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才色兼備で文武両道のはずが、気づけば悪役令嬢の席に座っていました  作者: 渚月(なづき)
第2章

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第20話 無敵の意味

リンデに帰った日、マルタが酒場の入り口で待っていた。わたしの顔を見るなり、大きく息を吐いた。


「帰ってきたね」


「ただいまです」


マルタはわたしの頬を両手で挟み、じっと顔を見た。それから、満足そうに頷いた。


「いい顔になった。来た頃とは別人だよ」


来た頃。路地で倒れていた、名前も記憶もない少女。あれからまだ一年も経っていない。


あれからまだ一年も経っていない。季節が一つ巡る間に、わたしは名前を取り戻し、仕事を得て、仲間を見つけ、真実を掘り起こし、そして──大切な人の隣に立つことを覚えた。


季節が一つ巡る間に、わたしは名前を取り戻し、仕事を得て、仲間を見つけ、真実を掘り起こし、そして──大切な人の隣に立つことを覚えた。



王都の監察局による調査は、ヴェルナーの言った通り、数ヶ月をかけて進んだ。その間、わたしはリンデで支所の仕事を続けていた。


日常は変わらない。伝票を処理し、取引先と交渉し、新しい仕入れルートを開拓する。だけど、以前とは一つだけ違うことがあった。


カイと、毎朝一緒にパン屋に寄るようになっていた。


あの路地裏の小さなパン屋で、二つのパンを買い、一つずつ持って出勤する。特別なことは何もない。ただ並んで歩き、ときどき短い言葉を交わすだけ。


それが、わたしたちの「形」だった。派手な言葉も、大げさな約束もいらない。


毎朝、同じ時間に、同じ場所で、同じパンを買う。その繰り返しの中に、確かな幸福がある。


パン屋の老人はもう、何も言わずに二つのパンを袋に入れてくれる。常連になった。


この世界で「常連」になれる場所がある。それが幸福でなくて、何だろう。


それが、わたしたちの「形」だった。


ある朝、カイがパンを渡しながら言った。


「もうすぐ、監察局から結果が出る」


「そうですか」


「……緊張しないのか」


「もう、やれることは全部やりました。あとは結果を待つだけです」


カイがわたしを見た。少し驚いたような顔。


「変わったな、お前」


「カイさんのおかげです」


「俺は何もしていない」


「いいえ。隣にいてくれました。それが、全部でした」


カイの耳が赤くなった。朝日のせいだと思うことにした。


──たぶん、朝日のせいではない。わたしにも分かっている。


カイにも分かっている。だけど、このまま言葉にしないでいい。


行動で伝わっているから。毎朝パンを買いに行くこと。


並んで歩くこと。茶を淹れて待っていること。それが、カイなりの伝え方だ。


一週間後、監察局の結論が出た。


ヴェルナーからの書簡には、こう書かれていた。


アルベルト・ドルークに対し、不正な財産取得の罪で追及が行われ、グランヴェール家の旧領地の売却は無効と判断された。領地はレティシア・グランヴェールに返還される。


書簡を読み終えたとき、不思議なほど静かな気持ちだった。


叫びたいわけでも、泣きたいわけでもない。ただ、長い道のりの果てに辿り着いた、という実感がある。


品書き一枚から始まった道。酒場の床掃除から。伝票の一枚一枚から。


すべてが、ここに繋がっていた。



領地の返還手続きのために、もう一度王都に行った。今度はカイだけでなく、マルタも一緒だった。


「あんたの晴れ舞台を見届けなきゃ、死んでも死にきれないよ」


マルタはそう言って、生まれて初めて馬車に乗った。窓の外を見る目が、子供のように輝いていた。


王都の登記所で手続きを済ませたあと、ヴェルナーとセレナに会った。


ヴェルナーは穏やかに笑っていた。


「商会の独立性は守られた。君のおかげだ、レティシア」


セレナは少し痩せていたが、目の光は強くなっていた。叔父との決別は、彼女にとっても大きな選択だったはずだ。


「レティシア。わたし、自分の名前で商いを始めようと思うの。ドルーク家の名前ではなく、わたし自身の名前で」


「きっとうまくいきます。セレナさんは聡い方ですから」


セレナが微笑んだ。王都の会議で見た仮面の微笑みではなく、本物の。


帰りの馬車の中で、マルタが窓の外を眺めながら呟いた。


「あんたの親父さんも、喜んでるだろうね」


父。借金に追われ、病に倒れ、すべてを奪われた人。


だけど、教育だけは受けさせてくれた。その教育が、わたしを生かした。


「……そうだと、いいです」


隣に座っていたカイが、何も言わずにわたしの肩に、自分の上着をかけてくれた。馬車の中は少し冷えていた。


わたしはその上着の温もりに包まれながら、目を閉じた。


上着にはカイの匂いがした。紙とインクと、かすかに石鹸の香り。


働く人間の匂いだ。安心する匂いだ。


うとうとしながら、品書きを書いた最初の夜のことを思い出す。あの夜、わたしには何もなかった。今は、こんなにもたくさんのものがある。


リンデに着いたのは、夕暮れ時だった。宿の前で馬車を降りると、見慣れた石畳の街並みが夕焼けに染まっている。


マルタが宿の扉を開けた。いつもの乾いた草の匂い。


カウンターの奥に干してある草の束。壁に貼られた、わたしが書き直した品書き。


全部、ここから始まった。


「さあ、今夜は祝いだ。とびきりの煮込みを作ってやるよ」


マルタが厨房に入っていく。カイは帳場に寄りかかり、わたしを見ていた。


「レティシア」


「はい」


「これからどうする。領地が戻れば、貴族として暮らすこともできる」


考えた。だけど、答えはもう決まっていた。


「ここにいます。リンデで、商会の仕事を続けます」


「……いいのか」


「わたしの居場所は、ここですから」


カイの目が、ほんの一瞬だけ揺れた。それから、今まで見た中で一番はっきりとした笑みを浮かべた。口角がちゃんと上がった、本物の笑顔。


「そうか」


たった二文字。だけど、その二文字に込められたものの重さは、わたしにはちゃんと分かった。


窓の外で、夕焼けが終わろうとしている。橙色が紫に変わり、やがて最初の星が瞬く。


才色兼備でも、文武両道でも、無敵でもない。わたしはただ、目の前のことを一つずつ積み上げてきただけだ。品書きを書き、伝票を読み、証拠を揃え、人を信じた。


「無敵」というのは、たぶん、そういうことなのだ。誰かを打ち負かす強さではなく、何度倒れても立ち上がる粘り強さ。そして、隣にいてくれる人を信じる勇気。


マルタの煮込みの匂いが、階下から漂ってくる。


わたしは階段を降りながら、小さく笑った。


夕食は、マルタの自慢の煮込みだった。じゃがいもと羊肉と根菜のシチュー。


この世界に来て最初に食べたのも、マルタの煮込みだった。あの時は味が分からないほど疲れていた。


今は、一口ごとに味が広がる。塩加減が完璧で、肉は柔らかく、じゃがいもはほくほくしている。


マルタの味だ。この味があれば、どこにいても帰ってこられると思った。


食卓にはカイもいた。マルタが「あんたも食べな」と半ば強引に座らせたのだ。


カイは居心地悪そうにしていたが、スープを一口飲んで、小さく目を見開いた。「美味いな」と呟いた。


マルタが「当たり前だ」と胸を張った。わたしは二人のやり取りを見ながら、静かに笑った。


この食卓が、わたしの世界だ。前世にもこの世界にも、こんなに温かい食卓はなかった。


──さて、明日も仕事がある。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!

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