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SAKURA過去編―舞い落ちる罪華  作者: 美音
第一部 幼少編
2/9

序章

 この過去編は、十六夜ノ巻と繋がった内容となっています。

 ネタバレに近い表現もありますので、注意してください。







 雨が降り注ぐ晩のことであった。

 一人の男童おとこわらわが、渡殿わたどのを渡っていた。

 その手に、水が満杯になったおけを抱えている。童はそれをこぼさぬように、そろりそろりと慎重に運んでいるのであった。

 ぽたぽたと雨に濡れた黄金色こがねいろの髪から水滴すいてきが落ち、床を濡らす。

「くしゅっ」

 童は小さくくしゃみをして、鼻をすすった。

 ふわり、と。

 肩に衣が掛けられると共に、頭上に影が差した。

「こんなに雨に打たれていたら大風邪おおかぜを引いてしまいますぞ、保憲やすのり殿」

 微笑み、かさを差しているのは、椿樹つばき

 保憲と呼ばれた童の父・忠行ただゆき式神しきがみである。

「ま、水もしたたる良い男とはよう言うけどな」

 椿樹の隣で、群青ぐんじょうの髪の青年が茶々《ちゃちゃ》をいれた。

 ……ひずみ

 保憲の式神である。

「貴様等、何故なにゆえ此処ここに? 父上に保遠やすとおの世話を頼まれていたのではないのか」

 ぷい、とそっぽを向いて言うと、椿樹がくすくすと笑う声が聞こえた。

「確かにそうですが、やはり貴方のことが心配でこうしてさんじてしまいました。ご迷惑でしたか?」

「ふん、別に心配せずともうまくやっている」

 保憲はそう言いつつ、歩く速度を速めた。

「何や~、やっすん。本当は寂しかったんとちゃうか? ほらほら、この歪お兄ちゃんに正直に言うてみい。ん?」

阿呆あほう、寂しいだなどと思うものか」

 顔が、熱くなる。

 歪の言っていることが、図星であったからだ。

「おうおう、顔が真っ赤やで。保憲くん」

 保憲の変化に目敏めざとく気付いた歪が、からかい混じりに笑った。

 ……季節は、春である。

 渡殿の周囲で咲き誇った桜の花弁が、床に張り付いている。降り注ぐ雨で湿った空気が、保憲の額に玉のような汗を生み出していた。

 やがて、屋敷の奥の部屋にたどり着いた。

 保憲の母の、寝屋ねやである。

 他に人がいない所為せいか、其処そこは不思議な程静かだ。

 労咳ろうせきわずらった母は、屋敷の者達から隔離かくりされていたのだった。

 労咳とは、現代でいう結核けっかくのことだ。同時、不治の病と呼ばれた難病なんびょうであった。

「―――やっすんも紅華べにはなちゃんの為とはいえ、毎日ようやるなあ」

 歪が、ぼそりと呟いた。

「……母上だけ何時いつも一人ではかわいそうではないか」

 保憲が言い返すと、歪は「せやな……」と小さく笑った。

「ん……?」

 ふと、椿樹が天をあおぎ、眉をひそめた。

「どうしたのだ、椿樹」

 問うと、椿樹は保憲に視線をもどした。

 心なしか、顔が青ざめて見える。

「紅華殿の気が、消えかけています」

「何」

 慌てて、御簾みすね上げ、中に駆け込む。

 刹那せつな、濃い血の臭いが鼻をついた。

「う……っ」

思わず袖で鼻をおおい、寝屋を見渡した。

 視界に飛び込んできたのは、胸に刀を突き刺された母の姿だった。

 食い込んだ刀のを、両手で握り締めている。

 それは刀を自身で突き刺しているようにも、引き抜こうとしているようにも見えた。

「母上!」

 叫び、駆け寄る。

 刀の柄を掴み、引き抜いた。

 きだした血が、顔を濡らした。

「ひ……ぃっ!」

 小さな悲鳴が、唇から漏れた。

 初めて見る大量の血に対する恐怖が、じんわりと身体中を覆い尽くす。

「ああ、あ……っ」

「やっすん!」

 がくりと膝が折り、床にへたり込む保憲を、歪の手が支えた。

「大丈夫か、やっすん」

「……母上」

 保憲は歪の方には見向きもせず、畳の上でぐったりと倒れている母親を見つめた。

 突如とつじょ、着ていた水干すいかんを破き、傷口に当てた。

 流れ出た血が衣を濡らし、手を汚した。

「何故、止まらぬのだ……。早く止めねば……母上が……、母上が」

 うつろな声で呟き、震える手を傷口に押し当てた。

 紅が手を汚し、指の隙間から溢れ出る。

「何故、だ……。何故止まらぬ!」

 傷から手を放し、床に叩き付けようと大きく振りかぶった。

 それを、強い力で掴まれた。

「――もう、やめてくだされ。保憲殿」

「……椿樹」

 背後から抱きしめるように椿樹に拘束こうそくされていた。

「紅華殿は、もう駄目だめです」

 大きくかぶりを振る椿樹の瞳には、涙が溜まっていた。

「今まで散々苦しんできたのですから、最期はせめて安らかにかせてあげましょう」

「最期……? 最期とはどういう意味だ。母上が、死ぬとでもいうのか!」

 手足をばたつかせ、もがく。

 だが、椿樹の身体はびくともしない。それでも保憲は、暴れるのをやめようとはしなかった。

「母上はまだ死なぬ! 私を置いて死ぬ訳なかろう!」

「――やすの、り」

 弱弱しい声が聞こえ、ぴたりと動きを止めた。

 視線を、下ろす。

 血に濡れた女の瞳が、此方こちらを見つめていた。

「……母上……」

 呆然と名を呼ぶと、母はにっこりと笑みを浮かべた。

 それは今にも消えてしまいそうだと思う程に、はかなげであった。

「椿樹の……言う、通りです……よ。私は…もう、貴方と、一緒に……いるこ……とが……出来そ……うにあり……ませ……ぬ」

「そんな……っ!」

 再び叫ぼうとする保憲の唇に、指が押し当てられた。

「いいこと……、保憲。お願……いだか……ら、静かにして……ちょうだい……。最期に、貴方に…、どう……しても、伝えた……い、ことが……あるのよ……!」

絶え絶えではあるが、母の声には強い意思いしが感じられた。

「……はい」

 保憲は目に涙を一杯湛たたえながら、小さく返事をした。

「ごめん、なさ……い……保憲……。貴方には……、今……まで……散々、辛い思いを……させてしまって……。貴方も……、甘えた……い年頃だった……でしょうに……保遠ばかり……」

 保憲は「そんなことはありませぬ」と大きく首を横に振った。

 本当は、母親の言っていることは正しかったのだ。

 だが、此処で彼女の言っていることを否定すれば、全てが消えてしまう気がした。

「……ふふ、優しいのね……。そういうところ……も、忠行様に、そっくり……だわ……」

 母は小さく、だが何処か楽しげに笑った。

「でも……、貴方をかまって、いなかったのには……わけが、あったのよ……。貴方を、育てる、ことに……私達が……後ろめたさを……感じて、いた……から……」

「――それは、どういうことや。紅華ちゃん」

「……歪! 紅華殿は保憲殿に話しておられるのですぞ!」

 身を乗り出した歪を、椿樹が大声でいさめた。

「せやかて……!」

「いいの……よ、椿樹……。これか……ら、保憲の式……となる、貴方達にも……話しておきたい……もの……」

「紅華殿……?」

 椿樹が眉をひそめて母を見る。

 構わず、言葉が続いた。

「……保憲、は……元々……望まれて出来た子じゃ、ないのよ……」

 部屋の外で、雷鳴が響いた。

 御簾が勢い良く持ち上がり、風が吹きぬける。

 雷光に照らされた母の顔は、予想以上に青白かった。


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