第5話 最初の一手
ヴァイス商会での仕事は、想像よりも地味だった。伝票の整理、在庫の照合、書簡の清書。雑務と書記を兼任するという言葉の通り、朝から夕方まで走り回る日々が始まった。
足が棒になるとはこういうことかと、二日目にして実感した。前世のデスクワークとは体力の消耗が違う。だけど身体を動かすことで、頭もよく回る。
だけど、地味な仕事にこそ情報が詰まっている。
伝票を一枚ずつ処理するうちに、商会の取引先と流通経路が見えてきた。どこから仕入れ、どこに卸し、どの品目で利益を出しているか。
前世で言えば、経理部のデータを一つずつ読み解く作業に近い。そして、そういう作業は、前世のわたしの得意分野だった。
上司に「お前はデータが好きだな」と笑われたことがある。好きなのではなく、データには嘘がないから信頼しているだけだ。
人は嘘をつく。言葉は裏切る。
だけど正しく集められたデータは、常に真実を語る。この世界でも、その原則は変わらない。
そして、そういう作業は前世のわたしの得意分野だった。地味でも、積み上げれば全体像が見える。
木を見て森を見る。その逆もまた然り。
二週目に入った頃、ひとつの違和感に気づいた。
リンデ支所に届く繊維の仕入れ値が、本店経由の相場より一割ほど高い。同じ品質のものが、なぜか支所だけ割高で入ってきている。
偶然かもしれない。経路の違いによる輸送費の差かもしれない。
だけど、前世の経験が「ここを調べろ」と告げている。以前の職場で、似たような不一致を見たことがある。そのときは上司が動いてくれたが、今回は自分で動くしかない。
だけど、前世の経験が「ここを調べろ」と告げている。以前の職場で、似たような不一致を見つけたことがある。
あのときの上司は「数字が嘘をつくことはない。嘘をつくのは常に人だ」と言った。その言葉が、今のわたしの指針になっている。
すぐには動かなかった。まず観察する。
仮説を立て、検証してから動く。それがわたしの──前世から受け継いだ、唯一の戦い方だ。
焦りは禁物だ。前世でも、不正を発見した同僚がすぐに上に報告して、逆に「証拠不十分」と突き返された例を見ている。
告発は、準備が九割。残りの一割がタイミングだ。
三週目。伝票を時系列で並べ直し、仕入れ先ごとに分類した。
すると、一つの仕入れ先だけが常に相場より高い値をつけていることが分かった。「ペルム商店」という名前。他の仕入れ先は相場通りなのに、ペルム商店だけが突出している。
さらに調べると、ペルム商店との取引を始めたのは支所長自身だった。しかも、開所と同時期に。
──これは、中抜きだ。
支所長がペルム商店と結託して、仕入れ値を水増ししている。差額がどこに流れているかは、伝票だけでは証明できない。だけど構造としては、前世でも見たことがある手口だった。
問題は、これをどうするか。
支所長に直接言えば握り潰される。本店に告発するには証拠が足りない。そもそもわたしは試用期間の雑用係で、発言力など皆無だ。
考える。使えるものは何か。
カイだ。
カイは支所の実務を仕切っている。有能で、仕事に妥協がない。
それはこの三週間で十分に分かった。もしこの不正に気づいていないなら、情報を提示すれば動くかもしれない。気づいていて黙っているなら──それは別の問題だ。
書類の処理速度、判断の正確さ、部下への指示の的確さ。どれを取っても一流だ。
そしてカイの仕事ぶりには、私利私欲が見えない。支所長とは対照的に、カイの机は質素で、私物はほとんど置いていない。
問題は、カイがどちらの人間かということだ。正義感で動く人間か、保身で動く人間か。
この三週間の観察では、カイは後者ではないと感じている。だが、確信はない。賭けるしかない。
ある日の閉所後、カイが一人で伝票を確認しているところに声をかけた。
「カイさん、少しお時間をいただけますか」
カイの手が止まった。顔は上げない。
「何だ」
「仕入れ伝票を整理していて、気になる点がありました。繊維の仕入れ値についてです」
そこで初めて、カイが顔を上げた。
わたしは用意した資料を広げた。伝票の比較表。
相場との差異。取引開始時期の一致。すべて事実だけを並べ、推測は一切書いていない。
カイは資料を一枚ずつ、丁寧に読んだ。表情は変わらない。だけど、指先が資料の端を強く押さえていた。
「……いつ気づいた」
「先週です。確認に時間をかけました」
「俺以外に話したか」
「いいえ」
カイは資料から目を離し、わたしを見た。値踏みとは違う目だった。もっと深い──測っている、という表現が近い。
「これを俺に見せた理由は」
「正しい場所に情報を渡したかったからです。わたしには権限がないので」
カイは数秒黙った。それから、資料を自分の引き出しにしまった。
鍵をかける音がした。その小さな金属音が、わたしには契約の締結のように聞こえた。
「分かった。この件は俺が扱う。お前は、これまで通り仕事をしろ。そして──この資料の存在は、誰にも言うな」
「はい」
それ以上の言葉はなかった。わたしは静かに退室した。
◇
宿に帰る道すがら、夜風が冷たかった。正しいことをした。
そう思いたい。だけど、不正を指摘することは、敵を作ることでもある。
石畳の道に、わたしの足音だけが響く。月明かりが薄い夜だった。
空を見上げると、雲の切れ間から星がいくつか見えた。この世界の星座は知らないけれど、光は前世と同じように冷たく、美しい。
支所長がこれを知ったら、真っ先に消されるのは告発者だ。つまり、わたし。
カイを信じていいのか。答えはまだ分からない。
宿の扉を開けると、マルタが帳場で居眠りをしていた。わたしの気配で目を開ける。
「遅かったね」
「少し仕事が長引きました」
「……顔が硬いよ。何かあったのかい」
何でもないと言おうとして、やめた。嘘はつかない。だけど全部は言えない。
「少し、大きな判断をしました」
マルタは何も訊かなかった。ただ、温めたスープを一杯出してくれた。
その沈黙が、どんな励ましの言葉よりも優しかった。マルタはいつもそうだ。言葉ではなく、行動で支えてくれる。
翌朝、出張所に出勤すると、カイが普段通りの顔で書類を捌いていた。何事もなかったかのように。
けれど、わたしの机の上に、一枚の紙が置かれていた。カイの字だと分かった。
『本店の監査官が来月リンデに来る。それまで、動くな』
カイは味方なのだと、その一行で分かった。そして同時に、来月までに支所長がわたしの正体に気づけば、すべてが瓦解する可能性があることも。
ペンを握った指が、微かに震えていた。けれど今度は、恐怖だけではない。
ようやく、戦いの盤面が見え始めた。




