29. Variation (side Aoi)
緋菜(朱里の母親)の姉、葵視点のお話です。
『お姉様、こんな夜遅くにごめんなさい』
妹の緋菜からの国際電話は夜の十一時を過ぎていた。
「いいえ、構わないわよ、起きていたから。どうしたの?」
本当は聞くまでも無く判ってた。
娘の朱里ちゃんの事だ。
今日、朱里ちゃんはピアノのレッスンから帰って来ると、元気が無く、直ぐに部屋に籠ってしまった。
そして、夕食の時に呼んでも出て来なかった。
ドア越しに『ごめんなさい。食べて来ました』との声だけを返して。
いつもは呼ぶと、元気よく「は~い!」と返事をしてくれて、食卓でも学校での出来事やレッスンの様子などを話してくれていたのに。
それでも・・・それでも、私達に対しては敬語が抜けないな、と思っていた。
蒼司と話す時は、友達の様に気軽に話すようになって来ていたみたいだけど、それでも全てを話せている訳ではないのだろう。
ピアノについて蒼司は門外漢だし、私も詳しくないし、父も遠ざかって久しいし。
それに学校での事だって、緋菜が来ている時に夏期講習が始まって、緋菜が追及しなければ『親衛隊』とやらが早々に出来てた事など知る由も無かったと思う。
今まで、遠く離れて暮らしていたのに、いきなり一緒に暮らし始めて『家族』となるのには、やはり無理があったのだろうか?
夫にも釘を刺されて、あまり干渉しない様に距離を置いたのが拙かったのか?
服を買い与えたりする事だけが甘やかしている事にはならない。
もっと気を配って、朱里ちゃんの変化に気付くべきだったのか?
『あのね、さっき、朱里から電話があったの・・・それでね・・・それで・・・あの子、泣いてたの』
そう話す緋菜の声も泣いていた。
『「どうしたの?」って聞いても「なんでもない」って言うだけなの・・・っく、あたし・・・やっぱり、まだ早過ぎたのかな?あの子はまだ十五なのに、一人で日本にやるなんて。無理だったのかな?』
「緋菜・・・」
泣いている妹を、どうやって慰めればいいのか判らない。
幼い頃こそ、よく泣く事があった緋菜だが、成長してからは・・・いえ、私が結婚してからは私の前で泣く事はしなくなった。
ただあの時、岡村さんとの付き合いを反対された時だけは、泣いて私の処に今の様に電話をかけて来た事があっただけ。
小さい時は、抱いて慰めれば良かった。
そして一緒に眠れば、次の日には赤い目をしながらも笑ってくれた。
こんな時、どうすればいいのか?
私には解らない。
「緋菜、ごめんなさい。あなたの大事な娘の朱里ちゃんを預かって置きながら、何も気付けなくて・・・ごめんなさい」
『お姉様・・・謝らないで』
嗚咽を堪えながら、妹は私を慰めてくれる。
ダメだわ、一番辛いのは、傍に居てあげられない緋菜の方なのに。
「私に出来る事があれば何でも言って頂戴。どうしたらいい?」
『あのね、朱里はパパに似て、あまり自分の事を言わないの。我慢しちゃう子なの。でも、判りやすい処もあるの』
緋菜は鼻を啜りながら、一生懸命説明しようとしてくれた。
『一番判り易いのは食事なの。食べる量が少しでも減ったら、その時は何か悩んでる証拠なの』
「うん、それで、そう言う時はどうするの?」
『何も聞かないで朱里の好きな物を並べるの。あのね、朱里が一番好きなのは甘い卵焼きとコロッケとハンバーグとスコッチエッグなの。あのね、おかしいけど、こっちではハンバーグって日本料理なんだよ。変だよね』
「そうね」
緋菜は泣きながら笑おうとしている。
あの子はいつも周りを明るくしようと無意識の内にしている。
周りの空気に人一番敏感で気を配る事が出来る。
朱里ちゃんは今までそうして見守られて来たのに。
『それも食べなくなったら、後はもうギュッって抱いてあげる事しか出来ないの。抱いて、頭を撫でて、それからゆっくりと話を聞いてあげるの。あたしが昔、お姉様にして貰ったみたいに』
私はその言葉に涙が出そうになった。
覚えててくれたんだ。
『朱里はね、パパに本当によく似てて、寂しがりやのクセに強がりなの。でも、サインは出してくれるの。だから、お姉様、お願いだから出来るだけ、そのサインを見落とさない様にして欲しいの』
「うん、判ったわ」
『ごめんなさい。本当なら、こんな事、お姉様にお願いする筋合いじゃない事は判ってるんだけど』
「なに言ってるの?私はあなたの何?もっと頼って欲しいわ。私が娘を欲しがってた事だって知ってるでしょう?朱里ちゃんが来た時も嬉し過ぎてはしゃいじゃって、和晴さんに怒られた位なんだから」
『お義兄さまらしい・・・』
「でも、だからって、私が距離を置いてしまったのがいけなかったのよね。ごめんなさい緋菜。こんな事になるまで気付かなくて」
何度謝ったって気が済まない。
『ううん、あたしがちゃんと朱里が一人で出来るようになるまで傍に置かなかった事がいけないの。手放すには早過ぎたんだわ』
「緋菜、それは違うと思うわ。朱里ちゃんは一人で一生懸命やってるのよ。それは認めてあげて。あの子はまだ十五なんじゃなくて、もう十五なのよ」
蒼司も私達と離れて暮らし始めたのは十五の時だった。
あの時は心配などした事も無かったし、実際に何も起こらなかったけど、朱里ちゃんの場合は、やっぱり女の子だし、今まで育った場所とは違う国に来て気を張る事も多かったのかもしれない。
『お姉様・・・そうね』
「そうよ、それにもしかしたら朱里ちゃんはちょっとだけホームシックになったのかもしれないわ。こっちに来てそろそろ二カ月になるし、あなた達が帰ってからも一カ月は経つでしょう?」
だから母親の緋菜には何も言わずに、声だけを聞きたがったのかもしれないし。
「明日、早速、朱里ちゃんの好きな物を作って見るわ。ありがとう、教えてくれて」
『お姉様・・・』
「大丈夫よ、安心して。出来るだけ朱里ちゃんの事から目を離さない様にするから。もちろん、それでも母親はあなたで、一番頼りになる存在なのは変わらないのだから、もしもの時はこちらからも連絡するわね」
そう、朱里ちゃんの母親は緋菜。
それでも、少しでもその代りが出来ればいい。
『ありがとう・・・お姉ちゃん』
妹の小さい頃の呼び方に溜まっていた涙が零れた。
「いいのよ。朱里ちゃんは私にとっても大切な姪ですもの」
私にとっては娘も同じですもの。
「緋菜も身体に気を付けなくちゃダメよ。朱里ちゃんはこっちに居ても、あなたの傍には岡村さんと玄クンが居るんだから、二人の事をちゃんと見て居てあげなくちゃ」
『うん、判ってる。お姉ちゃんも身体に気を付けてね』
「じゃあね」
『うん、ありがとう、お姉ちゃん。朱里の事、宜しくお願いします』
電話はそれで切れた。
私はそれから料理の下拵えをし始めた。
夜中にキッチンに立つ私に夫は呆れていたけれど、朱里ちゃんはきっと夕食を食べていないのだし、朝食は何としても食べさせなくてはと思って。
「伯母さん、おはようございます」
翌朝、起きて来た朱里ちゃんは、やっぱり目が少し赤かった。
そして、テーブルを見て驚いていた。
「伯母さん、これ・・・」
「お?何だか懐かしいメニューが並んでるな」
その時、和晴さんが食堂に来て、お行儀悪くもテーブルの上の物に手を出して摘まんで行った。
「あなた、お行儀が悪いですよ」
「うん、美味いな!そーいや、蒼司が小さい頃はよく作ってたよな、コレ」
窘める私の言葉に耳を貸さずに、主人がまた摘まみ上げたのはスコッチエッグだった。
「久し振りに作ってみたくなって。良かったら朱里ちゃんもたくさん食べてね。残ったらお弁当に詰めるから」
テーブルには他にもコロッケやハンバーグ、卵焼きもある。
緋菜に聞いた、朱里ちゃんの好きな物を全部作ってみた。
「あ、その・・・昨夜はごめんなさい。夕食をちゃんと食べなくて。心配・・・しましたよね」
朱里ちゃんは恥ずかしそうに下を向いたまま、そう小さく呟いた。
昨夜、自分が母親に電話した事で私に何か連絡があったと気付いたのだと思う。
「そうね、食事はちゃんと摂りましょうね。まだまだ朱里ちゃんは育ちざかりなんだから」
私はそれだけ言うと、朱里ちゃんの為にご飯をよそる事にした。
「おい、葵。朱里ちゃんがこれ以上育ったら・・・ってっ!オイ!」
和晴さんは正直過ぎて、時々気が利かなくなる事があるのが玉に傷だわ。
さり気なく足を蹴飛ばして、口止めをしたけど、気付いているのかどうか。
「はい、ご飯。たくさん食べてね」
お茶碗を置いて、食べ始めるのを見守る。
「・・・いただきます」
朱里ちゃんは卵焼きに箸を伸ばしてくれた。
「・・・美味しいです。ママと同じ味付け・・・」
「そうよ、私が緋菜に料理を教えたって言ったでしょう?」
俯きがちな朱里ちゃんが小さく頷いて、そのまま箸を他の料理にも伸ばしてくれた。
私は、俯いたその頭をそっと撫でて、髪を梳いた。
「随分伸びてしまったわね。今度、髪を揃えに行きましょうか?それとも伸ばしてみる?」
元から長めの前髪は、すっかり目を隠す程になり、後ろも襟足を隠す程度に伸びている。
あの学校は髪型については、染めなければそれほど煩くないが、それでも肩につくほど伸びれば、結ぶ必要も出てくる。
「・・・伸ばした方が女の子らしく見えますか?」
ちょっと赤い顔をして、見上げて来る朱里ちゃんの目は・・・滅茶苦茶可愛らしかった。
「・・・そうね、これから涼しくなるし、少し伸ばしてみる?」
思わず抱きしめたくなったのを堪えて微笑んだ。
ああ、これが娘を持つって事なのね。
緋菜!朱里ちゃんの事は私に任せて!
ちゃんと見守って行くから!