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才色兼備で文武両道のはずが、気づけば悪役令嬢の席に座っていました  作者: 渚月(なづき)
第1章

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第7話 嵐の前の仕込み

監査官の到着まで、あと四日。支所の空気が微妙に変わり始めていた。


支所長の機嫌がいい。妙に上機嫌で、部下にも愛想がよい。


職員の一人が「最近、支所長が急に書類を気にするようになった」と休憩中にこぼしていた。普段は書類になど見向きもしない人間が、急に記録を確認し始める。それは、何かを隠す準備だ。


それが逆に、不気味だった。人が急に機嫌よくなるときは、たいてい何かを隠している。前世の職場でも、上司が急に優しくなったときは、人事異動かリストラの前触れだった。


午後、支所長がカイを呼び出した。扉の向こうからくぐもった声が漏れるが、内容は聞き取れない。


十五分ほどしてカイが出てきた。表情はいつも通り──だが、顎の筋肉がわずかに強張っている。


閉所後、カイが例のパン屋の路地にわたしを呼んだ。


「支所長が手を打ってきた。監査の前に、記録を作り直すつもりだ」


息が詰まった。つまり、不正の痕跡を消そうとしている。


「元の記録を処分するということですか」


「恐らくな。俺に、過去三ヶ月分の伝票を「整理」しろと命じてきた。整理という名目で、ペルム商店との取引記録を差し替えるつもりだろう」


考える。相手は追い詰められたのではない。


最初から、監査に備えて証拠を消す算段だったのだ。支所長は愚かではない。


不正を行う人間は、発覚した場合の対策も同時に用意している。それは前世でも同じだった。問題は、相手の対策の「先」を読めるかどうかだ。


問題は、相手の対策の「先」を読めるかどうかだ。支所長は監査を乗り切る自信がある。


だからこそ機嫌がいいのだ。その自信を砕くには、相手が想定していない方向から動くしかない。


「カイさん。その命令には従ってください」


カイの眉が動いた。


「どういう意味だ」


「逆らえば、わたしたちが不正を掴んでいることが支所長に伝わります。今は、気づいていないふりを続けるべきです」


「だが、記録を差し替えられたら証拠が──」


「差し替える前に、写しを取ります」


カイが黙った。わたしの顔を見ている。


「今夜中に、元の伝票をすべて書き写します。わたしの字は速いと、カイさんが一番よく知っているでしょう」


数秒の沈黙。それからカイが、ほとんど聞き取れない声で言った。


「……無茶をする」


「無茶ではありません。計算済みです」


本当は、胸の奥が冷たい。今夜一晩で三ヶ月分の伝票を写すのは、体力的にも時間的にもぎりぎりだ。だけどやるしかない。


やらなければ、証拠が消える。証拠が消えれば、不正はなかったことになる。


そしてわたしたちは、何の根拠もなく支所長に楯突いた不届き者として処分される。退路はない。


その夜、閉所後の支所に忍び込んだ。カイが鍵を開けてくれていた。ランプの灯りを最小限にして、伝票の棚に向かう。


紙とインク。手が自動的に動き始める。


品目、単価、個数、仕入れ先、日付。一枚ずつ、正確に写す。


三時間を過ぎたあたりから、手首に鈍い痛みが走り始めた。指先の感覚が鈍くなってくる。


だけど手を止めるわけにはいかない。一枚のミスが、すべてを台無しにする。


前世の記憶が、終電まで残業した夜を思い出させた。あの頃も、こうやって手を動かし続けた。


報われるかどうか分からないまま。コーヒーの代わりに水を飲み、眠気を振り払い、ただ手を動かす。


一時間。二時間。


手首が痛み始める。前世の記憶が、終電まで残業した夜を思い出させた。


あの頃も、こうやって手を動かし続けた。報われるかどうか分からないまま。


肩が凝り、腰が痛む。だけど手を止めるわけにはいかない。


一枚のミスが、すべてを台無しにする。集中。


ただ、集中。前世の自分が得意だった「ゾーン」の感覚が蘇る。世界が狭くなり、目の前の紙とペンだけが存在する。


──でも、今は違う。今回は、自分の意志で選んでいる。


窓の外が白み始めた頃、最後の一枚を書き終えた。指先が震えている。インクの染みがついた手を、ぼんやりと見つめた。


右手の感覚がほとんどない。指を開いたり閉じたりすると、鈍い痛みが走る。


だけど、やり遂げた。三ヶ月分、百枚以上の伝票を、一晩で正確に写し取った。


前世のわたしにこんな体力はなかった。この身体のレティシアに感謝する。


貴族教育で鍛えられた書字の技術と、若い肉体の持久力。前世の知恵と、この世界の身体。二つが合わさって、不可能を可能にした。


写しの束を丸め、腰帯の内側に隠した。元の伝票は棚に戻す。


紙の束は思ったより嵩張った。歩くたびに腰に当たるが、この不快感が安心感に変わる。証拠は、わたしの身体と共にある。


支所を出ると、朝の冷気が頬を打った。路地に、人影があった。


カイだった。壁に背を預けて、腕を組んでいる。


「ずっと、ここにいたんですか」


「見張りだ。誰かに見られたら終わりだろう」


声は平坦だった。けれど、夜通しここに立っていたのだと思うと、胸の奥が温かくなった。


「ありがとうございます」


「礼はいい。……手、見せろ」


差し出した手を、カイがちらりと見た。インクと擦り傷だらけの指先。カイは何も言わず、自分の上着のポケットから小さな布を出して、わたしの手に載せた。


「冷やしておけ。腫れる前に」


布は冷たく、湿っていた。井戸水で濡らしてあったのだ。──いつの間に用意したのだろう。


夜中のどこかで、井戸まで行って布を濡らし、またここに戻ってきたのか。カイは口では何も言わないが、行動ですべてを示す。その不器用な優しさが、今はとても沁みる。


カイはもう背を向けて歩き出していた。追いかける代わりに、わたしは冷たい布を握りしめて、朝焼けの空を見上げた。


証拠は手の中にある。あとは、監査官の前に出す方法を考えるだけだ。


支所を出る前に、棚の中を最終確認した。元の伝票はすべて元通りの位置に戻っている。


指紋がつかないよう、手袋代わりに布で触った。前世のミステリー小説で読んだ知識が、こんなところで役に立つとは思わなかった。


完璧ではないかもしれない。だけど、できることはすべてやった。


あとは天に任せる──とは言わない。天に任せるのは、自分の力を尽くした後の話だ。


支所の鍵をそっと戻す。明日、カイがこの鍵で支所を開けるとき、何事もなかったように一日が始まる。


わたしたちの秘密の夜は、誰にも知られない。だけどその夜の成果は、やがてすべてを変える。


それが、目に見えない仕事の力だ。小さなことの積み重ねが、世界を動かす。品書き一枚から始まった道が、ここまで来た。


朝の空気は澄んでいて、遠くの山の稜線がくっきりと見えた。リンデの朝は美しい。


この街に来た日のことを思い出す。何もなかった。


名前すらなかった。あれからどれだけのものを積み上げてきたか。


品書き、酒場の改善、商会での仕事、そして不正の発見。一つずつ、小さな石を積んできた。


今、手の中に証拠がある。それは、わたしが自分の力で掴み取ったものだ。


──だけど、支所長がもう一つ別の手を打っていたことを、この時のわたしはまだ知らなかった。

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