吐が、床に飛び散る。
「げほっ、がはっ」
二、三度続けざまに蹴られ、忠行は身を丸めて蹲った。
「これだけで済むとお思いか」
前髪を掴まれ、無理やり引き上げられる。公達はにやり、と下卑た笑みを浮かべた。
むき出しになった肌を、指が伝う。
「うっ」
身体中に悪寒が奔り、小さく呻いた。
「貴様は、どうやら女にしか興味がないようだな」
指先が、指貫に触れる。
「今ここで私に無理やり犯されたとしたら、どんな表情を見せてくれるのでしょうなあ」
へろり、と舌なめずりをし、耳に口を近づけて囁く。
「……っ!」
指貫に手が差し込まれ、忠行は大きく息を呑んだ。
「この、下衆が!」
身体を震わせ、叫ぶ。
今から起こることに対する恐怖と嫌悪感で、視界が潤んだ。
「精々叫ぶと良い。ま、もうすぐそんな元気もなくなるだろうが」
男の顔が、近づいてくる。
忠行は、ここまでか、と固く双眸を閉じた。
……一迅の、風が吹いた。
「――破っ!」
鋭い声と、共に爆発音が響き渡る。
立ち込める砂埃に、忠行は咳き込みながらも目を開けた。
目の前の障子に大きな穴が開いている。何かが貫通したのだろうか。ちょうど向かい側の障子にも同じような穴が開いている。
「な、何者だっ!」
公達が、叫ぶ。
それに答えるように、障子が勢いよく倒れた。
「助っ人参上」
深く、吸い込まれそうな蒼の瞳に、貫かれる。
椿樹が、整った顔に笑みを浮かべて立っていた。
「全く、何を道草なさっているのですか」
呆れ混じりに、眉根を下げて笑う。
「世話の焼ける方だ」
「……悪かったな」
忠行は、皮肉交じりに笑みを返した。
ふと、椿樹の手を見る。
掌が、眩く赤い光に覆われている。
「先の爆発は御主の仕業だったかよ」
「貴方の貞操の危険を感じたので、つい」
「御主、まさか」
額に、嫌な汗が浮かぶ。
顔に熱が集まるのを感じながら、叫ぶ。
「いつから見ていたのじゃ!」
「そうですねえ」
椿樹は視線を移ろわせながら、目を細めた。
「忠行殿の目が覚めたところから、ですかね」
「はじめからではないか!」
「いやあ、あんなに焦った忠行殿は逆に新鮮でしたよ」
愉快愉快、と笑う椿樹を尻目に、忠行は重いため息を吐いた。
「父上がわしの立場だったらすぐに助けに行く癖に」
「そうですが、何か」
当然といった風にのたまう。
「……いや、何も」
忠行は、この主莫迦、と罵りたい衝動を必死で抑え、小さく首を振った。
「――先程からべらべらと誰と話しておるのだ」
公達が、顔を青白くして問うた。
「お前は確か、陰陽寮の者であったな。まさか、何か見えぬ筈のモノが見えたり、使役出来たりするのか」
「――」
忠行は震える公達をじっ、と見据え、口元を楽しげに歪ませた。
「それはつまり、今此処に良からぬモノがいるのかと。そうお聞きしているのですかな」
「ひっ」
公達が甲高く声を上げ、尻もちをついた。
「ど、どうなされた」
忠行は何故彼が怯えているのか分からず、うろたえた。
「忠行殿は常日頃から妖や式と接している故わからぬやもしれませぬが」
椿樹が、穏やかに言う。
「例え無害とはいえど、同じ空間に妖しのモノがいるのは、あまり心地良くはありますまい」
「ふうん。そんなものか」
「そんなものです」
忠行は、それより、と自分の手足を見下ろした。
依然、縄で縛られ、拘束されたままであった。
「これをどうにかしてほしいのじゃが」
「おや、良いお姿ですねえ。このままでも十分素敵ですよ」
「……もしや、御主怒っておるのか」
おずおずと、聞く。
先程から椿樹の態度が、いつもと違っているように感じていた。
「どうでしょうか」
椿樹は表情を変えずに淡々と言った。
「ひとつ分かっておりますのは、貴方が自ら敵方の巣窟に飛び込んでいくような大うつけだということですな」
「なっ、なれど。依頼主はあの流鏑馬の騒動とは関係のない方であったぞ」
「見物をしていた貴族たちの中にいたやもしれませぬぞ。それに、彼が報復をしてくるだろうと考えたら、もう少し外での祓いを控えることが出来た筈です」
「むむう」
何も言い返せず、低く唸る。
構わず、椿樹が言葉を続けた。
「貴方には慎重さが足りませぬ」
「言い返す言葉もない」
「……もう少し、自分の魅力を自覚してくだされ」
椿樹の表情が、僅かに柔らかみを帯びた。
「全く。親子そろって、気をもませますな」
「へ」
解せぬ言葉に、間抜けた声で聞きかえす。
気のせいか、椿樹の頬が赤い。
「いえ、何でも」
どうやら失言だったらしい。きまり悪そうに、目をそらした。
「貴方は気にしなくても良いことです」
ごほん、と小さく咳ばらいをした。
その時であった。
「――忠行殿!」
聞き覚えのある声が、響く。
椿樹が現れたのとは逆の穴から、道満が出てきた。
片手には、忠行への依頼主を抱えている。
白目をむいて、気絶していた。
「御無事でしたか」
「まあ、何とかな」
にっ、と笑って言葉を返すと、道満が安堵の息を吐いた。
だが、忠行の顔から視線をおろしてゆき、衣服を切り裂かれた部分に到達したところで表情を変えた。
「忠行殿」
依頼主を放り出し、駆け寄る。
「な、何じゃ」
その勢いに圧倒され、思わず仰け反った。
「お怪我は」
「あ、まあ、大したことはない」
「それ以上に酷いことは」
剥き出しになった肌を見つめ、泣きそうな顔で問われる。
見たことのない表情に、忠行は目を見開いた。
「危ないところだったがな、無事じゃ」
忠行はぱちり、と目くばせをした。
「そうですか」
道満は良かった、と呟き、忠行の縄をほどいた。
「――黙って聞いておれば、好き勝手話おって」
殺意を孕んだ声が、波紋のように部屋中に広がる。
公達がたちあがってこちらを睨んでいた。
「子ども一人でこの屋敷に乗り込んできたのが間違いであったな」
か、か、か、と歯を剥き出しにして哂った。
「皆のもの、出会え、出会えい!」
公達の叫びに呼応して、周囲のすべての御簾や障子が開いた。
刀を持った数多の家来達が、忠行達を取り囲む。
「やれやれ、穏便に済ませたかったのですが」
「それが、障子を蹴破って入ってきた者のセリフか」
「さて。どうする、忠行殿」
道満の問いに、笑顔でこたえた。
「やられっぱなしは、趣味じゃないからのう」
唇にこびりついた血を拭い、立ち上がる。
ゆるりと、一度瞬く。
双眸に、翡翠色の光が灯った。
霊気で髪が持ち上がり、宙に揺れる。
抜刀し、群衆に向かって刃を突きつけた。
「将軍さながらに、暴れてやるとしようかの」
「御意」
椿樹も、やわらかく返事をしつつ、刀を取り出す。道満もそれに倣った。
「……う」
三人の迫力に怯んだのか、家来たちがじりじりと後退する。
「何をしておるか。鼠はたかだか二匹。恐れる必要なぞない」
公達の言葉を引き金に、家来たちが一斉に切りかかってきた。
「おやおや、私のことは忘れられているみたいですね」
交戦する忠行たちを眺めつつ、椿樹が残念そうに呟く。
「式だから、誰も見えておらぬのじゃろうなあ」
刀を交えながら、忠行は椿樹を横目で見遣った。
「だから、逆に有利ともいえようぞ」
「まあ、それも」
椿樹がそこで言葉を切った。
瞳をすっ、と細め、眉根を寄せる。
忠行の背後を見ているようであった。
不審に思った忠行は名を呼ぼうと口を開いた。だがその時には既に視界から椿樹の姿が消えていた。
「――そうですね。姿が見えぬぶん隙をつきやすい」
背後から、声が聞こえた。
振り向く。
椿樹が、家来の一人を切り捨てていた。
赤い飛沫が、散る。
「何だ、今のは」
「誰に斬られたのじゃ」
家来達が、ざわめく。
「おい」
道満が、険しい顔で言った。
「本気で殺しにかかるな。あまり大事にはしたくないだろう。相手はやんごとなき公達だぞ」
「ああ」
椿樹はにっこりと笑みを浮かべ、刃を振りかざした。
「平気ですよ、峰打ちですから」
そう歌うように言う彼の頬に、返り血が散る。
どどう、と音を立てて犠牲者が倒れた。
「――何処がだ!」
忠行と道満は、同時に叫んだ。道満に額には青筋がうっすらと浮かんでいる。
味方ながら恐ろしい、と忠行は冷や汗を垂らしながら呟いた。
「それに」
椿樹は倒れている男を踏みつけ、皮肉めいた笑みを浮かべた。
「大切な人をボロボロにされても許せる程、お人よしではないのですよ」
ぶわり。
周囲の空気が変わった。
空間を支配したのは、身が打ち震える程の殺意と、濃厚な霊気。
「ひいっ!」
「化け物……!」
椿樹の姿が見え始めたのか、家来達は刀を落として逃げ始めた。
「な、何を逃げているのだ! 早く戦わぬか」
公達が慌てて叫ぶが、皆聞く耳を持たぬ。
ついにその場に残されたのは、床に伸びている家来達と、公達のみとなった。
「さあ、次は」
椿樹の目が、公達に向けられる。
「貴方の番ですね」
「ひぃっ!」
公達は慌てて部屋の出口に向かって駆け出した。
「お待ちなされ」
その肩を、椿樹の手が捉える。
「まだ、話は終わっておりませぬ」
「な、何だ」
震えおののく公達を冷たい目で見下ろし、静かに告げた。
「このことは許してさしあげますから、消して他言なさりますな。もし誰かに告げることがあれば」
椿樹は空いた手で首を掻き斬る真似をした。
「こう、です」
「ひぃいいっ! 分かりましたあ!」
「よろしい。良いお返事です」
椿樹は笑顔で頷き、手を話した。
「すみませんでしたああっ」
公達は悲鳴を上げながら、転がるようにして部屋を出て行った。
「さて」
椿樹はすっきりとした表情で、こちらに向き直った。
「これだけ脅しておけば、この一件が他言されることはありますまい」
いつもの穏やかな彼とは思えぬ言動に、忠行は小さく身震いした。
「あんな一面もあるとは。伊達に父上に仕えている訳ではないのう」
「……そうだな」
道満も、青白い顔で頷いた。
「怒らせたら怖いのは江人殿よりも奴かもしれん」
「違いないわい」
「お前さんも気をつけねばな」
そう笑う道満の背後で影がひとつ、揺らめいた。
先ほど忠行達が倒した男であった。
刀を振り上げ、にやりと口角を上げる。
「死ね、化け物」
低く紡がれた言の葉が、空気を切り裂いた。
「――避けろ、道満!」
瞬時に道満を突き飛ばし、刀を構えた。
刀身を受け止めようとしたが、間に合わなかった。
刃が空を切る音と共に、胸から腹にかけて強烈な痛みが駆け抜けた。
「がは……っ!」
競りあがった血が、咥内に収まらずにあふれ出る。
「た、忠行殿っ!」
道満の叫び声と共に、床に崩れ落ちた。
「――破っ!」
椿樹の切迫した声と同時に、赤い閃光が駆け抜ける。
「ぐはっ!」
閃光に貫かれ、男が倒れた。
「忠行殿」
駆け寄ってきた椿樹に抱き起こされた。
傷口を見た瞬間、椿樹は眉に皺を寄せ、呻くように言った。
「いけませんね、これは……」
「そんな」
道満が息を呑み、忠行の手を握る。
「忠行殿、しっかりしろ」
此方を覗き込む顔は、あまりにも悲しげで。
痛々しくて。
忠行は血に濡れた唇に、僅かに笑みを浮かべた。
ちゃんと、笑えていないやもしれぬ。
歪んだ笑みになっているやもしれぬ。
でも。
笑顔を見せたかった、
「心配はいらぬ」
荒い呼吸をくり返しながら、まっすぐに道満を見た。
「忠行、殿」
彼の丸く澄んだ瞳から、涙の真珠が零れ落ちた。
俯き、押し殺した声で、哭する。
「泣くな」
抱きしめようと、手を伸ばす。
だがその瞬間、鋭い痛みが忠行を襲った。
薄れてゆく景色の中で、彷徨った指先が道満に触れることなく、床に落ちた。
――あ~あ。
忠行は大きく嘆息し、瞳を閉じた。