第4話 値踏みされる手
商会の出張所は、街の大通りに面した石造りの建物だった。真新しい看板に「ヴァイス商会リンデ支所」と刻まれている。わたしはその前で、一度深く息を吸った。
手のひらに汗。緊張しているのは、試験があるからではない。名前を偽らなければならないからだ。
マルタには「レティ」と名乗ることにした、と告げてある。グランヴェールの名前は隠す。
親族が何を仕組んだかは分からないが、安全策を取るべきだと判断した。服装はマルタが貸してくれた少し綺麗なブラウス。袖を何度も縫い直した跡があるが、清潔で、背筋さえ伸ばせば清潔感は保てる。
出張所の扉を開けると、受付に若い男性がいた。書類を捌く手が速い。仕事のできる人間特有の、無駄のない所作。
書類の山を捌く手つきには迷いがなく、一枚ごとの判断が速い。優秀な人間は、動作の一つ一つに無駄がない。前世の職場でも、本当に仕事ができる人はそうだった。
「書記の募集を見て参りました」
男性が顔を上げた。黒髪に、深い緑の瞳。
年はわたしと同じくらいか、少し上だろうか。整った顔立ちだが、表情が硬い。口元に築かれた線が、簡単には笑わない人間だと語っている。
「名前と、これまでの経歴を」
「レティと申します。経歴は──正直に申し上げると、証明できるものがありません」
彼の眉がわずかに動いた。
「証明できない経歴は、ないのと同じだ」
冷たい言葉だった。だけど間違ってはいない。
この世界では、身分証明が信用の基盤になっている。それがないわたしは、つまりゼロからの出発ということだ。
「であれば、実技で判断していただけませんか」
彼はしばらくわたしを見つめた。それから、無言で紙と羽根ペンを差し出した。
「この伝票を写してみろ。正確さと速さを見る」
伝票には、品目と単価と個数が並んでいた。合計の欄は空白。ただの写しではなく、計算力も試しているのだ。
羽根ペンの扱いには、レティシアの身体が慣れていた。指先が自然にペンを構える。
前世のわたしにはない技術で、感謝する。そして計算は、前世のわたしの領分だ。
集中する。品目を写しながら、頭の中で合計を走らせる。
前世で何度もやった作業。三分ほどで書き終えた。合計欄も埋めて、紙を彼に差し出す。
ペンが紙の上を滑る感覚が心地いい。レティシアの身体は、文字を書くことに慣れている。
筆圧の加減、インクの量の調節、すべてが自然だ。一方、頭の中では前世の計算力がフル回転している。二つの世界の力が、この瞬間、一つに重なる。
彼は紙を受け取り、一行ずつ指で追った。途中で手が止まった。合計欄を見つめている。
「……合っている。暗算か」
「はい」
彼の表情が、ほんの少しだけ変わった。驚きではない。
もっと静かな何か。値踏み、という言葉が一番近い。
「字も読みやすい。だが、身元の保証がない者を雇う権限は俺にはない。支所長に確認する。三日後にもう一度来い」
「ありがとうございます」
頭を下げて外に出た。大通りの風が頬に当たる。
まだ何も決まっていない。だけど、門前払いではなかった。
◇
宿に戻ると、マルタが帳場で頬杖をついていた。
「どうだった」
「三日後にもう一度来いと言われました」
「門前払いじゃなかったんだね。上出来だ」
マルタはそう言って、棚から干した果物を一つ投げてよこした。わたしはそれを受け取り損ねて、床に落とした。
「運動は苦手かい」
「……少し」
マルタが笑った。初めて見る、声を出しての笑い。つられてわたしも口元が緩む。
果物を拾い、齧った。甘酸っぱい。この世界の食べ物にも、少しずつ馴染んできている。
皮が少し硬くて、中は柔らかい。この世界の果物は、前世のものとは味が違う。でも、甘酸っぱさの中にある「生きている」という感覚は同じだ。
三日間、わたしは宿の仕事をしながら、商会について情報を集めた。ヴァイス商会は王都に本店を持つ中堅の商会で、最近リンデに進出してきたらしい。扱うのは主に繊維と香辛料。
酒場で耳を澄ませ、客との雑談の中から有用な情報を抜き出す。前世の営業職が使っていた「何気ない会話から本音を引き出す」テクニックが、ここでも活きている。
リンデの商人は口が軽い。酒が入ればなおさらだ。
そして、あの受付の男性──名前はカイ、というらしい──が、この出張所の実質的な番頭格だと酒場の客から聞いた。若いのに有能で、しかし愛想がないと評判だった。
三日後。約束の時間に出張所を訪ねると、カイの他にもう一人、恰幅のいい中年の男性がいた。支所長だろう。
腹が出ており、顔は赤みを帯びている。よく食べ、よく飲む人間の顔だ。指には金の指輪が光っていて、支所の規模に不釣り合いな贅沢さが気になった。
支所長はわたしを上から下まで見て、あからさまに顔をしかめた。
視線が蔑みを含んでいるのが分かった。身なりを見ているのだ。
マルタの借り物のブラウスは清潔だが、上質とは言い難い。この世界でも、服装で人を判断する人間はいる。
「身元保証なし。経歴なし。こんな小娘を雇えるわけがないだろう、カイ」
カイは黙っていた。視線だけが、わたしを捉えている。
「支所長、一つだけ機会をいただけませんか」
わたしは用意してきた紙を取り出した。この三日間で書いた、リンデの商業分析だ。宿の客から聞いた情報をもとに、季節ごとの人の流れ、よく売れる品目、競合する商店の特徴をまとめたもの。
「この街で商いをするなら、こうした情報が役に立つかと思いまして」
支所長は紙を受け取り、ざっと目を通した。表情が変わった。しかめ面は残っているが、そこに別の色が混じる。
「……これを、三日で?」
「酒場で働いておりますので、情報が集まりやすい環境にいます」
支所長はカイを見た。カイが小さく頷いた。
「試用だ。一月の間、雑務と書記を兼任しろ。給金は正規の半額。結果を出せば正式に雇う。出せなければ、その日に辞めてもらう」
「謹んでお受けします」
胸の中で小さな火が灯った。ゼロだった足元に、ようやく最初の石が置かれた感覚。
呼吸が深くなった。肩の力が、少しだけ抜ける。
まだ試用に過ぎない。だけど、門の前に立っていた人間が、門の中に入ることを許された。その一歩は、どんな大きな一歩よりも重い。
だけど、出張所を出る間際に、カイが背後から声をかけてきた。
「レティ、と言ったな」
「お前の字は、貴族の教育を受けた人間の字だ。知っておいた方がいい──この街には、没落貴族を嫌う人間がいる」
背筋が冷えた。気づかれている。完全にではないが、少なくとも推測はされている。
振り返ると、カイは既に書類に目を落としていた。警告なのか、忠告なのか。あの無表情からは読み取れない。
出張所からの帰り道、大通りの露店で焼き栗を売っていた。香ばしい匂いに足が止まる。
銅貨一枚で三つ。前世なら考えもしない贅沢だが、今のわたしには大きな出費だ。
迷った末に買わなかった。その節約の判断ができる自分を、少しだけ誇りに思った。
ただ一つ確かなのは、ここから先は「能力」だけでなく「正体」も守り通さなければならない、ということだった。




