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【第1章完結!】才色兼備で文武両道のはずが、気づけば悪役令嬢の席に座っていました  作者: 渚月(なづき)
第1章

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第2話 落ちた先の景色

足音が止まり、扉が軋んだ。入ってきたのは、日に焼けた腕に盆を載せた中年の女性だった。


エプロンの裾が泥で汚れている。宿屋の女将だろうか。


「起きたかい。三日も寝てたんだよ、あんた」


三日。わたしはその言葉を、他人事のように聞いた。


盆の上には硬そうなパンと、湯気の立つスープ。空腹を感じて、この身体がまだ生きていることを知る。


「名前は? どこから来たの」


答えられなかった。名前が出てこない。女将は怪訝そうに眉を寄せたけれど、それ以上は訊かずに盆を置いてくれた。


「まあいい。食べな。それから話しな」


扉が閉まり、一人になる。スープを一口含むと、塩気が沁みた。泣きそうになったのは味のせいだと思うことにした。


食べながら、頭の中を整理する。この身体の名前は──分からない。


だけど断片的に浮かぶものがある。広い屋敷。


厳しい教師。「出来損ない」と囁く声。そして、馬車から放り出されるような衝撃。


つまり、わたしはこの身体の持ち主に「なった」のだ。しかも、どうやら追い出された直後の状態で。


窓から街を見下ろす。石畳の坂道、乾いた風、荷車を引く人々。


王都ではない。地方の、それも小さな商業街のようだった。


屋根の赤茶色が続く通りの先に、乾物屋の看板や、布を干す女性の姿が見えた。生活の匂いがする街だ。



着替えを探して部屋を漁ると、粗末な旅装束と、革の小袋がひとつ見つかった。中身は銅貨が数枚。


それだけ。袋の底を指で撫でても、何も出てこない。


前世の記憶は──ある。曖昧だけれど、確かにある。


わたしはかつて、別の世界で生きていた。仕事があり、日常があり、そしてある日突然それが途切れた。


詳細はまだ靄の中だけれど、「社会で働いていた」という感覚だけは身体に染みついている。絞め切りの電話、朝まで走り書きした企画書、先輩のあきれた笑顔。断片だけが光のように窺れては、すぐに薄れていく。


だから分かる。銅貨数枚では、この宿に三日もいられない。


階下に降りると、女将が帳場に座っていた。宿は一階が酒場を兼ねている造りで、昼間でも数人の客がいる。カウンターの奥には干した草の束がぶら下がり、乾いた草の匂いが店内に漂っていた。


「あの、宿代のことなんですが」


女将は腕を組んだ。


「あんたを運び込んだのは商人の荷馬車だよ。路地で倒れてたって。宿代は三日分、銀貨二枚。払えるのかい」


銀貨二枚。手持ちの銅貨を全部合わせても足りない。


胸の奥で、小さな焦りが燃える。けれど、それを顔に出しても何も始まらない。


頭が回転する。ここで泣いても意味はない。


前世でも、手持ちがないときは知恵で乗り切った。まず状況を把握し、使えるものを洗い出し、対価を示す。交渉の基本だ。


酒場を見回した。テーブルの配置、客の入り。


壁に貼られた手書きの品書き。品数は少なく、値付けに統一感がない。


走り書きの文字は読みづらく、インクの滅びも目立つ。料理の並び順にも規則性がなく、おすすめがどれかも分からない。


客の目線に立てば、何を頼めばいいのか迷うだろう。迷った客は、結局一番安いものを頼む。


それでは店の利益は伸びない。前世で学んだマーケティングの初歩。


提案するなら、相手の利益を先に示す。それが交渉の鉄則だ。


「女将さん、ひとつ提案があります」


女将が片眉を上げた。


「宿代の代わりに、この酒場の品書きを書き直させてくれませんか。見やすくして、おすすめ順に並べ替える。読みやすい品書きは客の注文を増やします」


女将はしばらく黙っていた。それから品書きと、わたしの顔を交互に見た。


「……字が書けるのかい、あんた」


「はい」


この世界の文字が読めることは、さっき部屋で確認していた。壁に掛かった古い暦や、窓枠に彫られた祈りの言葉が読めたとき、胸を撫で下ろした。


この身体の持ち主が教育を受けていた証拠だ。追い出されたとはいえ、それなりの家の出身なのだろう。


女将は鼻を鳴らした。


「いいよ。ただし品書きだけで銀貨二枚分だと思うなよ。酒場の手伝いもしな」


「もちろんです」


安堵で膝が少し緩んだ。けれど顔には出さない。交渉では、弱みを見せた瞬間に条件が変わる。


その日から、わたしはこの小さな宿の手伝いを始めた。皿を運び、床を拭き、そして夜は品書きの下書きに没頭した。紙とインクは女将から借りた。


品書きは翌朝に仕上がった。料理を「軽食」「煮込み」「焼き物」「飲み物」に分類し、一番人気になりそうな煮込みを先頭に持ってきた。


文字の大きさに強弱をつけ、値段は右端に揃えた。前世で見た、行きつけの食堂の品書きを思い出しながら。


女将はそれを壁に貼り、じっと見つめた。


「……悔しいけど、見やすいね」


その夜、煮込み料理の注文がいつもより多かったと、女将が少しだけ口角を上げて教えてくれた。


小さな成功。だけど、わたしが知りたいのは別のことだった。


この身体は誰なのか。なぜ追い出されたのか。そして──この先、どう生きていくのか。


酒場で耳を澄ませた。客たちの会話に、この街の情報が混じる。


ここはリンデという街で、内陸の交易路の中継点らしい。大きくはないが、季節ごとに商人が行き交う。市場が立つ日は通りが賑わい、そうでない日は静かな、穏やかな街だという。


住人は職人と小商人が多く、よそ者に対しても比較的寛容だと客の一人が語っていた。物資の中継地だけあって、異国の品が時折流れ込む。香辛料の匂いや、見たことのない織物が、酒場の客の話題になることもあった。


そしてもうひとつ、気になる話を拾った。


「今度の領主代行の査察、また厳しいらしいぜ」


「ああ。あの若い役人だろ。融通が利かないって評判だ」


領主代行──。その言葉に、胸の奥が小さく跳ねた。


理由は分からない。ただ、この身体がその言葉に反応している。


わたしは皿を拭く手を止めずに、耳だけを傾け続けた。


マルタの宿の二階には、わたしの部屋の他に二つの客室があった。旅人が泊まることもあるが、この時期は空いていることが多い。


廊下の窓から見える路地裏には、野良猫が日向ぼっこをしている。この小さな世界が、今のわたしのすべてだ。だけど、すべてが小さいからといって、価値がないわけではない。


名前も過去もない。手元には、借り物の寝床と、たった今身につけた小さな信用だけ。


それでも。次に奪われるのは、わたしではない。


深夜、酒場の片付けを終えて二階に戻ると、枕元に畳まれた布が置いてあった。女将が出してくれた替えの毛布だ。


厚い。温かい。


織り目が少しだけ毛羽立っていて、何度も洗って使い込んだのが分かる。それでも、今のわたしには十分すぎるほどの温もりだった。


毛布を抱えた手が、また少し震えた。今度は寒さではなく。


──朝になれば、もっと動ける。


そう思って目を閉じた瞬間、頭の奥で声が弾けた。鮮明な、女の声。


『あなたは、レティシア・グランヴェール。覚えておきなさい』


──わたしの名前が、やっと見つかった夜だった。

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