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才色兼備で文武両道のはずが、気づけば悪役令嬢の席に座っていました  作者: 渚月(なづき)
第1章

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第8話 毒と蜜の夜会

監査官ベルツの到着は、予定より一日早かった。支所長が開いた歓迎の夕食会に、支所の全員が呼ばれた。


街で一番大きな食堂を貸し切り、テーブルにはこの地方では珍しい料理が並んでいる。支所長の気前の良さに、他の職員たちが喜んでいる。高価な葡萄酒が惜しみなく注がれ、笑い声が食堂に唸いていた。


この宴のために使われた金は、すべて商会の経費だ。つまり、不正で水増しされた利益の一部が、この場の酒と料理に化けている。


わたしだけがそのことを知っている。この席で笑っている職員たちは、自分たちの信用が食い物にされていることに気づいていない。


わたしだけが、胃の底に重石を感じていた。


料理に手をつけるふりをしながら、口に入れたものの味が分からない。緊張で味覚が鈍っているのだ。


前世の面接前夜もこうだった。食べなければならないのに、身体が受け付けない。


ベルツ監査官は、想像と違っていた。小柄で温和な笑顔。


丁寧な物腰。人当たりがよく、支所長と旧知の仲であるという情報が嘘ではないと分かる親しげな態度。


そして──その目は、笑っていなかった。口元は穏やかでも、瞳の奥が冷たい。人を観察し慣れた目だと、わたしには分かる。


わたしは末席に座り、杯を手にしたまま観察を続けた。支所長がベルツの杯を満たし、肩を叩き、声高に笑う。


ベルツは微笑みながら相槌を打つ。二人の間に、利害の一致が透けて見える。


酒の席での親密さは、ときに金の流れより雄弁だ。ベルツが支所長の杯を自分から満たす仕草、支所長がベルツの肩に手を置く角度。すべてが「持ちつ持たれつ」の関係を示していた。


途中、ベルツがわたしに目を止めた。


「ああ、君は──新しい書記だと聞いている。若いのに優秀だそうじゃないか」


「まだ試用の身です。恐れ入ります」


「謙虚でいい。支所長が褒めていたよ」


支所長が、褒めていた? わたしを?


不自然だ。試用期間の雑用係を、わざわざ監査官に褒めて見せる理由がない。


──いや、ある。一つだけ。


わたしを「自分の手柄」として見せたいのだ。優秀な人材を見出したという実績。それは監査の印象操作に使える。


優秀な人材を見出したという実績。それは監査の印象操作に使える。


わたしは支所長にとって、駒の一つに過ぎない。だが、駒にも意思がある。


夕食会が終わりに近づいた頃、支所長が席を立って挨拶をした。明日から三日間の監査に全面協力すると宣言し、職員たちに拍手を促した。


その間、カイはほとんど食事に手をつけず、水だけを飲んでいた。わたしと視線が合ったのは、一度だけ。


ほんの一瞬。だがその目が「まだ動くな」と伝えていた。



翌日、監査が始まった。


ベルツは丁寧だった。書類を一枚ずつ確認し、質問し、メモを取る。一見すると厳正な監査に見える。


だが、わたしは気づいた。ベルツが確認しているのは、支所長が「差し替えた後」の書類だけだということに。


元の伝票は既に処分されている。カイに「整理」を命じた日に。そしてベルツは、差し替えられた書類が「正しい原本」であるかのように扱っている。


これは出来レースだ。


怒りが湧いた。だが、ここで感情を出せば負ける。


証拠の写しは持っている。問題は、いつ出すか、どう出すかだ。


前世で学んだ交渉術が頭をよぎる。不利な状況では、正面突破ではなく迂回する。相手の想定外の角度から攻める。


証拠の写しは持っている。だが、いつ出すか。


どう出すか。ベルツが支所長の味方なら、わたしが直接渡しても握り潰される可能性がある。


監査二日目の夕方、わたしは一つの決断をした。


カイを見つけ、倉庫の陰で短く告げた。


「写しを、ベルツ監査官に直接渡すのはやめます」


カイの目が鋭くなった。


「なぜだ」


「ベルツさんは支所長と結託している可能性が高い。直接渡せば、二人で隠蔽されます」


「では、どうする」


「本店に送ります。写しを、直接」


カイが息を吸った。


「監査官の頭越しに本店へ訴えるのか。……それは、ベルツも敵に回すということだ」


「はい。でも、中間で握り潰されるよりましです。証拠が本店に届きさえすれば、本店は動かざるを得ない」


カイは腕を組み、考え込んだ。長い沈黙。倉庫の埃っぽい空気の中で、二人の呼吸だけが聞こえる。


カイの呼吸は深く、安定している。緊張しているはずだが、それを制御できる人間だ。


わたしも深く息を吸った。カイの冷静さが、伝染するように自分の心拍を落ち着かせてくれる。


「リスクは分かっているか」


「支所長とベルツの両方を敵に回す。わたしがこの支所にいられなくなる可能性がある」


「……それだけじゃない。没落貴族の素性を掘り返される可能性もある。お前が何者か調べられたら──」


分かっている。だからこそ、今なのだ。証拠がある今のうちに動かなければ、チャンスは二度と来ない。


「覚悟の上です」


カイはわたしの目を、長く見つめた。


「分かった。本店への書簡は俺のルートで送る。商人仲間に託せば、支所長の目を通さず届けられる」


ありがとう、と言おうとして、声が詰まった。この人は、自分のキャリアも賭けてくれている。孤児から這い上がったカイにとって、商会の地位は命綱と同じだ。


この人は、自分のキャリアも賭けてくれている。孤児から這い上がったカイにとって、商会の地位は命綱と同じだ。


それを手放す覚悟をしてくれている。その重さが分かるからこそ、簡単に「ありがとう」とは言えなかった。


それでも、協力してくれる。


「カイさん」


「何だ」


「終わったら、あのパン屋で、今度はゆっくりパンを食べましょう」


カイは一瞬、虚を突かれた顔をした。それからほんの少し──本当にほんの少しだけ、口角が上がった。


「終わったらな」


その夜、わたしは写しの束をもう一度確認し、書簡を書いた。事実だけを、簡潔に。


感情は入れない。前世で学んだ報告書の書き方──客観的に、論理的に、証拠とともに。


封をしたとき、指が震えていた。この封書が届けば、嵐が来る。


この封書が届けば、嵐が来る。だけど嵐が来なければ、不正は闇に葬られる。


わたしは嵐を選ぶ。前世で学んだことがある。「正しいことをするのに、適切なタイミングなどない。今が、いつだって最善のタイミングだ」


前世で学んだことがある。「正しいことをするのに、適切なタイミングなどない。今が、いつだって最善のタイミングだ」。


あの言葉を言ったのは誰だったか。上司か、先輩か、それとも本で読んだのか。


思い出せない。だけど言葉は、ここに残っている。


カイが商人仲間に書簡を託したのは、翌日の早朝だった。信頼できる行商人で、王都までの定期便を持っている。


支所長の目を通さずに本店に届けられる唯一のルートだ。書簡が相手の手に渡った瞬間、わたしの中で何かが切り替わった。


もう後戻りはできない。賽は投げられた。


その日の仕事中、わたしは一度だけ窓の外を見た。リンデの空は晴れていた。


この空の向こうに王都がある。封書はもう旅の途中だ。


あと数日で届く。届いた瞬間、嵐が始まる。


それまでは、何事もなく日常を演じる。演技力が問われる数日間だ。前世で学んだポーカーフェイスが、これほど役に立つ日が来るとは。


──だけど、嵐の目にいるのは、わたしだけではない。

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