第19話 王都の朝焼け
理事会の翌日。王都は、嘘のように穏やかな朝を迎えていた。
宿の窓から、朝焼けに染まる街並みが見える。赤と橙と金色が混じり合い、石造りの建物を温かく照らしている。
こんなに綺麗な朝焼けを見たのは、この世界に来て初めてかもしれない。前世では、朝焼けを見る余裕がなかった。
始発電車の窓から一瞬だけ見えた空の色は覚えているけれど、立ち止まって眺めたことは一度もない。今は、立ち止まる時間がある。
カイが隣にいて、朝焼けを一緒に見てくれる。その贅沢さを、前世のわたしは知らなかった。
時間に追われ、成果に追われ、立ち止まることを恐れていた。この世界に来て、やっと分かった。
立ち止まることは、怠けることではない。大切なものを確かめる時間だ。
橋の欄干に手を置いた。石の冷たさが心地いい。
川面に映る朝焼けが揺れている。この世界の川は、前世で見た川より細いけれど、水の音は同じだ。流れる水の音は、どの世界でも人の心を静めてくれるらしい。
昨日の理事会の後、わたしはほとんど眠れなかった。けれど不思議と、疲労はなかった。体の中に、静かな充足感がある。
朝食の前に、カイが部屋の前に立っていた。
「散歩に行かないか」
二人で、朝の王都を歩いた。商店街はまだ眠っていて、通りには朝露を掃く人の姿がぽつぽつとあるだけだ。
カイは歩きながら、昨日の理事会について何も言わなかった。代わりに、通りの花屋や、早朝から窯に火を入れるパン屋のことを、ぽつりぽつりと話した。
代わりに、通りの花屋や、早朝から窯に火を入れるパン屋のことを、ぽつりぽつりと話した。何でもない会話。
だけど、それがどれほど贅沢なことか。戦いの後に、何でもない話ができる相手がいること。それ自体が、勝利の一つだと思った。
戦いの後に、何でもない話ができる相手がいること。パン屋の窯の匂いについて語り合える相手がいること。それ自体が、勝利の一つだと思った。
「あのパン屋、リンデの路地裏の店より大きいな」
「でも、わたしはあの小さいパン屋の方が好きです」
カイが、ほんの少しだけ口角を上げた。
橋の上で立ち止まった。川面に朝焼けが映っている。
「レティシア」
「はい」
「よくやった」
短い言葉。だけど、カイの声には、これまで聞いたことのない温かさがあった。わたしは川面を見つめたまま、小さく頷いた。
わたしは川面を見つめたまま、小さく頷いた。泣きそうになるのを堪えていたのは、内緒だ。
「一人では、ここまで来られませんでした」
「俺は傍にいただけだ」
「それが一番、大きかったんです」
カイが黙った。川の流れる音だけが聞こえる。
それから、カイの手がわたしの手に触れた。今度は資料越しではなく、直接。冷たい朝の空気の中で、その手だけが温かかった。
どちらも、何も言わなかった。手を繋いだまま、朝焼けを見ていた。
言葉はいらなかった。川面に映る朝焼けが、二人の影をオレンジ色に染めている。
この瞬間を、わたしはたぶん一生忘れない。前世の記憶がどれだけ薄れても、この手の温もりだけは残るだろう。
カイの手は少し荒れていて、ペンだこがあった。働く手だ。その手が、わたしの手を握っている。
言葉はいらなかった。川面に映る朝焼けが、二人の影をオレンジ色に染めている。
この瞬間を、わたしはたぶん一生忘れない。前世の記憶がどれだけ薄れても、この手の温もりだけは残るだろう。
◇
午後、ヴェルナーから報告があった。
「アルベルト・ドルークが、商会の理事会決議に対して異議を申し立ててきた。「すべて合法的な取引であり、不正は存在しない」と」
予想はしていた。アルベルトは簡単には認めない。権力と財力を持つ人間は、最後まで抵抗する。
「ただし──」
ヴェルナーが続けた。
「王都の監察局がこの件に関心を示している。商会の告発だけでなく、公的な調査に発展する可能性が出てきた」
公的な調査。それはもう、商会の内輪の問題ではなくなるということだ。
「そしてもう一つ。セレナ・ドルークの証言は、監察局にも提出されることになる。──彼女は、叔父と正式に決別した」
セレナが、壁の向こう側から出てきた。自分の意志で。
胸の奥が熱くなった。あの庭で花に触れていたセレナの横顔を思い出す。閉じ込められていた人が、自分の足で歩き出した。
「ヴェルナーさん。この先は、時間がかかりますか」
「ああ。公的な調査は慎重に進む。結論が出るまで数ヶ月はかかるだろう。──だが、もう止まらない。証拠が揃い、証言がある。アルベルトが何を言おうと、事実は覆せない」
──だが、もう止まらない。証拠が揃い、証言がある。
アルベルトが何を言おうと、事実は覆せない。わたしたちが積み上げてきたものは、権力では壊せない。
数ヶ月。長い道のりだ。だけど、品書き一枚から始まった道を思えば、驚くほどのことではない。
その夜、宿の部屋でセレナからの短い手紙を受け取った。
『怖かった。でも、あなたが前に進んでいるのを見て、わたしも進みたくなった。ありがとう、レティシア』
手紙をそっと畳み、胸の近くにしまった。
マルタの紙片と、セレナの手紙。二つの紙片が、わたしの胸ポケットに入っている。二人の女性の勇気が、ここにある。
窓の外で、王都の夜が静かに更けていく。明日はリンデに帰る。
帰る場所がある。待ってくれている人がいる。
マルタの宿に、酒場に、わたしが書いた品書きがある。それだけで、十分だ。
マルタの宿に、酒場に、わたしが書き直した品書きがある。カイがいて、マルタがいて、パン屋の老人がいる。わたしの居場所は、もう「ここ」にある。
帰りの馬車の中で、マルタはずっと窓の外を見ていた。王都の街並みが遠ざかり、平原が広がり、やがて見慣れた丘陵地帯に入る。
マルタの横顔は穏やかだった。「若い頃、一度だけ王都に行きたいと思ったことがある」とマルタが呟いた。
「でも結局、行かなかった。宿を一人で切り盛りしてたからね」。その言葉に、マルタが手放してきたものの重さを感じた。
わたしのために、マルタは初めて王都に来てくれた。その事実が、胸に熱いものを落とす。
馬車が丘を越え、リンデの街が見えてきた。赤茶色の屋根が夕日に光っている。
あの屋根の下に、わたしの居場所がある。マルタが窓から身を乗り出し、「見えてきた」と言った。
その声が、子供のように弾んでいた。わたしも窓に顔を近づけた。
風が髪を乱したが、構わなかった。帰ってきた。ここに、帰ってきた。
──帰る場所がある。待ってくれている人がいる。それだけで、十分だ。




