序章
この過去編は、十六夜ノ巻と繋がった内容となっています。
ネタバレに近い表現もありますので、注意してください。
雨が降り注ぐ晩のことであった。
一人の男童が、渡殿を渡っていた。
その手に、水が満杯になった桶を抱えている。童はそれを零さぬように、そろりそろりと慎重に運んでいるのであった。
ぽたぽたと雨に濡れた黄金色の髪から水滴が落ち、床を濡らす。
「くしゅっ」
童は小さくくしゃみをして、鼻をすすった。
ふわり、と。
肩に衣が掛けられると共に、頭上に影が差した。
「こんなに雨に打たれていたら大風邪を引いてしまいますぞ、保憲殿」
微笑み、傘を差しているのは、椿樹。
保憲と呼ばれた童の父・忠行の式神である。
「ま、水も滴る良い男とはよう言うけどな」
椿樹の隣で、群青の髪の青年が茶々《ちゃちゃ》をいれた。
……歪。
保憲の式神である。
「貴様等、何故此処に? 父上に保遠の世話を頼まれていたのではないのか」
ぷい、とそっぽを向いて言うと、椿樹がくすくすと笑う声が聞こえた。
「確かにそうですが、やはり貴方のことが心配でこうして参じてしまいました。ご迷惑でしたか?」
「ふん、別に心配せずともうまくやっている」
保憲はそう言いつつ、歩く速度を速めた。
「何や~、やっすん。本当は寂しかったんとちゃうか? ほらほら、この歪お兄ちゃんに正直に言うてみい。ん?」
「阿呆、寂しいだなどと思うものか」
顔が、熱くなる。
歪の言っていることが、図星であったからだ。
「おうおう、顔が真っ赤やで。保憲くん」
保憲の変化に目敏く気付いた歪が、からかい混じりに笑った。
……季節は、春である。
渡殿の周囲で咲き誇った桜の花弁が、床に張り付いている。降り注ぐ雨で湿った空気が、保憲の額に玉のような汗を生み出していた。
やがて、屋敷の奥の部屋にたどり着いた。
保憲の母の、寝屋である。
他に人がいない所為か、其処は不思議な程静かだ。
労咳を患った母は、屋敷の者達から隔離されていたのだった。
労咳とは、現代でいう結核のことだ。同時、不治の病と呼ばれた難病であった。
「―――やっすんも紅華ちゃんの為とはいえ、毎日ようやるなあ」
歪が、ぼそりと呟いた。
「……母上だけ何時も一人ではかわいそうではないか」
保憲が言い返すと、歪は「せやな……」と小さく笑った。
「ん……?」
ふと、椿樹が天を仰ぎ、眉を顰めた。
「どうしたのだ、椿樹」
問うと、椿樹は保憲に視線をもどした。
心なしか、顔が青ざめて見える。
「紅華殿の気が、消えかけています」
「何」
慌てて、御簾を跳ね上げ、中に駆け込む。
刹那、濃い血の臭いが鼻をついた。
「う……っ」
思わず袖で鼻を覆い、寝屋を見渡した。
視界に飛び込んできたのは、胸に刀を突き刺された母の姿だった。
食い込んだ刀の柄を、両手で握り締めている。
それは刀を自身で突き刺しているようにも、引き抜こうとしているようにも見えた。
「母上!」
叫び、駆け寄る。
刀の柄を掴み、引き抜いた。
噴きだした血が、顔を濡らした。
「ひ……ぃっ!」
小さな悲鳴が、唇から漏れた。
初めて見る大量の血に対する恐怖が、じんわりと身体中を覆い尽くす。
「ああ、あ……っ」
「やっすん!」
がくりと膝が折り、床にへたり込む保憲を、歪の手が支えた。
「大丈夫か、やっすん」
「……母上」
保憲は歪の方には見向きもせず、畳の上でぐったりと倒れている母親を見つめた。
突如、着ていた水干を破き、傷口に当てた。
流れ出た血が衣を濡らし、手を汚した。
「何故、止まらぬのだ……。早く止めねば……母上が……、母上が」
虚ろな声で呟き、震える手を傷口に押し当てた。
紅が手を汚し、指の隙間から溢れ出る。
「何故、だ……。何故止まらぬ!」
傷から手を放し、床に叩き付けようと大きく振りかぶった。
それを、強い力で掴まれた。
「――もう、やめてくだされ。保憲殿」
「……椿樹」
背後から抱きしめるように椿樹に拘束されていた。
「紅華殿は、もう駄目です」
大きく頭を振る椿樹の瞳には、涙が溜まっていた。
「今まで散々苦しんできたのですから、最期はせめて安らかに逝かせてあげましょう」
「最期……? 最期とはどういう意味だ。母上が、死ぬとでもいうのか!」
手足をばたつかせ、もがく。
だが、椿樹の身体はびくともしない。それでも保憲は、暴れるのをやめようとはしなかった。
「母上はまだ死なぬ! 私を置いて死ぬ訳なかろう!」
「――やすの、り」
弱弱しい声が聞こえ、ぴたりと動きを止めた。
視線を、下ろす。
血に濡れた女の瞳が、此方を見つめていた。
「……母上……」
呆然と名を呼ぶと、母はにっこりと笑みを浮かべた。
それは今にも消えてしまいそうだと思う程に、儚げであった。
「椿樹の……言う、通りです……よ。私は…もう、貴方と、一緒に……いるこ……とが……出来そ……うにあり……ませ……ぬ」
「そんな……っ!」
再び叫ぼうとする保憲の唇に、指が押し当てられた。
「いいこと……、保憲。お願……いだか……ら、静かにして……ちょうだい……。最期に、貴方に…、どう……しても、伝えた……い、ことが……あるのよ……!」
絶え絶えではあるが、母の声には強い意思が感じられた。
「……はい」
保憲は目に涙を一杯湛えながら、小さく返事をした。
「ごめん、なさ……い……保憲……。貴方には……、今……まで……散々、辛い思いを……させてしまって……。貴方も……、甘えた……い年頃だった……でしょうに……保遠ばかり……」
保憲は「そんなことはありませぬ」と大きく首を横に振った。
本当は、母親の言っていることは正しかったのだ。
だが、此処で彼女の言っていることを否定すれば、全てが消えてしまう気がした。
「……ふふ、優しいのね……。そういうところ……も、忠行様に、そっくり……だわ……」
母は小さく、だが何処か楽しげに笑った。
「でも……、貴方をかまって、いなかったのには……わけが、あったのよ……。貴方を、育てる、ことに……私達が……後ろめたさを……感じて、いた……から……」
「――それは、どういうことや。紅華ちゃん」
「……歪! 紅華殿は保憲殿に話しておられるのですぞ!」
身を乗り出した歪を、椿樹が大声で諫めた。
「せやかて……!」
「いいの……よ、椿樹……。これか……ら、保憲の式……となる、貴方達にも……話しておきたい……もの……」
「紅華殿……?」
椿樹が眉を顰めて母を見る。
構わず、言葉が続いた。
「……保憲、は……元々……望まれて出来た子じゃ、ないのよ……」
部屋の外で、雷鳴が響いた。
御簾が勢い良く持ち上がり、風が吹きぬける。
雷光に照らされた母の顔は、予想以上に青白かった。