第15話 前世の欠片
父の借金の調査は、予想以上に時間がかかった。借金の記録は債権者側が持っているため、こちらから直接アクセスする手段がない。
ヴェルナーが動いてくれた。本店の商務として、ドルーク家の関連商会の取引記録を精査するという名目で、内部の情報を集め始めた。
その間、わたしはリンデで支所の仕事をしながら、もう一つの問題と向き合っていた。
前世の記憶だ。
この世界に来てから数ヶ月、前世の記憶は断片的にしか蘇らなかった。仕事をしていた。
社会で生きていた。そしてある日、途切れた。
それだけ。だが最近、ふとした瞬間に、より鮮明な記憶が浮かぶようになっていた。
この世界に来てから数ヶ月、前世の記憶は断片的にしか蘇らなかった。仕事をしていた。
社会で生きていた。そしてある日、途切れた。それだけ。
だが最近、ふとした瞬間に、より鮮明な記憶が浮かぶようになっていた。
伝票を整理しているとき、指先が覚えている感覚──キーボードを打つ動き。カイと並んで歩くとき、ふと思い出す──同僚と肩を並べて帰った夜道。マルタのスープを飲むとき、重なる記憶──母が作ってくれた味噌汁の味。
──キーボードを打つ動き。書簡を書くとき、自然と段落構成を考える癖。
マルタの料理を味わうとき、カロリーを計算しそうになる習慣。前世の自分が、こんなところにまで染みついている。
前世のわたしは、たぶん、そんなに特別な人間ではなかった。会社で働き、終電で帰り、休日には少しだけ好きなことをする。
平凡な日常。だけど、その日常の中で身につけた「考える力」と「観察する力」が、この世界では武器になっている。
だけど、その日常の中で身につけた「考える力」と「観察する力」が、この世界では武器になっている。前世のわたしは、自分を「普通」だと思っていた。
特別な才能もなく、華々しい実績もない。だけど「普通」を積み重ねた結果が、今のわたしを支えている。
会社で働き、終電で帰り、休日には少しだけ好きなことをする。友人は多くなかったけれど、信頼できる人が数人いた。
恋人はいなかった。仕事に夢中で、そういうことを考える余裕がなかった。──カイのような人が隣にいたら、あの頃の自分は変わっていただろうか。
ある夜、宿の部屋で窓を開けていると、ふいに涙が出た。
理由は分からない。悲しいわけでも、辛いわけでもない。
ただ、前世の自分が「もういないのだ」ということを、身体が改めて理解したのだと思う。あの世界にはもう帰れない。
あの世界の人たちに、もう会えない。先輩は元気だろうか。隣の席の同僚は、わたしがいなくなったことに気づいただろうか。
理由は分からない。悲しいわけでも、辛いわけでもない。ただ、前世の自分が「もういないのだ」ということを、身体が改めて理解したのだと思う。
あの世界にはもう帰れない。あの世界の人たちに、もう会えない。
だけど──あの世界で学んだことは、消えていない。わたしの中に、確かにある。
涙を拭いて、窓を閉めた。前を向く。それしかないし、それでいい。
あの世界で学んだことは、消えていない。データを読む力、構造を見抜く力、人を説得する力。
そして何より、「諦めない」ということ。それらすべてが、今のわたしを支えている。
前世のわたしに感謝しよう。あなたが積み上げたものは、ちゃんと受け継がれている。
あなたが積み上げたものは、ちゃんと受け継がれている。地味な日々の中で培った力が、異世界で花開いている。それは十分に誇っていいことだと、今なら思える。
◇
翌週、ヴェルナーから書簡が届いた。
中身を読んで、息を呑んだ。
グランヴェール家への主要な貸付先は三つあった。そのうち二つは正当な商会だったが、残りの一つ──最も高利で、最も多額の貸付をしていた先──は、ドルーク家の当主アルベルトが個人的に出資する金融業者だった。
しかも、この貸付が始まったのは、父が病に倒れた直後だった。病で判断力が鈍った父に、高利の借金を背負わせた。返済が滞ったところで屋敷と領地を差し押さえ、形式的な競売で安値で買い取った。
すべてが、一つの線で繋がった。
ドルーク家の当主アルベルト・ドルークが、グランヴェール家の領地を手に入れるために、計画的に父を追い詰めた。借金、差し押さえ、競売操作、そしてわたしの排除。
一連の流れは、偶然の連鎖ではなく、意図された収奪だった。証拠は揃った。
貸付記録、売却記録、入札記録、人事の繋がり。すべてを並べれば、どんな監査官でも見逃せない。
ドルーク家の当主アルベルト・ドルークが、グランヴェール家の領地を手に入れるために、計画的に父を追い詰めた。借金、差し押さえ、競売操作、そしてわたしの排除。一連の流れは、偶然の連鎖ではなく、意図された収奪だった。
証拠は揃った。貸付記録、売却記録、入札記録、人事の繋がり。すべてを並べれば、どんな監査官でも見逃せない。
書簡を握る手が震えていた。今度は怒りでもなく、恐怖でもなく。
──やっと、ここまで来た。
カイに報告すると、カイは長い間黙っていた。それから、静かに言った。
「ヴェルナーに連絡する。告発の準備を始めよう」
告発。その言葉を聞いた瞬間、胸の中で何かが定まった。品書き一枚から始まった道が、ここに至る。
宿の床掃除から。伝票の一枚一枚から。前世の記憶と、この身体の教養と、出会った人々の支えが、すべてこの瞬間のためにあった。
カイに報告したとき、カイの表情は変わらなかった。だが、握りしめた拳が白くなっていた。
怒り。カイもまた、この事実に怒っている。
自分のためではなく、わたしのために。その怒りが、不思議と嬉しかった。
一人で怒る必要がないということ。誰かが一緒に怒ってくれるということ。それがこんなにも心強いとは。
誰かが一緒に怒ってくれるということ。それがこんなにも心強いとは。
前世では、理不尽なことがあっても一人で飲み込んでいた。「大人だから」「仕方ないから」と。
だけど本当は、一人で飲み込む必要なんてなかったのだ。信頼できる人に分かち合えばいい。
カイが教えてくれた。行動で、態度で、あの握りしめた拳で。
告発の日が近づいている。すべての準備が整いつつある。
証拠、証言、そして告発の場。あとは、わたしが立ち上がるだけだ。
あの朝、知らない天井を見上げた日に決めたこと。「もう、黙って奪われるのは終わりにする」。あの決意は、今も胸の中で燃えている。
──だが、敵もまた動いていた。翌日、セレナ・ドルークからの書簡がリンデ支所に届いた。




