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才色兼備で文武両道のはずが、気づけば悪役令嬢の席に座っていました  作者: 渚月(なづき)
第1章

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第6話 背中を預ける理由

監査官が来るまで、あと三週間。カイの指示通り、わたしは普段通りに仕事をこなしていた。


伝票を捌き、書簡を清書し、雑務を黙々とこなす。支所長の前では特に、何も知らない顔を徹底した。


仕事に没頭するふりをして、内心は綱渡りの連続だった。支所長に話しかけられるたびに、心拍が跳ね上がる。


だけど顔には出さない。それだけは自信がある。前世の職場で培った「感情を見せない技術」が、ここでも役に立っている。


けれど「動くな」と言われても、目を閉じるわけにはいかない。


観察は続けていた。支所長の行動、ペルム商店との連絡の頻度、そして支所に出入りする人々の顔ぶれ。


知らないふりをしながら、頭の中に情報を積んでいく。支所長は最近、週に二回はペルム商店の主人と食事に出かけている。その日は決まって機嫌がよく、職員に菓子を配ったりする。


支所長の行動パターンを、頭の中で表にしている。出勤時間、退勤時間、外出の頻度と行き先。


ペルム商店の主人と会う日は、支所長の服装がいつもより上等になる。靴も磨いてある。そういう細部に、人間の本性が出る。


そんなある日、昼の休憩時間にカイが声をかけてきた。初めてのことだった。


「昼飯は食ったか」


「まだです」


「外に出る。ついて来い」


唐突だった。けれどカイの口調に、いつもの無感情とは違う何かが混じっている。わたしは黙って従った。


連れて行かれたのは、大通りから一本入った細い路地にある、小さなパン屋だった。壁にツタが這い、看板は色褪せている。


けれど中から漂うパンの匂いは温かい。石畳の路地に小さな花が咲いていて、人通りの少ない静かな場所だった。


カイは慣れた様子で二つのパンを買い、一つをわたしに渡した。


「支所長の耳が届かない場所で話す。ここなら大丈夫だ」


パンを受け取った。焼きたてで、手のひらに熱が伝わる。


「監査の件だが、少し状況が変わった」


カイはパンを齧りながら、淡々と話した。


「本店から来る監査官は、ベルツという男だ。有能だが、支所長と旧知の仲らしい。表面的な書類だけ見せれば、見逃す可能性がある」


それは、まずい。


「つまり、監査官が味方とは限らないということですか」


「そうだ。だから、こちらから証拠を突きつける必要がある。監査官が見逃せないほど明確な形で」


カイの目がわたしを捉えた。真っ直ぐな視線。


「お前が作った比較表。あれをもう一段、精度を上げられるか。仕入れ先の相場価格を裏付ける資料が要る」


「市場で直接、繊維の相場を確認すればいい。リンデの市場は月に三回、大きな取引日がありますよね」


カイが少し目を見開いた。すぐに元の無表情に戻ったけれど、見逃さなかった。


カイは感情を顔に出さない人間だが、身体の反応は隠せない。目の動き、指先の力加減、呼吸のリズム。わたしはこの数週間で、カイの「無表情の下」を読めるようになっていた。


「知っていたのか」


「酒場で情報を集めていますから」


カイはパンの残りを口に入れ、ゆっくり咀嚼した。


この人は考えるとき、必ず何かを口に入れる。茶を飲むか、パンを齧るか。


口を動かしている間に、頭の中で情報を整理しているのだろう。前世の上司にも似たような癖の人がいた。


「次の取引日は五日後だ。俺が同行する」


それは、仕事の指示を超えた言葉だった。同行する、とカイが言うのは、わたし一人では危険だという判断か。あるいは──信用してもいいという意思表示か。


「カイさん。一つ訊いてもいいですか」


「何だ」


「なぜ、わたしに協力してくれるんですか。身元も分からない試用の雑用係に」


カイは答えるまでに、少し間を置いた。視線が路地の向こうに向いている。


「俺もこの商会に入ったとき、身元の保証は何もなかった。孤児だからな」


静かな声だった。同情を誘う調子ではなく、ただの事実を述べる口調。


「実力だけで這い上がった。だから、実力のある人間を出自で切り捨てるのは、好かない」


それだけ言って、カイは立ち上がった。


わたしは食べかけのパンを持ったまま、その言葉を胸の中で反芻していた。出自で切り捨てない。


実力を見る。それは、わたしが今一番欲しかった言葉だった。


「戻るぞ。昼休みが終わる」


わたしは食べかけのパンを持ったまま、カイの背中を見た。広い背中ではない。けれど真っ直ぐで、迷いがない。


この人の背中なら。そう思った。理由を言葉にする前に、身体がそう判断していた。



五日後。取引日のリンデ市場は、想像よりも活気があった。


天幕の下に繊維や香辛料の山が並び、商人たちが声を張り上げている。潮の匂いのする布、山岳地帯から運ばれた染料、色とりどりの繊維が所狭しと店先を飾っている。


カイと二人、市場を歩きながら、繊維の相場を聞いて回った。わたしが値段を訊き、カイがそれをメモする。何軒かの商人と話すうちに、相場の幅が見えてきた。


結論は明白だった。ペルム商店の卸値は、市場相場の二割増し。


一割どころではなかった。精査すればするほど、不正の輪郭がくっきりする。


市場の商人たちは、こちらの質問に快く答えてくれた。カイが商会の名前を出したこともあるが、リンデの商人たちは基本的に開放的だ。


情報が集まりやすい街。マルタの宿で学んだことが、ここでも活きている。


「これだけ差があれば、監査官も無視できない」


カイの声に、初めて確信のようなものが滲んでいた。


市場からの帰り道、カイが不意に足を止めた。わたしの数歩先で。


「レティ」


「はい」


「監査が終われば、支所長は処分される。そのとき──お前の名前が表に出る可能性がある。告発者として」


分かっていた。覚悟はしている──つもりだった。けれどカイに言われると、現実の重さが増す。


「それでも構いません」


「……そうか」


カイはそれ以上何も言わず、歩き出した。だけどその歩幅が、ほんの少しだけ、わたしに合わせて狭くなっていることに気づいた。


並んで歩く。ただそれだけのことが、こんなに心強いと知ったのは、初めてだった。


前世では、一人で何でもやろうとした。頼ることが苦手だった。


だけどこの世界では、一人ではどうにもならないことがある。それを弱さだと思わなくなったのは、いつからだろう。たぶん、カイと並んで歩くようになってからだ。


宿に帰り、二階の窓から夜の街を見下ろす。星がよく見える夜だった。


来週、監査官が来る。準備は整いつつある。けれど──胸騒ぎが消えない。


勘、と呼ぶには根拠がない。だけど前世でも、大事な局面の前にはこういう感覚があった。


カイと過ごす時間が増えるにつれ、この人の別の面が見えてきた。仕事中は無表情で厳格だが、パン屋の老人には必ず会釈をする。


支所の清掃員にも丁寧に挨拶する。地位の高低で態度を変えない人間だ。


それは前世でも稀有な美徳だった。そういう人間の傍にいると、自分も背筋が伸びる。


仕事の後、支所の片付けをしながら何気ない会話をする。好きな食べ物、苦手な天気、子供の頃の些細な記憶。


カイが語る過去は断片的だが、その一つ一つがカイという人間の輪郭を描いていく。孤児院では一番年上で、小さな子の面倒を見ていたらしい。だから仕事の振り方がうまいのか、と納得した。


何かが、まだ見えていない。その「何か」が動く前に、こちらが先に動かなければ。

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